07
2
真夜中のひき逃げ
十波学園大生、はねられ重傷
二十七日午前三時ごろ、十波市西桜川区扇町の交差点で、東桜川区犬飼町・大学生川崎秋彦さん(二一)が路上に倒れているのを近くのビルの警備員が発見した。発見者の警備員の話によると、何かが衝突したような音が大きな聞こえ、確認のために外に出てみたところ、頭から血を流した川崎さんがうつ伏せに倒れていたとのこと。同警備員はその時、走り去る自動車のエンジン音らしき音を聞いており、十波署ではひき逃げ事件とみて捜査を進めている。
なお、川崎さんは右足の骨を折るなど、全治二ヶ月以上の重傷を負っている。
☆
テーブルの上のカップから、ゆらゆらと湯気が立ち上っていた。
コーヒーが一つに、紅茶が四つ。
誰も、それらに手をつけようとはしない。
大騒動だった少し前までとは打って変わり、事務所内は静かだった。
そのせいか、普段はあまり気にしたことのない街の喧騒が妙に耳につく。
重く暗い空気が、慎也たちのいる応接スペースを支配していた。
市民欄の短い記事を、涼介は読み返している。
高校時代、涼介はミステリー研究会という同好会に所属していた。秋彦はその初代会長であり、秋彦と涼介(他プラス1名)は、桜川高校・ミステリー研究会の創設メンバーだった。
そんな縁もあり、涼介にとって、秋彦はただ先輩というだけの人物ではない。かなり思い入れのある特別な存在だった。
しかも、涼介の妹である優子と秋彦の妹の春菜も、兄たちと同様に親友同士である。
美咲とも当然顔見知りであり、慎也も秋彦とは何度か会ったことがあった。
なかなかの美丈夫で、裏表のない、とても明るく面倒見のいい性格の好青年。慎也は、そんな印象を秋彦に対し持っていた。
新聞を畳み、テーブルに置くと、
「それで、水島さん。川崎先輩の容態は、どんな具合なんですか?」
涼介は、向かいに座る玲奈に訊いた。
身体中あちこち包帯だらけで、秋彦はかなりの重傷らしい。けれど、ちゃんと意識もあり、今のところ大きな心配はないということだった。
玲奈の答えに、涼介はとりあえずホッとしたようだ。
「ただ……」
少し置いて、玲奈が小さく息をつき言った。
再び、涼介の顔に緊張が走る。
「ただ……なんですか?」
「それが、事故に遭った時……秋彦さんは頭部を強く打ってしまったらしくて。そのせいで、ここ二、三日の記憶をすっかり無くしてしまっているんです」
「記憶が、ですか……」
「……はい」
どこか辛そうに、玲奈は目を伏せる仕草とともに頷いた。
「逆行性健忘、ってやつですね」
腕組みを解き、慎也は話に交ざった。
「交通事故なんかで、頭部を強打した時なんかによくある記憶喪失のことですよね」
「ええ。お医者様も、そう仰っていました」
「で、頭を打ったということですが……逆行性健忘以外に、川崎君に異常はなかったんですか?」
「はい、きちんとした精密検査はまだこれからですが、今のところはそう深刻になることはないそうです。きっと大丈夫ですよ、って……」
大丈夫の箇所をやや強調するように、玲奈は言う。それは、自分にそう言い聞かせているかのようにも思えた。
慎也は、微かではあるが、玲奈から脅えのようなものを感じ取っていた。
(どうも、何かありそうだな……)
探偵(いや、元刑事か?)としての勘が、彼にそう囁き始める。
涼介は、玲奈の説明に今度こそ一応安心したようだった。その隣では、美咲が「良かったね、涼ちゃん」という表情で幼なじみのことを見ている。
玲奈の隣の松井多恵子はというと、彼女もまた友人と同様に、どこか暗く深刻な雰囲気を漂わせていた。
やはり、川崎秋彦の事故はただの事故ではないようだ。裏に何かあるらしい。
玲奈と多恵子の様子から、慎也はそう確信した。
コーヒーをひと口飲み、彼は「さて」と場を仕切り直した。コーヒーは冷めて、かなり温くなっていた。
「川崎君の怪我のことは分かりました。それで、水島さん。あなたは何をしに、ここへ来られたんですか?」
真っすぐに玲奈の目を見つめる。
彼女が何かを言おうとしつつ、さっきからずっと逡巡していることに、慎也は気づいていた。
「まさか、川崎君をはねた犯人を見つけ出して、復讐してくれ……なんてことは言いませんよね。俺はぼんくら同心な婿殿じゃありませんから、どんなに頼まれたって、そんなことは出来ませんよ」
どうやら、玲奈お嬢様は、江戸の町で特殊な仕事人たちが活躍する有名な某時代劇をご存知だったらしい。
数瞬ぽかんとしていたが、その状態から抜け出すと、「神谷さんって、面白い方ですね」と、慎也の下手な諧謔をくすっと笑ってくれた。
彼女の他はほぼ反応なしで、誰も笑ってくれなかったというのに……お優しい人である。
雪乃に至っては、某時代劇自体を知らないようだった。
大いに滑ったものの、玲奈にしか通用しななかった詰まらない諧謔でも、彼女の逡巡の扉を開く鍵くらいにはなったらしい。
「何かあるんでしょう?」
言った慎也に、
「……はい」
こくん、と玲奈は頷いた。
隣の多恵子となにやら目でコンタクトをとった後、何かを見極めるように玲奈は慎也を見つめた。
慎也は彼女の視線に微笑と軽い頷きで答える。その微笑の中に、自分なりの真摯さを込めて。
それは、しっかりと伝わったようだった。
「わかりました。お話しします」
玲奈が口を開く。
「あっ、ちょっと待ってください」
彼女が話し出そうとするのを止め、慎也は口調を改めて、確認を取るための台詞を口にした。
「水島さん。これからあなたが話されることは、この神谷探偵事務所への正式な依頼事項である……つまり、守秘義務の生じる内容であると、そう思っていいわけですね?」
「はい、そう思って頂いて結構です」
頷く玲奈に、慎也は涼介と美咲を見た。
この案件には、アルバイトの二人も係わることになるだろう。
「この二人はどうしますか。同席しても宜しいでしょうか?」
依頼人によっては、学生バイトの二人を所員とは見做さない人間もいる。予め涼介と美咲のことについて伺いを立てるのは、いつものことだ。
「お二人のことは、秋彦さんから聞いています。構いません、ご一緒にどうぞ」
「ありがとうございます。では、水島さん、話の方をお聞かせ願えますか」
一応の手順を済ませ、慎也は玲奈に話を促した。
それに応じ、玲奈がゆっくりと辛そうに話し始める。
「実は、秋彦さんの事故なんですが……これは、事故じゃないかもしれないんです。もしかすると、彼は……秋彦さんは、誰かに故意に狙われた可能性があるんです……」
玲奈が語り始めたそれは、慎也が予想していた通りの内容だった。