九話 勇者の保護者
エルザはその後、かなり長い時間深く眠っていたようだ。
彼女が目を覚ましたのは深夜である。
空耳であろうか、誰かがドアを閉める音で目覚めたようだ。
夜も更けり、室内には遥か上空の星の輝きのほんの僅かな光源しか無かったが、彼女の目は問題無く部屋の詳細を焼き付けた。
ベッド脇の机の上に、彼女の装備品が整頓され、彼女のベッドにはネーレウスの導士服が被せられている。
どうやら彼が身の回りの事を一通りやってくれていたようだ。
怪我など無かったかの様に起き上がって、首の骨を鳴らすと、机の上の装備品を左手で器用に付けた。
エルザはニヤリとしている。
それにしても全然痛くない。
いよいよ右腕が動かなくなったのだけ気になるが、左腕でも銃は撃てるし、短剣も扱える。
むしろ首がまだ動くのが奇跡的だ。
エルザはそんな事を感想に抱きながら外に出た。
行き先は勿論廃城である。
ネーレウスと違って、彼女は方向音痴ではなかった。
街には人影は全く無い。
どちらかといえばむしろ、遥か彼方に居る魔物や夜の獣達の気配の方が濃く現れている。
星の位置から大まかな方角を推測してエルザは廃城の方へ向かって走っていった。
その様子は馬並みに早い。
ヌオビブ村はそこまで広くはなく、彼女はそれなりに短時間で村の北端の門が小さく見える位置まで来た。
しかし、急に立ち止まったかと思えば脇道を走る。
北端の門に番をする、甲冑姿の男を彼女は目視しており、死角から塀に向かう道を探し出す事にしたようだ。
甲冑姿の男は彼女の姿に気付かずに、退屈そうに塀に寄りかかったりしていた。
そして、エルザはかなり遠回りをして高さ三メートルばかりの塀を見つけ出し、またもや立ち止まる。
川のせせらぎが聞こえ、塀の向こうは川が流れていると直感で彼女は理解した。
そしてエルザは思いっきり跳ね、塀の上に飛び乗った。
元盗賊らしい軽やかな身のこなしである。
塀の上からは小川が見えている
あっ、帰りどうしようかな。
エルザの頭には一瞬、帰る方法についての不安が過ぎったが、廃城への好奇心が圧倒的に強く、塀の上から川を飛び越える事にした。
今から小一時間程前、場所は変わり、ネーレウスは上機嫌で看病の合間に読む予定の沢山の本を持ってエルザの部屋に帰ってきていた。
どうやら修道院の一階に図書室があるらしい。彼は呑気に鼻歌を小さく歌っていたが、突然その快活さは失われた。
少し前までベッドで眠っていたエルザの姿が見当たらないからである。
彼の心情など、エルザはまるで理解する気も無いのであろう。
ネーレウスは深い溜息をつき、本を床に置いた。
「本当にどうしようもないなあ…。今ならまだそこまで遠くに行っていないと思うけど」
ベッドの上でぐしゃぐしゃになった導士服を羽織り、ネーレウスはエルザの跡を追った。
廃城に彼女は向かったという確信を持っているようだ。
再び場面は変わり、エルザはヌオビブ村を抜け、廃城へ向かっていた。
林の中の馬車道を通っても辿り着くが、近道をする為に木々が生い茂る中を探索している。
獣の目でしか確認出来ない程度には真っ暗だ。
弾丸の残りは少ない上に、いつ野生生物や魔物が出てきてもおかしくはない。
それにも関わらず、彼女は気にも留めずにひたすら障害物の木々を避けて進み続けた。
茂った枝の隙間に届く僅かな星明かりだけで、彼女の視界は確保されている。
ふと、草木の騒めきに紛れて、狼の遠吠えが聞こえて彼女は辺りを見渡した。
遠吠えが木々に反響して遠吠えの出所は分かりづらかったが、振り向くと真後ろから影を縫うようにして、何かが動いているのが見える。
あれが遠吠えの主である。
彼女の直感がそう呼びかけた。
左手で拳銃を構え、遠吠えの主の眉間を狙うと、枯葉の上に何かが倒れたような音がして、獲物が倒れた事が分かった。
しかし、遠吠えは仲間を既に呼んでいたらしく、木々に隠れて無数の目が光る。
時既に遅し。
瞬時に獲物を数え、エルザは残りの弾丸だけでは倒しきれないと理解し、短剣に持ち替えて素早く狼を倒しにかかった。
襲い掛かる狼の爪を背後に立ち回って避け、別の飛び掛ってきた狼の懐に潜り込み、その首筋を刺した。
間髪入れずやってきた三匹の狼の来襲を、獣臭い胸下に滑り込んで避け、コンマ一秒以内に持ち替えた拳銃で急所に狙撃する。
ここまで弾は四発しか使っていない。
残りは一匹になり狼の目と、オッドアイが睨みあっている。
狼が飛び掛るよりも早くエルザは短剣を投げつける。
短剣の照準は狂いもせずに眉間に刺さった。
狼が動かなくなったのを確認して短剣を回収したのも束の間に、エルザは弱り切った狼の爪を背中に食らった。
不意打ちの狼爪が外套を引き裂く。
エルザは死に際の一撃を放った狼を蹴り飛ばし、留めを刺した。
「危ねえなクソ。軽鎧が無かったら怪我してたな」
襲い掛かってくる魔物や野生動物を短剣で倒しながらエルザが林を抜けると、湖の小島に聳え立つ廃城が見えた。
若干の怪我はあるものの、かなり満足した様子だ。
空の端が白み、夜はそろそろ明ける。
ふと、遠くから自身の名を呼ぶ声が聞こえ、彼女が振り向くとネーレウスが立っている。
振り向くエルザに軽口を叩く隙も与えず、ネーレウスは頬をビンタした。
とてつもない剣幕にエルザはたじろいたが、ネーレウスに強く抱き締められ、急激に顔に熱を帯びるのを感じた。
「本当に心配したよ!いつも自分勝手な行動ばかりして!本当にもう…!怪我だってしてるじゃないか!」
暫くエルザを抱きしめ続けたが、ネーレウスは感情任せな自分の行動に恥ずかしくなり、腕を解いた。
「えっとその…ごめんね、急に叩いたりして。痛かったよね?…エルザ?あの本当に悪かったって…怒ってる?」
エルザは惚けていた。
「お香みたいな匂い…良い匂い…」
意味不明な事を口走る程度には何が起こったのか理解が追いついていない。
「顔が赤いけど大丈」
次の瞬間、台詞を言い終わる前にネーレウスは鈍い音を立てて左ストレートを喰らい、尻餅をついた。
殴った事により、完全に正気に戻り、エルザはネーレウスを立ち上がらせる。
「今日で一番痛かったぜ、さっきの平手打ち。何故お前は私ににここまで気にかける?神託の勇者だからか?…でも心配かけてごめんなさい」
ネーレウスはこの発言から、エルザが愛情に飢えた普通の、不器用な女の子だと汲み取った。
「いたたた。それは…君が……………なんでもないよ。分かってくれたならいいんだ。帰ろう」
修道院に戻ってから数時間後、エルザは寝室で湿布を張り替えられていた。
深夜の探検で出来た細かい傷跡も完治している事から、ネーレウスが治癒魔法をまた掛けた事が伺えた。
床には残り僅かな朧陽草の入った麻袋が置かれている。
彼の呼んだ黒い空間から取り出されたのであろう。
「呪いの影響でずっと寝てるかと思ったら、急に居なくなっていて、本当に心臓が止まるかと思ったよ」
「え?!そんなに寝ていたのか?たまげたなあ…」
「それに右腕も動かせなくなってるのに無茶ばかりして。治す方法だけど術者を倒すしかないみたいだ」
「倒すのなら任せておけ。弾丸が無いのだけ気になるな」
「それなら隣町まで行って、君の使ってる弾と同じ物を買ってきたよ。銃器の事はよく分からないけどこれで良さそう?」
黒い空間から取り出された弾丸を見せられて、エルザは顔を輝かせた。
「恩に着る、助かったぜ。これで術者を蜂の巣に出来る!」
ネーレウスは、そこまでしなくても。と言おうとしたが、ノックの音に遮られて部屋の扉を開けた。
修道士の男が青ざめた様子で立っており、口を開いた。
「この村の領主様のノヴァク伯爵が御二方をお呼びです。迎えが来ていますので、支度が終わりましたらお呼びください」




