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作者: pinokopapa

田舎から台湾へ行き、そこで見てきたことを綴ってみました。驚きの台湾でした。私が見てきた、今、現実の台湾です。そしてこれは台湾の表の顔です。

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台湾は驚きの国でした。この旅自体も、その始まりから驚きの連続でした。4月25日午後7時5分出発。高松空港からの直行便にのりました。むしろ、この旅は高松から出発できることがうれしくて行くことに決めたのでした。それでもやはり外国へ行くのですから、手続きにそれなりの時間がかかるものと覚悟して、家を出たのが午後3時でした。搭乗手続きは2時間前から行われるはずです。それに、台湾に着いても夕食は自分で何とかしなければなりません。それやこれやと取り越し苦労の末、そんな早い時間に出かけたのでした。しかし、車を置いて空港へ来ても、時間は持て余すばかり。夕食のことを考えて、ビュッフェで軽食を食べ、そこでだらだらと時間をつぶし、いつまでもそこにいるわけにもいかず、ラウンジに出てまたベンチに座って時を待ちました。そんな具合ですから、搭乗手続きにチャイナエアーラインの窓口に向かった時には、まだ早い、窓口はあいてないだろうと思っていたのでしたが、どうなんでしょう、すでに窓口のあるホールは人が幾重にも折り返して並んでおりました。まさに目を疑うばかりです。さらに事情が分かってくるのですが、分かればわかるほど???と不可解としか思えなくなりました。ですから、人が見ると、私の頭の上にはクエスチョンマークが飛び回っているのが見えたと思います。私たちの前に並んでいるのは皆、台湾へ帰る人たちでした。こんな風な状況ですから、窓口も定刻を待たず、早くから開けて処理し始めました。荷物検査も警備会社の制服の人たちが検査の機械を列に途中に設け、次々とこなしてゆきます。そんな列の最後尾に着いた私たちの後ろに、中年の女性のグループが並びました。この人たちは、丸亀から来たと後で聞いたのですが、明らかに日本人でした。この人たちがまた、旅の初めの高ぶりからか、ところどころに東讃の訛りがうかがえて、台湾の人たちよりけたたましい。グループは4人でした。また、持ってるケースの大きいこと。私たちも大きいほうのケースをもっては来ましたが、二人で一個です。ちょっと眉をひそめながら、順に詰めて搭乗手続きを待っていました。それでも、前の人たちのどこかに、まだ台湾の人とは違った人がいるだろう、日本人もいるだろう、他の外国人も、と、居ることが当然と思っていたのです。ですが、飛行機に乗り込んではっきりしました。彼らしかいません。私たち以外は全部台湾人。約二〇〇席のうち、六席が日本人。あと全部台湾へ帰る台湾人。なんで?そう思ったのは私だけではなく、妻もでした。ここは高松空港です。京、大阪、東京ではありません。日本一小さな県、香川県です。彼らはどこへ行っての帰りでしょうか。この疑問は解決されないままでした。



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またくどくどと旅の顛末を書いてしまいました。前回だって、たかがホーチミンです。今回も海外観光旅行の入門編であれば、それに一番ふさわしい台湾です。そしてその旅行に先立っての搭乗手続きで、なんでこんなに大勢台湾の人がいるのかと驚かされたというだけのことです。ところが、帰りの便も同じで、高松へ行く便に十人そこそこの空席こそあれ、残りの席で日本人は私たち夫婦と丸亀からの一行だけ、他のすべて、約百六十人が台湾の人たちでありました。帰りですから、もう驚きはしません。と言いながら、来る時と一緒で、???とクエスチョンマークが頭の上を飛び回りました。

さて、桃園空港に着いてのことですが、もう外は暗くなっており、外の景色は機内からも空港内でも全く見えませんでした。そして、空港のラウンジまでが遠い。間で動く歩道に何回乗ったことか。私たちも最初はおとなしく横の手すりのベルトをつかんでおりましたが、台湾の人は気ぜわしいのか、キャスター付きケースを引っ張って、飛ぶようにどんどん歩きます。追い越されるのが口惜しく、こっちも歩きます。それでも、その横を追い越してゆきます。ところが、動く歩道の横を若い人が自分の足で追い越してゆくのです。走っているのかと思いました。しかしそうでもない。彼らは若くて、こっちが年取ってる、それだけでした。彼らは機内持ち込みのケースを引っ張っていても、早くて競争にならない。しかし桃園空港は広かった。

入国審査は台湾人と外国人を分けて審査してました。台湾の人は右、私たちは左。ところが入国審査官が、にこにこして私を招くではありませんか。台湾人用のすいてる窓口で、またすことなく審査をしてくれたのです。パスポートと入国カードを渡し、指示に従って両方の人差し指を所定の場所に乗せ、カメラに向かってにっこり。それで終わりです。パスポートを受け取ってさあどうぞ。妻も同様。それがどんなことかはわかりませんが、のちにひょっとしたらと思うところはありました。入国審査の窓口は、他に中国人用が特別に設けてありました。それも意味深長なところです。なにせ、つい二・三日前、中国海軍が台湾海峡で軍事演習を行っていたのでしたから。それでも入国審査官の笑顔はほっとさせられました。



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台湾到着の日は、ただ椅子に座っていただけなのに疲れてすぐに部屋にこもり、風呂を入れ、テレビを点けて横になりました。テレビは、NHKのBSがそのまま見られました。それにはほっとしたのでしたが、困ってトイレに行けません。空港からホテルに来るまでの途中で、こちらの添乗員にくれぐれも言われたことがありました。トイレに紙は流さないように!紙を流して配水管が詰まり、賠償させられたトラブルが過去にあったというのです。えっ?じゃあどうするの?トイレの中のゴミ箱に捨ててください。これが台湾の常識です。この話はこれぐらいにしておきます。そしてこの話の救いは、ホテルにトイレにウォッシュレットが完備していたことでした。これがなかったらトイレにも行けなかった。

空港で小銭を換金した時も驚きでした。Can I exchange small Japanese Yen into taiwan dollers? そういって二千円を出すと、若いお兄ちゃんが起こったような表情で書類を出して、サインしてといいます。日本語で。ここにサインして。サインすべき場所と思しき所に、漢字で名前を書いて、Is it OK? というと、はあ? まさに怒ったように、はあ? ちょっとひるんで OK? と重ねると紙をひったくり、両替の台湾ドルを渡してきました。ざっと見て、適切なレートと判断できたので Thank you.と言って引き下がりました。台湾の人は聞き返すとき、聞き咎めるように強く言うのだとは知っていたので、何とか気持ちを持ちこたえられたのでしたが、知らなかったら気おされていたと思います。

実は台湾の観光で鮮明に覚えているのは、この辺りまで。行天宮、忠烈祠、故宮博物館、 蒋介石を記念した中世記念堂とおもだったところは行きました。中華料理も一応のフルコースは食べました。牛肉麺も野菜麺も、そしてウーロン茶も飲んでそれなりに買いこみました。その見物コースの盛り沢山だったことは、日本のバス観光と同様で、あまり記憶に残らなかったのです。しかし、お土産物も観光旅行者として買いこむほどの物はなく、バスの窓から見る風景に、台湾はやはり貧しいのだと思ったのでした。街の小さな店はベトナムほど汚くはないけど、まるでハーモニカの吹き口のように並んでいて、それでも人がいない。いても年寄りか中年のおばさん、男は中学生か少し上で、働き盛りの男がいない。そういった人を見たのは、あの忠烈祠の歩哨たちと夜市の売り子と遊び歩いてるカンカン帽とサングラスの男の子とその二~三人のグループだけ。ガードマンと工事をしているのもヘルメットを着た老人。まるで日本といっしょでした。



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中華料理は本場だから、きっとおいしいに違いないと期待でいっぱいでした。しかし、食習慣の違いまでは知らなかった。少なくとも台湾の人は、麺ならつゆまで飲み干すのです。ですから味はとっても薄い。日本のうどんやそばとは全く違って、味がないほど薄い。それは食習慣のことですからもう言いますまい。しかし、食事の席で同行の人と話をしていて、この人たちが皆仙台から来ていて、花巻空港の試験的に飛んでいる台湾への直行便で来たことを知りました。奇遇!あれ以来メールもしていない彼女たちに便りをするいいきっかけができたと思ったのは私だけではなかったようです。ホーチミンで出会った女の子たち、たぶん私たちを友人の一角に加えていてくれるだろう子たちにメールするいいきっかけができたと思ったのでした。仙台はどちら?花巻空港まで行くのと成田へ行くのでは大違いなんです、成田だったらそれだけで二万五千円かかっちゃう、そしたらそのお金でちょっとした国内旅行ができちゃうでしょう。そうですよね、前回なんか私たちは関空から行ったんだけど、それだけで疲れました、朝は五時から起きて、朝食もコンビニのおにぎりで済ませて、空港には七時に行って、チェックインなんか慣れてなかったからどこでどうしたらいいかわからなくって、大きな空港の一階から四階へ行くのも分からなくてケースを引っ張ってうろうろ、しまいにサービスカウンターで訊いて、それでもおろおろ、兄夫婦に見つけてもらってやっと手続きしたぐらいで、と妻のおしゃべりは止まりません。その横で、私はある仕掛けをしておいたことがやっとここで生きてくるとほくそえんでいました。あのとき、義理の兄夫婦と話したことがあったんです。そんなタクラミがここで生きてくるはずと思ってました。

九份での観光は、ちょっと危険なにおいが立ち込めていました。メインの道以外、横道には決して入らないようにとガイドさんに言われました。九份はNHKの二度目の台北を見ていたので、一応期待していました。干し大根の詰まった草餅があるはずと、細い坂道を人に押されながら登ります。曲がって横道に入らないようにまた登って、石畳を上がります。その店を見つける前にタピオカミルクティーを飲みたいと妻がいいます。昔のかき氷屋さんのようなミルクティー屋さんを見つけ、そこで一杯ずつもらって、指をねばねばさせながら太いストローで飲んでみました。ああ、日本のローソンのタピオカミルクティの方がおいしい。声には出さず飲み終え、机に散らばりっぱなしのカップを全部片づけて、布きんがないか探して、なくて、トイレの手洗いのような水道で手を洗い、店を出ました。大きな白人も髭の口にストローを加えて歩いています。ゴミ箱がないのにどうするの?そして草餅の店を見つけました。テレビ通りの赤い前掛けで元気そうなおばちゃんが声をかけてくれます。指を二本立て、二個頂戴というと黙って渡してくれました。Did Japanese TV come to take films in this shop? まさにブロークンイングリッシュです。だから通じなかった。人の好さそうな笑い顔で、困り切って店の他の人を目で追います。Oh、sorry!

I'm sorry! 困らせてごめんなさい、逃げ出して、ガイドさんに進められてた茶館を目指します。そこで仙台の人たちに合流して店に入ります。そこは宮崎駿の千と千尋の神隠しに出てきた湯婆婆の館のモデルとなったと台湾の人は信じて疑わない阿妹茶楼でありました。本当は夜景がすばらしいのだとガイドさんはいっておりましたが、あいにくと昼日中で情緒には欠けていたかもしれません。しかし木造四階建ての外観は情緒溢れたものでした。




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九份で横道に入り込むと神隠しに会う、とガイドさんは真剣な顔をして言います。そんな言い方で、治安の悪さを暗に言いたかったのかもしれません。途中から見上げると、小学校が坂の上にあるといいます。それでも治安は悪いのでしょう。日本でもそんな時代はありました。その町に犬と猫がいました。犬は四十五年続いてる映画館の前。猫は坂を下った雑貨店の入口に。九份の猫は有名なのだそうです。そんな写真を撮ることも計算のうちです。このあと、温泉街を散歩して、盛りだくさんの観光地巡りも終わりました。夕飯の後は何もすることがありません。しかし自然と考えることは一つ。台湾へ行ってきましたと、あの子たちにメールしてみようか。それだけで妻は分かりました。してみたら?といいます。

翌日、あとは帰るだけ。二時間あります。私と妻はチェックアウト後フロントに荷物をあずけ、朝の街に出ました。道を間違えちゃあいけないと妻が言いますので、ホテルを出て右に曲がり、あとはひたすらまっすぐに歩くと決め、そこで出会ったのが関帝廟でした。上へ上へと威容を誇る建て方で、柱は朱色の極彩色、屋根瓦に竜が置かれ、玉を掴んでいます。その指は三本。皇帝の着る服に刺繍された竜は指五本。寺格の高い廟の竜は指四本。その下ならば三本。関羽は金儲けの神様。大陸の人は自分の願いを込めて、関羽に祈ります。ビルや車が走り回るこの時代にげんをかつぎ、おまじないをして厄を払う、そのために熱心に祈る。奇異なのではありません。どこか違って、驚きの国なんです。

もう九時ごろですから、早朝とは違うと思います。横道の奥をみると、木立のある公園がビルの谷間にありました。そこへ行ってべんちにすわって、こうして街を見て歩いて、始めて台湾を見て回ったという気がしました。私たちがすわったベンチの並びのベンチに痩せたおばあちゃんが袋をもって座りました。彼の人はその袋から半袈裟、首からかけるから輪袈裟ともいいますが、それをかけ、何やら体操を始めます。こっちは見ては悪いとビルや曇った空を見上げておりました。すると、おばあちゃんは私たちの前を通り、反対側のベンチに行って、また体操をします。見ると、おばあちゃんの手をせなかに回して片方が上、片方が下の指を絡めて引っ張り合ってみせるではないですか。いま五十肩で肩関節の痛みに耐えてる私には脅威でした。見ろよ、妻をつついてそっちを見るように促しました。へえぇ!ちょっと大きな声で驚嘆してみせます。おばあちゃんはたぶん自慢なんだと思ったからです。



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あとは帰るだけ。昼間のフライトでした。疲れているのかいないのか、いや疲れてはいるけど、旅の途中でまだその疲れに気がつかないのか分からぬまま高松に降り立ち、見慣れた景色にもう何も思わず、私たちは家に帰りました。メールにどう書こう、書き出しは?書き出しさえ決まれば、あとは何とか書きつづれる、そう思っての帰り道でした。そして、思いついたのが、台湾は驚きの国でした、というフレーズでした。今回の台湾行きの大きな収穫がこれです。台湾は驚きの国。

三日して、peapleに入れておいた二人のメールアドレスにメールをつづりました。



先月、25日から28日までの3泊4日で台北に行ってきました。その折、花巻空港からの直行便でお出でになった二組のご夫婦と一緒になり、お二組とも仙台からと聞いてあなた方のことをおもいだしました。


台湾は驚きの国でした。てんこ盛りコースを選んでいたからでしょうか、観光景勝地ばかりでなく、故宮博物館、国父記念館、北投温泉街、夜市二か所、九份、十分をめぐり、昼日中であったにもかかわらずランタンまで上げて、全く目まぐるしい観光でした。足ツボマッサージや夜市の混沌と猥雑さの渦はホーチミンとは違った驚きでした。


もしかしたら、台湾はもう行ってるかもしれませんね。しかし、実は、驚きは旅の始まりから出現してきました。私たちは高松からの直行便だったのですが、飛行機に乗ってみると、約200の席で、日本人は私たちを含めて6人だけ。あと全部が台湾の人たち。人が私をみると、私の頭に上に???とクエスチョンマークが湧き出ているのが見えたと思います。四国の片田舎、高松からの直行便で、この人たち、どこへ行って帰るんだろう?見るとこなんてないだろうという?マークでした。ところが、帰りも同様だったんです。やはり日本人はツアー同行者の私たち6人だけ。今度は8割しか、席は埋まってなかったけれど、全部台湾人。行きも帰りも首をひねるばかりでした。


驚きは、まだあります。別に取り立ててそれらしく振舞っているわけでもないし、日本語でしゃべっているわけでもないのに、妻と私に、こんにちは、おいしいよ、と夜市で声をかけられます。民族博物館でも、いらっしゃいませと、これも日本語。故宮博物館でもわざわざ声をかけてくれて、これも日本語でありがとうございました。中国語を話せないから、店の店員に英語で訊いても、・・・ですかと、答えは日本語。ほかの周りへは中国語での会話なのに、です。なんでわかるの?そう思うのですが、実際は私たちでも分かっちゃうんですね。顔みりゃ分かります。日本人は日本の顔をしています。もし台湾へ行ってないなら、行ってごらんなさい。驚きますよ。それはホーチミンの比ではありません。九份の、横道に入ると帰れなくなる危険な混沌と、関帝廟で毎朝祈っている人たちの善良さが併存している、また、ベトナムほどにもゴミの散乱した街並みに、忠烈廟の塵一つない清潔さが並列して存在している、それが台湾でした。


メールなので大容量の画像は送れません。少しだけ送ります。少しでも楽しんでくれたら幸いです。それから、四国へは来ませんか?遊びに来るといいですね。遊びに来られないなら、お嫁に来ませんか?いやいや、これは半分冗談です。でも、ホーチミンでの写真に私たち夫婦と若い男、いや中年の男が写っていたのがあったと思います。実はこれ、愚息です。愚息は今もホーチミンで、会社から派遣され、CGデザイナーのデーターセンターを設立し、順調に運用できるまで持っていくプロジェクトをやっており、私たちはその息子に会いにホーチミンへ行ったのでした。これじゃわからん!どこの馬の骨だ、と思いますよね。愚息はあのドラゴンクエストではサブチーフデザイナーで加わり、他のゲームではチーフをやっていたCGプロデューサーでした。しかし、正直に言いましょう、✕イチとなり、心労も加わってヘッドハンティングがあったことを幸いに、現在の会社に転職しました。ところが****からまたヘッドハンティングの申し込みがあったのでしたが、その時はすでにホーチミンでのプロジェクトが動き出していたので断ったそうです。とまあ、本気で誘ってみてますが、そんなことしたらいかんよと妻はいいます。そんなことするのは犯罪よ、というのです。年が離れすぎてます。それにCGデザイナーの在り様として愚息はへんこつ、無愛想、わがまま、協調性がない、視野が狭い、常識がない、と悪いことばかりです。ですから、冗談と受け止めてください。本当に半分冗談です。でも残り半分は100%本気です。しかし、それもだめなら、アラフォーで✕イチで、ホーチミンからそのあと、カンボジア、もしくは台湾で何年か過ごしてもいいと言う人いませんか。残り少ない人生の終わりに、親は気を揉んで暮らしています。




まさに、個人情報の垂れ流しです。でもいいんです。このメールは届きませんでした。一度は、添付した写真の容量が大きくて送れなかった。そのことは後からのメールサーバーのエラーメッセージで分かりました。ところが写真のデーター量を縮小し、メールを二通に分けても、返事がない。連休中だからどこか海外に行ってて、メールチェックができないのだろうと受け止め、待ってました。ところが来ない。二人に送ったのですから、どちらかから返事があってもいいはずだとも思い返してました。それで、こっちの何か思いつかないミスがあったのかと考えました。ホーチミンから帰る機内で、義理の姉と妻が小声で話してました。いい子よね、わたし、話してみようかしら。そういったのは義理の姉でした。えっ、私もそう思ってたのよ。妻が返します。私は目をつぶったまま、サイゴン川遊覧の船内で、お父さんも行こ、といって私の袖を引っ張って船のデッキに連れ出した若いほうの子のことを思ってました。それから、食事の時、飲み物は別料金と、支払いのお金を真剣に数えていた年上の子の顔も思い出してました。若くて素直で、はつらつとしているという形容は、この子たちにこそふさわしいと思ってました。義理の姉の子も離婚し、✕イチでした。わたし、若い子の方が息子にはいいと思うのよ。あら、じゃあケンカしなくていいわ、家は上の子に目を付けてたから。連絡先、きいてるんでしょ。何かの折に四国へ遊びに来るように言って、わたし、その時、見合いさすわ。そうね、家は息子が早々帰れないから、ホーチミン旅行をプレゼントして、おこずかいもあげて、あっちには優秀なガイドを個人的につけてあげるから、行ってきてって言うわ。悪だくみは帰りの飛行機の中で出来上がったのでした。


しかし、悪だくみのメールは返事が返ってきませんでした。どちらからもです。考えてみれば、こちらはあの子たちにとって、どこかの誰かさんでしかないわけです。旅先ですれ違ったどこかの誰かさん。そんな人をうかうか信用するはずがない。今度は四国へ遊びに行こうかと思ってますと言ってきてましたが、それは単なる外交辞令。そりゃあ分かってました。でも、ちょっとは気を許すところもあったのじゃあないかと思ってました。


返事の来ないまま日が過ぎて、私は思いつくところがありました。彼女らはメールアドレスを変更したんだ。それが一番合理的な理由だと分かったのです。若くていい子で、なお一層賢い子たちです。ああ、そんなことまで気が付くのなら、余計に息子の嫁にほしい!あのバカ息子の嫁になって、バカを癒して直してほしい。こんな年になると、若い子を見ても、こんな風に考えてしまうのでした。あほの顔を見たかったら、親の貌を見てろ。親ばかちゃんりん、桶屋の風鈴。

バンビチャン、お嫁に来て!お願いだから。



台湾へ旅行した時のことを綴った紀行文のエッセイです。この文章は台湾見聞録ですが、実は台湾にはもっと深く悲しい過去がありました。それを語るまえの、いわば前編です。

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