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三十一話 プリンは交渉の材料に入りますか?

 そして、修道院に戻ったエルザは、誰も起こさないように慎重に借りている一室に向かい、扉を開けた。

 中では部屋の隅で、ネーレウスが床に胡座をかき、じっと目を閉じていた。

 動く様子はなく、彼の周囲だけが時が止まったかの様に見えた。

 入口の壁に掛かった燭台の火が揺れる。


「おーい?なんだ、随分変わった姿勢で寝てるんだなあ…」


 エルザは物珍しそうに彼を眺め、呑気にそんな感想を抱いた。


「起きてるよ」

「そうだよな、いくらお前でもその姿勢じゃ熟睡出来んよな」

「ちょっと瞑想をしていたんだ。今日はお疲れ様」


 ネーレウスは目を開け、体勢を崩した。


「どうも。なあ…今日の討伐の間どこに居たんだ?」

「畜舎にずっと居たよ。ただ、実は…司教様から出るなと言われていてね」

「何故だ?」


 眉間に皺を寄せるエルザとは対照的に、ネーレウスは冷静に事情を説明する。


「修練にならないから、らしいよ。その結果として、君は大怪我を負ってしまったけれど…あれ以上長引きそうなら出てこようかとは思っていた。これに懲りてこれからはもう少し大人しくしててね」

「そうだったのか、全然気付かなかった。まあ、お前が居なくても何とかはなったが…駄目だ、まだ私には力量が足りていない。まさか筋力と速さが私よりも上だとは…あの死食鬼め、いつか潰す」


 エルザの戦闘狂に灸を据える良い切っ掛けになったかと思いきや、全然そんな事は無かったので、ネーレウスは笑い声を上げた。


「ふふっ君は…やっぱり面白いね」

「なんだ?私が獲物を倒し損ねたのがそんなに面白いか?」

「そうじゃないよ」


 ネーレウスは恨めしそうなエルザに睨まれ、首を竦めた。


「…とにかく、奴を倒す為にはかなり鍛えていかないと無理だ。いや、それとも狙撃であれば…いけるか…?」


 そう言いながら、エルザは片手で軽々と腕立て伏せを始めた。


「いくら治癒魔法を掛けたとはいえ、もう少し安静にしていたらいいのに」


 息を切らすことも無く、腕立て伏せは続けられており、興味深そうにネーレウスはその様子を眺めている。

 彼女が力尽きる事はなく、この地道な特訓はまだ暫くは続きそうだ。


 徐々に空は白み初め、外から聞こえていたフクロウの鳴き声は小鳥の囀りに変わっていく。

 時間が過ぎていってもなお、黙々とトレーニングを詰んでいたが、やがてエルザは手を止めて立ち上がった。


「なあ…お前。寝ないのか?」


 数時間は動き続けていたにも関わらず、彼女は汗一つかいていない。


「君こそ寝ないの?」


 ネーレウスは部屋の隅から動かずに返事をする。

 エルザが戻ってきてからの彼の動作は、今のところ瞼の開閉しか無い。


「そろそろ寝ようとは思うが…上の段使っていいか?」

「構わないよ」

「やったぜ」


 そう言いながら、エルザは二段のハンモックに掛けられている、ロープで出来た梯子をよじ登っていった。


「おやすみ、エルザ」


 彼の耳には、返事の代わりに軋むハンモックの音が聞こえてきた。

 窓からは薄明かりが徐々に入り込み、星が霞んで見える。


 それから少しして翌朝になり、廊下をバタバタ駆けていく子供達の足音によってエルザは目を覚ました。


「朝っぱらから元気だなあ…」


 寝そべったまま瞼を擦り、ぼやきながら大欠伸をするエルザに、ネーレウスは声を掛けた。


「おはよう」


 彼女の返事は無い。

 目覚めも束の間に、エルザは再び蕩けた微睡みの世界に戻っていた。


「早く起きないと、朝ご飯無くなっちゃうよ?」


 ネーレウスの鶴の一声は彼女を微睡の世界から覚まさせた。

 ハンモックの上段がモゾモゾ動いたかと思えば、欠伸混じりの呻き声が聞こえてくる。


「…うーん腹が減っては戦は出来ねえからな…でもあと十分…」

「十分で済めばいいけど。寝過ごしてお腹空かせても知らないからね」


 そうは言ったものの、彼が律儀に十分後に勇者を起こしたのは言うまでもなかった。


 二人が修道院の食堂に向かうと、子供達と修道女達が疎らに席についており、豆のシチューとチーズの欠片、生のパンを食べていた。

 また、各々のコップにはミルクが注がれている。

 奥の方にあるワゴンには良い匂いのする大釜と、籠に積まれたパンがあり、その横に配膳係らしき修道女が立っていた。

 大世帯らしい食事を目前に、エルザは壁に貼られた地図に気を取られていた。

 彼女の視線の先にある地図には、ベコ村の隣にあるオラサ村を挟んだ位置に、キアキ町が描かれている。


「どうかしたの?」


 ネーレウスは不思議そうにエルザの方を向く。


「なんでもない。昨日の死食鬼が言っていた町の位置について確認していた。キアキ町か…」

「なるほど、キアキ町の方まで逃げられたのか」

「うるせーよ!クソ、あの狼野郎、絶対とっちめてやる」


 彼女の暴言は背後からの声に遮られた。


「おはよう、二人共。ちょっと端に寄ってくれないかしら?通りたいんだけど…」


 エルザとネーレウスが振り向くと、ユーリアが立っていた。


「すまんな」


 端に寄る勇者一行にユーリアは手短に話し掛けた。


「あとそういえば、リヒトとシャロンが貴方達を呼んでいたわよ。食堂の端に居ると思う」

「分かった。でも一体何の用なんだ?」


 エルザは小首を傾げる。


「私も要件は聞いてないのよね。あっ、今急いでるからまたね。これから子供達の授業の準備の手伝いをしなきゃいけないの」


 そしてユーリアは早急に去っていった。


「大変なんだなあ……おっと、そうだ。朝飯」


 足早に小さくなっていくユーリアを眺めながらエルザはそうボヤくとワゴンの方に向かっていった。

 二人がワゴンに近付くと、配膳をしている若い修道女が愛想良く挨拶をした。


「おはようございます。貴方達がイーメンの勇者一行ですね」

「一応神託ではそういう事になっているらしいが…名乗ろうとは思っていない」


 エルザの表情は曇る。

 ネーレウスには彼女が心の底からうんざりしている様に見えた。

 しかしそれも知らずに、修道女は湯気の立つカラフルな豆のシチューとパンを木製のトレーによそいながら微笑んだ。


「それでも私達にとっては勇者様ですよ。それに司教様もとても褒めていらっしゃいましたし!これからも頑張って下さい」

「…どうも」


 二人は朝食が乗ったトレーを受け取り、修道女に一瞥すると、食堂の隅に居るリヒトとシャロンの姿を探した。

 そして、すぐにこの二人は見つかった。

 遠くからだったものの、エルザは子供達に紛れて席に並ぶリヒトと目があっていた。

 また、彼の隣では、トレーの上の豆と格闘するシャロンの姿がある。


「おーい!こっちだ!」


 リヒトは遠くから手を振る。

 この呼び声にシャロンは朝食の豆から目を離すと、歩いてくる勇者一行に向かって手を振った。


「よう。さっきユーリアとすれ違った時になんか話があるみたいな事を言っていたが…」


 エルザは用事を尋ねつつ、シャロンの斜め前に座った。

 そしてその隣にネーレウスは腰掛ける。


「実戦を交えて俺達に足りない物を教えて欲しいんだ。無理にとは言わないから」


 リヒトは食べていたパンをトレーの上に置く。


「んん?私達が?」


 困惑した様子でエルザは生返事をすると、パンを頬張り始めた。


「昨日の討伐で俺達は何も出来なかった」

「君にとっても後々、為になると思うからやってみたら?」


 引き受けるつもりらしく、ネーレウスは助け舟を出した。


「まあ別にいいが…私になんかメリットはあるのか?」


 しかし、彼女の返答は素っ気ない物だった。


「…私が取っておいたプリンあげる。それじゃダメ?」


 シャロンはじっとエルザを見つめた。


「…いいだろう。後悔するなよ?」


 悪戯っぽい笑いをエルザは浮かべ、シャロンははしゃいだ。


「食べ終わったら場所を移動しよう。この教会の外れに使わなくなった空き地がある」


 そしてリヒトは残りのパンを食べ始め、シャロンは忌々しげにトレーの上の豆のシチューを睨んだ。

 ふと、教会の鐘が鳴る。

 この時報と同時に食堂に居た子供達の大半は立ち上がり、駆けていく。

 やがて食堂には冒険者の二人と勇者一行しか居なくなった。

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