二十話 石版を回収しに行くようです
宿屋に戻った二人は翌朝を迎え、アーミョク町を去るところだった。
朝靄が晴れた頃で、大通りには仕事に向かう住民や冒険者が点在していた。
灯りが消えた街灯が並ぶ石畳では人の声や雑踏が飛び交っている。
颯爽と人混みを避けるエルザに対し、ネーレウスは歩きづらそうに人を避けた。
やがて進む内に二人はある地点に人だかりが出来ており、それがこの雑踏に拍車を掛けている事に気付く。
エルザが怪物の本体を殺した場所だ。
珍妙、かつ巨大な体躯をした死骸は明らかに朝の大通りからは浮いた存在になっていた。
「そういえば昨日の怪物、恐らく死食鬼だと思うんだけど、ちょっと奇妙な点があるから調べていい?」
ネーレウスはエルザにどうにか追いつきながら呼び止めた。
「なんだ?昨日のうちにやっときゃ良かったじゃねえか。まあいいが」
人の海を掻き分けて、死食鬼の死骸に接近するネーレウスと、路地裏に入り煙草を咥えるエルザは相変わらず対照的だった。
足元に数本の吸殻が散らばった石畳で、呑気に彼女が煙草の煙を目で追っていると、人混みの中から近づいてくる三人組の冒険者が目に入る。
「いないわねぇ、イーメンの勇者。折角仲間を助けて貰ったからお礼を伝えたかったのに。」
「まだこの辺りに居てもおかしくはないと思うんだけど」
むくれっ面の魔法使いの少女を連れて、僧侶の女性と剣士の青年か話し合いながら、辺りをキョロキョロ見回している。
気まずさを感じ、エルザは煙草を咥えたまま、外套のフードを深く被り三人組に背を向けた。
この勇者の心根は人見知りだった。
「あっ、居た」
拗ねた様子の魔法使いの少女が口を開く。
フードからはみ出した銀髪が後ろ姿から見えたようだ。
「ほら、ちゃんと挨拶してきなさい」
僧侶の女性に背中を押され、少女はよろめきながら、背を向けてその場から去ろうとするエルザに向かっていく。
「どうしてあの時、殺さなかったの?どうして昨日は助けたの?ねえ!」
少女は遠くから叫ぶ。
「さあな。お前、孤児だろう?もっと強くなれ」
エルザは少女を一瞥して去り、僧侶の女性や剣士の青年とすれ違った。
「イーメンの勇者!待って! まず、あなたを誤解していた事を謝らせて欲しい!」
僧侶の女性が引き留めようとしてもなお、勇者は立ち止まらなかった。
人混みに消えゆく勇者を僧侶は見送る他、選択肢はない。
落ちた吸殻が石畳で煙った。
エルザが掻き分けて潜り込んだ人集りの中心ではネーレウスが死食鬼の死骸の調査を進めていた。
変色して茶色とも紫ともつかぬ色合いになった体液に汚された石畳が彼女の目に入る。
蝿が湧き、鴉につつかれ、骨と僅かな肉しか残っていない死食鬼の死骸がただならぬ臭気を放っていた。
「なんか分かった事はあるか?」
エルザに声を掛けられ、ネーレウスは作業をやめた。
片手には大理石の様な模様をした紙で作られた横長の帳面、もう片手には青銅の小さい筒の先に筆の穂が付いた筆記用具を持っている。
彼の手の中の帳面には複雑な細長い文字が縦書きで書かれていた。
エルザが物珍しげに彼の筆記用具を眺めていると、返事が帰ってきた。
「そうだね…変異個体だと思うんだけど…そもそも死食鬼って言語を理解する程の知性や魔術能力を持たないんだ。それにあの身体」
「お、おう…?つまり?」
「自然に発生した可能性は極めて低い。言語を操っている点から、人為的な物が背景にある」
「な、なるほど…?で、どうするんだ?」
話の意図を掴めず、エルザは困惑を隠しきれていない。
「許される行為ではないよ。出元を確認したいし、石版も手に入れなければいけない。先を急ごう」
筆記用具と帳面を懐に仕舞い、ネーレウスはエルザの方を向いた。
「あっ、石版の事完全に忘れてた」
死食鬼の死骸から視線を逸らしてエルザは踵を返す。
その瞬間、死骸があった位置に塩とも灰ともつかぬ奇妙な砂の山が現れた。
「次の町に行く前に石版がある山の祠に寄ろうか、エルザ」
どよめく群衆に押し潰されそうになりながら、二人はその場を後にした。
アーミョク町を去った二人は石橋を渡り、木の根でボコボコした並木道に出た。
虫食いのある木々の足元には色とりどりの草花が生い茂り、無数の蜂や蝶が蜜を探して飛び回っている。
小鳥の囀りがどこかから聞こえ、死食鬼の存在がぼやけてしまう程には牧歌的だった。
ふと、エルザは足を止めて木々の隙間を観察し始めた。
「なあちょっとここで待っててもらっていいか?良い物を見つけた」
「いいけど…どこに行くの?」
「すぐに分かる。あっ、さっきメモに使ってた紙が一枚欲しいんだがいいか?」
唐突なエルザの言動にネーレウスは心許なさそうにしながらも、横長の帳面を導師服から取り出し、紙を一枚破いた。
「えっ何に使うんだろう…?これでいい?」
繊維が目立つ切り口の紙を受け取り、エルザは木々の間に潜り込んで行った。
そよぐ木の葉の音を聞き流しつつ、ネーレウスが待ちぼうけていると、袋状に折られて中身が詰まった帳面の紙を大事そうに持ったエルザが出てきた。
「な、すぐ分かるって言っただろう?」
そう言いながら袋状になった紙から、彼女は小さな黒い粒々が連なった、親指程の大きさの丸っこい果実を渡した。
彼女のぷにぷにした唇はニッと伸び、悪戯小僧のような雰囲気を醸し出している。
「なるほど、黒苺か。貰っていいの?」
「沢山採ったから問題無い。そうだ、半分に割ってから食べた方がいい、果汁目当ての蟻が紛れ込んでるかも。」
忠告を守り、ネーレウスが黒苺を半分に割って蟻が居ないか確認してから口に運ぶ横で、蟻の行を言い出した張本人は何も気にせずそのまま食べている。
「うーん…これ一粒で木苺十粒分くらいの濃厚さがある」
目を細めて黒苺を口に含むエルザをネーレウスは微笑を浮かべながら眺めていた。
黒苺を食べ終えて満足した二人が、坂道を登っていくと歪な三叉に別れた道に差し掛かり、朽ちつつある道標が視界に入った。
真ん中の道は人の通った形跡があり一番広い。
右側の道は真ん中の道よりも広くなく、雑草が踏み固められた道を突き破り、人通りの少なさを表している。
奥まった左側の道は馬車が人が通れる程度の広さしか無い。
道標は一本の棒と、乱雑に打ち付けられた三枚の木の板で作られており、文字が掘られていた。
「ベコ村…?ビサレ集落郡…?もう一個はなんだこれ?」
「アタリヒ山だね。この山のどこかに祠があるらしい」
どうにか道標に彫られた文字を解読しようと躍起になっていたが、ネーレウスの返答によってエルザは視線を移す。
「藪漕ぎが必要かもな、先の道が埋もれているかもしれん」
今、彼女の視線の先にある物は一番左にある奥まった獣道だ。
先頭に出ると、エルザは短剣を片手持って左側の道に入っていき、ネーレウスも着いて行った。
そしてより接近しつつある藪を避けながら、二人は山の祠を目指していく。
急な勾配ではなかったが、湿った枯葉や土、地中を這う木の根によって足場は不安定である。
まだ日は高い位置で照っており、草木を煌めかせていた。
エルザが短剣で藪を切り開きながら先を行く中で、ネーレウスは足を滑らせて勢い良く薮に膝をついた。
「おい、大丈夫か?」
躓くネーレウスに手を差し伸べ、エルザは彼を立ち上がらせる。
「いたた…ちょっと転んだだけだよ」
導士服に付いた土や枯葉を払うと、彼は泥で汚れた平べったい革靴の紐を結び直して歩き始めた。
靴の泥汚れからは金色の刺繍飾りが疎らに見えた。
「ならいいんだが。ところで山の祠ってのはどの辺にあるんだ?」
エルザは歩くスピードを遅めて、自身の後ろを歩くネーレウスに振り向く。
「歩いていればきっと見つかる。気長に行こう」
「そもそも、こんな所に祠があるとも思えないんだが…」
足元に浮き出ている木々の根に注意しながら、勾配が増した獣道を二人は進み続けた。
いよいよ道幅は、兎が一匹通れるかどうかというところだ。




