三十六話 取扱注意
視界の外からは足音が近付いてきていた。
五人は図面のあった位置を見つめていたものの、気配の方へ頭を上げる。
振り向いた先には、柔和な微笑みを浮かべたバネッサが立っていた。
「あら、随分楽しそうねぇ。少し騒がしいから様子を見に来てしまったわ」
バネッサは五人が見つめていた場所を横目に、ネーレウスと目を合わせる。
はっとした表情を浮かべた後、ユーリアは緊張した面持ちで顔を見交わす二人の間に割って入った。
「司教様!あの…今、ネーレウスさんに身体強化の呪いを見てもらっていたのですが…エルザに…魔力の気配が…身体強化の呪いも…」
今しがた起こった事への説明はしどろもどろだった。
それでもなお、起こった事象への異様さはバネッサに伝わっていた。
皺だらけの面持ちに陰が僅かに差す。
「…ユーリア。でも、エルザ本人は困ってなさそうだし…」
リヒトは組手で痛めた肩を回しながら、慌てるユーリアを宥めた。
まるで励ますかのように、シャロンはその後に台詞を付け足す。
「エルザお姉ちゃんもいつか使えるようになるよね…?魔法…?」
沈黙が再び続く。
その三人の発言にバネッサは眉を顰めていた。
木々の隙間から落ちる温かい陽光の下で、冷たい風が六人の間を駆け抜けていく。
バネッサから目を逸らすと、ネーレウスはただ黙りこくったまま思案した表情を浮かべる。
しかし、無言の時間は長くは続かなかった。
やがて痺れを切らしたかのように、エルザの声が落ちる。
「なんだ、司教様来るなら…あの図面見てもらいたかったな。まあ落書きだけど」
「図面?」
バネッサが静かに尋ねる。
「…まあその、なんだ。大したものではないんだが」
「でかい魔弾があったら便利そうだなあと…。なのにこいつが消しやがって」
エルザは忌々し気にネーレウスの脇を小突く。
「ちょ、ちょっと…」
「続けて下さる?勇者様…いえ、エルザ」
ネーレウスの苦言もそのままにバネッサは彼女の説明を促した。
顔を合わせたままのネーレウスとバネッサに微かな違和感を覚えながらも、エルザは口を開く。
「板か何かの下にバネと魔力を含んだ炸薬、起爆剤を重なるように取り付ける。踏まれた衝撃で内部の起爆剤が火花を産む、炸薬に点火、術式と共に爆発。ほぼ魔弾と同じ理屈」
「…違うのは引き金だけ。そんなに難しいものではない」
「最悪、あの死食鬼の動きだけでも封じられれば良いと思っただけだ。魔弾が心臓を撃ち抜けば勝てる」
描いていた図面についてエルザは身振り手振りを交えてバネッサに伝える。
「どうして…貴方がそんなものを思いつくのかしらね?」
バネッサは眉を顰め、エルザをじっと見つめる。
その剣幕に、面食らったような調子の言葉が続いていく。
「いや、その…私は本当にどうやら魔法が使えないらしい。運動音痴の魔法版みたいなもんだとは思っているんだが…」
「あの死食鬼には…物理攻撃が通用していなかった。そして…動きも早い。シャロンやネーレウスに攻撃を撃たせる為に私が囮になり続けるのも限界がある」
「ならば、敵が自爆するような罠におびき寄せた方が勝率は高い」
「もし…作れるならだが」
彼女の説明はそこで終わった。
腑に落ちない様子でバネッサは暫くエルザを見ていたが、やがて重々しい口調で意見した。
「なるほど、確かにかなり効率的だと思う。魔弾よりも有用な手段になりうる。が、流石に危険かと」
「話を聞いた限りでは術式の…爆発の規模が分からない」
「そして殺傷能力。万が一死食鬼ではないものが踏んだとしたら、それは事故になりうる。勿論、貴方が踏んだ場合も…無事ではすまないでしょうね」
その台詞を聞いて、ユーリアとシャロンの顔が瞬く間に青ざめていく。
バネッサのただならぬ様子から、エルザが作ろうとしている物が恐ろしい物である事を察したようだった。
「完全に安全な道具なんてこの世には存在しない。使い方次第だ」
エルザは思わず、そう呟く。
怯える二人と、悪びれる様子のない勇者に対し、リヒトだけは何かをまだ思案していた。
そして彼はついに口を開く。
「司教様…。確かに危険な物ではあると思います。しかし…俺も昨日の死食鬼を見て…エルザの考えは…決定打になるかと」
「エルザは昨日…シャロンの攻撃を当てさせるために大怪我を負いました。ネーレウスさんがすぐに治療しましたが…」
彼の意見に、バネッサの顔は更に険しくなった。
「治癒魔法は通る?…身体強化は通らないのに…?」
「…まあ、いいわ。確かに死食鬼は強い、しかし…連携して戦う事も重要よ」
今までの険しい表情が錯覚であったかのように、バネッサは柔和な笑みを浮かべる。
この笑みの裏で、老巧たる思考が渦巻く。
――魔術理論を工学的な理論に変換する異質な勇者。また、この死食鬼騒動も、あの“勇者の隣の男”なら一人で突破可能であるが…勇者に熱を上げるばかりで同行している目的は不明。
「…戦力として、お力添えいただけると心強いのですが…どうかしら?…ネーレウスさん?」
バネッサの視線はふいに逸れ、再びネーレウスを凝視した。
ふと、その発言にエルザは僅かな違和感を覚える。
しかし、それについて考えを巡らせる前に、バネッサの台詞は続く。
「勿論、ご判断は貴方に委ねるべきでしょうが」
まるで釘を刺すかのような声にネーレウスは苦笑するも、静かに頷いた。
彼はバネッサと同意見だった。
「そうだよ、エルザ。私も手伝うよ。…君がバトルマニアで難敵を独り占めしたいのは分かるけど…」
彼がそう言い終えるとエルザは不満げに睨みつける。
「ご同意いただけて、教会側としても嬉しい限りです」
「さて…ネーレウスさん。この後少しお茶でもいかが?うちのユーリアに講義していただいたようなので、もし良かったら…」
バネッサの提案にネーレウスは気まずそうな笑いを浮かべる。
「…えぇ、そうですね。少しのコツを教えただけで大したことはしていませんが…」
「私も丁度、司教様にお話したいことがありまして」
その言葉の後、ネーレウスはエルザの方を見る。
「夕飯までには戻るからね」
「それから、興味深い現象が見れて楽しかったよ。ユーリア、誘ってくれてありがとう」
更に、ユーリアに言葉は続き、彼は冒険者三人に会釈をすると、バネッサと共に立ち去って行った。
冒険者三人組と勇者エルザは小さくなっていく二人の後ろ姿を見送っている。
「…私もおやつ食べたいなあ…」
エルザのぼやきがふいに、温かい昼下がりの木漏れ日の下に落ちる。
その一方で、冒険者三人組は暫く立ったまま、各々の顔を見つめ合っていた。
「……なんか…あの二人、司教様とネーレウスさん…」
「距離感がちょっと変?だよな」
教会に入っていく二人の影を確認した後、リヒトはひそひそと話しかける。
「そうよね。過去に何かあったのかしら?…明らかに警戒しているように見えるのよね」
「…上層部の人間?でもそれだと辻褄が合わないような」
ユーリアは俯いたまま、考え込んでいる。
――シャロンに教えていた異質な、誰も知らないような知識体系。そして、それを知る者。
異教の人間?それならば、司教様はもっと神学の教えを説くはず。
「…司教様は…その、ネーレウスさんの…本当の実力を知っている…?」
ユーリアがその答えに辿り着いた時、エルザは沈黙を貫いた。
――“この世の全ての冒涜を詰め込んだ存在。しかし完全な敵ではない”
彼女がバネッサとの会話を思い出した瞬間、ふと、彼女の腹の虫が鳴き声を上げる。
「もう…貴方、今おやつの事しか考えてないでしょう?」
緊張感に包まれた空気の中、鳴り響く音にシャロンは吹き出しかけ、ユーリアは呆れていた。
「いや、まあ…確かに小腹は空いているが」
エルザはたじろきながらも、視線を逸らす。
そして空腹の音の次には、時刻を知らせる鐘の音が鳴った。
その音を聞いて、ユーリアは慌てた様子でスカートの土埃を払う。
「あっ、もうこんな時間だったのね。私また授業しなきゃ。皆、またね」
そう言うと、ユーリアは教会まで駆けていった。
遠ざかる足音を聞き終えて、リヒトはひっそりとエルザに尋ねる。
「…なあ、エルザ。本当にあの地雷…作る気なのか?」
「…一応は、そのつもりだ」
エルザは思案しつつ、冷静に答える。
「怪我とか、もし、間違えて踏んじゃったら…」
シャロンは心配そうにエルザの顔を見つめた。
「…まあ、大丈夫だろう。誰も来ない場所に死食鬼を誘き寄せれば…問題は、どう作るかだ」
そして、ポケットから煙草を取り出すと一服し始めた。
煙と共に吐き出された台詞は、二人に僅かな不安を残していく。
辺りには細い煙が一筋揺らめき、ヤニとマッチの赤燐の匂いがリヒトとシャロンの鼻を刺した。




