十四話 SAN値の危険
野営地を片付けた後、日が高く昇る時間まで二人は馬車道を登っていたが、途中で馬車道を逸れて林の中へ再び入っていった。
日暮れ時とは一転して、荒れた馬車道は爽やかな緑の香りが充満している。
木漏れ日が降り注ぐ中、ひたすら歩き続けてようやく、二人は石版の入手に関係する洞窟に辿り着く。
冷たい風を吹かせ、入口は暗い大口を開けて待ち構えていた。
「ここか?その石版に関係ある所って」
急に立ち止まったネーレウスにエルザは話しかけた。
「そうだよ。あっ、暗いだろうからこれ使って」
そう言いながら、彼は昨日の晩に使った奇妙な瓶入りの灯りを二つ取り出した。
瓶の中の石が相変わらず発光している。
「どうも。確かに灯りがあった方が確かに安全そうではあるな」
洞窟の入口が照らされ、疎らに苔の生えた白っぽい岩肌が顕になっている。
洞窟の先は真っ暗で、生物の気配はまるで感じ取れない。
宙を浮く瓶入りの灯りと共に、二人は洞窟に入っていった。
洞窟内部は案の定、ネーレウスが用意した照明以外、視界の確保に役立つ物は無い。
入口から想像するよりも広く、苔で湿った足元にさえ気をつけていれば身動きは取りやすそうであった。
白っぽい岩肌の高い天井からは、カーテンのように鍾乳石が連なり、水が垂れてきている。
二人の足音や水音以外にも蝙蝠の鳴き声が反響し、微かに聞こえた。
進むにつれて、入口からは感じ取れなかった生物の気配が増し、岩肌との距離は近づいてきている。
「なあ、石版ってここにあるのか?」
エルザは退屈そうに足元の水溜まりを蹴飛ばした。
「石版自体はここには無いよ。ただ、石版が置いてある祠を開ける為の鍵がこの洞窟に隠されているみたい」
「随分詳しいんだな。魔法使いってより僧侶にでもクラスチェンジした方が良いんじゃないか?鍵取りに行くのめんどくせえし、ロックピックで開けるか」
「そういう乱暴な事は良くないんじゃないかな、うん」
忌々しげに帰ろうとするエルザを無理矢理ネーレウスが制止したのは言うまでもない。
彼女なら本当にやりかねないと思ったらしい。
洞窟が狭くなってきている事以外、目立った問題は無く、ひたすら進む。
用意した灯りが無ければ探索は困難を極めただろう。
いよいよ人が一人しか進めなくなる程度にしか洞窟の道幅は無いが、エルザは淡々と障害物とかした鍾乳石を避けながら進んだ。
一方、エルザよりも、頭一つ分近く背の高いネーレウスは彼女と違い、進むのに苦心していた。
どうにか鍾乳石を避けながら進む内に、彼の視界の中のエルザはかなり小さくなっていく。
「もう少しゆっくり進んでくれないと逸れそうだ。…おーい!エルザ?」
逸れない内に、彼は声を掛けようとしたが、時既に遅し。
遥か先にぼやけて見える分岐した道に、エルザは差し掛かってそのまま消えた。
声が聞こえなかったらしく、ネーレウスを待たずに、彼女は進んだ。
「まあ、その内に合流出来るとは思うけど…。怪我でもしないか心配だなあ」
彼のぼやきは彼女の耳には届きそうになかった。
場所は代わり、彼の視界の先にある分岐した道の片側をエルザは進んでいる。
しかし、ネーレウスとはぐれた事に気付き、立ち止まり振り返ると、背後から彼の声が微かに聞こえる。
来た道を引き返そうとしたが、それは出来ずに終わった。
何かに足首を捕まれ、エルザは思いっきり転ぶ。
何事かと思い、彼女が視線を向けると、細長い触手に掴まれた己の足首が見えた。
嫌な粘性の物質にブーツが汚されて、エルザは顔を顰める。
短剣で触手を切り落とそうとしたが、彼女の抵抗も虚しく、更に触手によって手首を掴まれた。
「うわっ…」
触手に触らないように振り払おうとしたが、触手には細かい吸盤がビッシリついていて離れそうにない。
そして遂に彼女は触手の主を見た。
ふとした拍子の出来事だったが、急激に悪寒を覚える。
「ぁ…あ…!!あぁぁぁ!!!!っ!やだぁぁあ!!!離して!!離してぇぇ!!!」
大量の血管が蠢く粘性の半透明な皮膚に包まれ、幾重にも重なった内蔵の様な物に無数の目が着いた肉塊が、触手を数本伸ばしていた。
ぶよぶよした半透明の肉塊と目が合い、錯乱してエルザは銃を盲射する。
それにも関わらず、鉛玉は半透明の肉塊の中に沈みこんだだけで、大した損傷にはなっていない。
逃げる事は最早不可能に等しい。
エルザはネーレウスと逸れた事を後悔していた。
恐怖のあまり、呆然と戦意喪失している内に、触手は彼女の四肢や腰に絡まり、完全に身動きが取れなくなる。
そして、彼女はどこかへ引きずられていった。
触手に身体を掴まれた状態で、ずるずる移動するにつれて、エルザの視界には、入り組んだ青く輝く地底湖が映る。
そのまま地底湖の畔まで半透明の肉塊は、彼女を引きずっていたが、唐突に触手から解放して水中へ潜って行った。
白っぽい岩肌の地面、ちょうど彼女の足元辺りに何かが煌めいている。
それにもエルザは気付かず、放心状態でずっと水面を見つめていたが、遠くから自身の名を呼ぶ声に我に返り、走った。
ネーレウスを見つけ、安堵に包まれたようである。
合流に成功し、ネーレウスはエルザに怪我が無いか確認していた。
それも直ぐに終わり、彼女の関心は地底湖に向く。
入り組んだ地底湖の水面は恐ろしく透き通り、青い輝きの正体が水底に密集した鉱石による物だと分かった。
地底湖を覗き込む内に、半透明の肉塊が脳裏に過り、エルザは身震いした。
「君の悲鳴が聞こえてもう駄目かと思ったよ。とにかく無事で良かった」
「まあ、そうだな。…ところで、この地底湖には水棲の魔物って居るのか?陸にも上がってこれるような感じの」
「居るよ。でも、大人しくて臆病な種族だから襲ったりはしないと思う。半透明の生物だよね?」
「そうなのか。…おっ畔になんか落ちてんな。なんだこれ?鍵っぽいな」
半透明の肉塊を記憶から早く抹消したいという彼女の意思は強い。
水棲の魔物の事を考えるのを止めて、落ちていた鍵を拾うと、エルザはそれをネーレウスに見せた。
細かい彫刻で飾られた鍵は彼女の掌よりも大きく、ずっしりしている。
「むしろそれ以外に考えられないよ」
ネーレウスは受け取った鍵を良く観察して頷き、彼女にそれを返した。
「よし、じゃあ戻るか。長居する必要は無いな」
早く嫌な記憶を忘れようと、エルザは踵を返そうとしたが、彼の発言によって引き留められる。
「この地底湖の先に見せたい物がある。着いてきて欲しい」
瞬間移動の術によって、二人は入り組んだ地底湖の向こう岸へ瞬く間に移動した。
相変わらず詠唱は無い。
地底湖の水底にあった発光する鉱石が、白い岩壁で結晶化して辺りを微かに照らしている。
また、隅の方には古びて錆びついたツルハシやバケツがある事から、この鉱石が過去に発掘されていた事が分かる。
もう瓶入りの灯りは必要が無くなり、ネーレウスが仕舞ったらしく、見当たらない。
「いいなこの石。今まで盗賊やってて見た事無いが、高くつきそうだ」
興味深そうに鉱石を眺め、持って帰りたそうにエルザは待ち構えている。
「採取しても問題無いけど帰りにして。…もう少ししたらこの洞窟を抜けてその先に見せたい物があるから」
土砂が入り交じる不安定な足場を進むにつれて、周囲は徐々に明るくなり始めた。
出口である。
白い岩壁の天井が大きな口を空けて外の風景を見せていた。




