05
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……去年の12月初旬。
慎也たちが初めて城山ビルの三階フロアに足を踏み入れたのは、雪のちらつく寒さの厳しい冬の日の午後のことだった。
幽霊ビルの噂は、もちろん知っていた。
フロアに一歩入ったとたん、
(ああ……これは何かいるな)
某妖怪マンガの主人公みたいに、便利なアンテナ代わりの髪の毛などはなかったが、慎也はすぐに得体の知れない気配を察知した。
「うわぁ~!!」
隣から声が上がる。
美咲の霊感も、何かを感じ取ったらしい。
慎也と目が合うと、美咲は頷いた。
どうやら、噂どおりのモノがこのフロアにいることは確かなようだ。
ただ一人、霊感を持たない涼介は、大人しく二人の後ろに控えている。
部屋の片隅に大きめの段ボールが三つ置かれていた。それ以外、何もない殺風景な空間だった。
幽霊はどこにいるのか?
気配はするものの、その姿はどこにもなかった。
三人は、肝試しやお祓い(除霊)をしに来たわけではない。幽霊と話し合いに来たのだ。
テリトリーを侵されることを嫌がっているらしい幽霊をなんとか説得して、ここに事務所を開くことを承諾させる。それが今回の目的だった。
そのためにはまず、このフロアの主に登場してもらわなければ、話にならない。
どうにかして、幽霊を話し合いの席に着かせなければならなかった。
「おーーい、幽霊さん!」
とりあえず、馬鹿みたいだがストレート且つシンプルに呼びかけてみる。
けれど、幽霊は姿を現わしてはくれなかった。
ただ虚しく……あるいは間抜けに、慎也の声が広いフロアに響く。
「お願い、幽霊さん。ちょっとでいいから、出てきてよー!」
少し間を置いて、今度は美咲が大きめ声を出した。
「………………」
やはり、何の応答もなかった。
フロアは静かなまま、ガタガタと風が窓を揺らす音ばかりが聞こえる。
「おーい、頼むから話を聞いてくれー」
「幽霊さん、どこにいるのー?」
「おーい、聞こえてますか、幽霊さーん!」
「お願いだから、出て来てったら! ほら、涼ちゃんもボケっとしてないで、一緒に……」
「えっ、あ、ああ……わかったよ。あ、えーっと、幽霊さぁぁーーん……」
とそんな感じで、呼びかけを繰り返すけれど、幽霊はずっと沈黙を守っていた。
無視を決め込む気だろう。
三人が何もない空間に虚しく呼び掛ける、そんな滑稽な状態が10分近くも続いただろうか。
とうとう、一番気の短い美咲が爆発した。
「こら、馬鹿幽霊! いい加減に出てきなさいよ! じゃないと、もう勝手にここに居ついちゃうからね!」
カタン……。給湯室の方から何か物音が聞こえた。ドアの向こうから、空色の浴衣姿の少女が現われる。
その姿に、慎也は思わず口笛を吹いた。
「へぇー、可愛い娘じゃないか……」
……それが慎也たちと雪乃との出会いの瞬間だった。
☆
その表情には一片の好意もない。そこにあるのは、ただ怒りだけだった。
その時。幽霊さんこと雪乃はひどく怒っていた。
眼差しはどこまでも冷ややかに、闖入者たちである慎也たちを射抜く。
……幽霊に敵意を向けられている。
そんな緊迫した場面だというのに、慎也の取った行動は短く口笛を吹き、
「へぇー、可愛い娘じゃないか……」
と、幽霊の容姿を褒めることだった。
自分のことを指して言っているであろう言葉に、雪乃が驚いたように目を見張る。
じきに、慎也だけでなく、美咲にも自分が見えていることに気づいたようだった。
「私のことが見えるの……?」
と半ば呆然とした様子で、雪乃が言う。
「うん、見えるよ」
美咲は答え、続けて、
「そこの涼ちゃん以外はね」
一人だけ雪乃が見えず視線の定まらない涼介を指さした。
「…………」
問いかけではなく、おそらく独り言の呟きだったのだろう。それに答えが返ってきて、雪乃はさらに困惑したようだった。
動揺を隠し切れず、美咲を見つめる。
「聞こえるの?」
「聞こえるよ。あたしだけだけどね」
何でもないことのように、美咲がさらりと言う。
「ど、どうして……どうして聞こえるの?」
自分の姿が見えて、尚且つ自分と会話できる人間がいる。雪乃は、そのことをすんなりと受け入れられないようだった。
「うーん……どうして、って言われても困るんだけど……。簡単に言うと、あたしの霊感が強いのと、涼ちゃんが側にいてくれてるからかなあ……」
「涼ちゃん? なにそれ?」
雪乃は訝しげに首を傾げ、美咲の隣に立つ涼介に視線をやった。
「どうして、その人が側にいると私の声が聞こえるのよ」
──そんなの関係ないじゃない!
からかわれたとでも思ったのか、雪乃の口調がまた尖ったものに戻る。
「えーっとね、それはね……」
ちょっと、ややこしいんだけど……と、前置きをして美咲は説明を始めた。
美咲や慎也と違い、涼介には霊感のような特殊な能力はなかった。けれど、二人以上に奇妙な特性を、涼介はその身に宿していたのである。
……特殊能力の増幅性質。
言い換えるなら、「特殊能力専用のブースター」といったところだろうか。涼介はそう表現できてしまう存在だったのだ。
原因も因果関係も何もわからない。なぜだかは全く分からないけれど。
涼介は、なんらかの特殊な能力を持つ人間の側にいると、それだけでその人間の持つ能力を高めてしまうのだ。
たとえば、今この場から涼介がいなくなれば、どうなるか?
美咲と慎也の霊感、感知能力はダウンするだろう。その結果、美咲は雪乃の声を聞くことができなくなり、慎也の双眸からは雪乃の姿が消えてしまうだろう。
慎也に元々備わっている霊感は、幽霊の姿を見ることができるほどには強くはない。幽霊の気配を感じるくらいが、せいぜいなのだ。
それを高め、慎也に雪乃の姿を見せているのが、涼介のブースター性質なのである。
美咲に至っては、涼介と一緒にいるだけで、幽霊と会話をすることも可能になってしまう。
そんな本人的には何の役にも立たない、かなりデタラメな性質を涼介は宿していた。
霊感ゼロの涼介がこの場にいるのは、そういう事情のためでもある。
話を聞き終えて、雪乃はあからさまに疑いの目を美咲に向けてきた。
そのまま視線を横にずらし、胡散臭そうに涼介を見る。
ポルターガイスト現象を起こせる幽霊からしても、涼介に関する話は現実離れしすぎていて、すんなりとは受け入れてもらえなかったようだ。
けれど。それが嘘であれ真実であれ、美咲と雪乃との間で会話が成立することには変わりはない。
美咲の仲介を通し、慎也と雪乃の話し合いが始まった。
ものの、「このフロアを借りたい」と言う慎也に、雪乃は頑として首を縦に振らなかった。
城山書店の倉庫だった三階フロアは、雪乃にとっては静かな住処だった。
それがいきなり、見ず知らずの人間たちに荒らされ始めた。それをフロアで大暴れ(ポルターガイスト現象)を繰り返し、やっとこさ元の静けさを取り戻したばかりである。
〝また騒がしくなるのは嫌だ〟
雪乃はそう主張して譲らなかった。
「どうしてもダメかい?」
慎也のため息まじりの声にも、雪乃は頷かない。
「もちろん、君に出ていけなんて言わないからさ、頼むよ雪乃さん」
慎也もなかなか諦めない。この通り、と手を合わせた。
肉体はないとはいえ、彼のしつこさに精神的に疲れてきたらしく、雪乃は呆れ顔でのろのろと首を横に振った。
「まいったなぁ……」
頭を掻きながら、慎也は微笑んだ。
「本当の本当にダメ?」
笑顔のまま、雪乃の顔を覗き込む。
それは、慎也的には、ただ無意識にやっただけの行動だっただろう。
しかし、意外な効果をもたらした。
すぐ側で二人の様子を見ていた美咲には、それが分かった。
……はにかんでいる。冷たかった雪乃の表情に、微かだがある種の温かみが射してくる。
それは、美咲もよく知っている温かみだった。それが見る見るうちに広がっていく。
雪乃の顔が女の子の表情になる。
幽霊といえど、雪乃も立派にお年ごろ(?)の女の子だったらしい。
慎也当人は気づいていないようだけれど、彼の笑顔は女性に対し、かなりの威力を発揮するのである。
彼が童顔と気にしている顔。その顔は、年齢とのバランスさえ気にしなければ、爽やか系の美形なのだ。
童顔、童顔……と、本人には不評の顔も、女性たちの間では大好評だったりした。彼自身は知らないけれど、慎也が警察を辞めた時、どれほど多くの女性警官たちがそのことを悲しんでいたことか。
(……落ちた、かな)
美咲は思った。
……罪な男である。
もし雪乃が幽霊ではなく、血の通った肉体を持っていたならば、彼女の顔は耳朶まで真っ赤になっていることだろう。
(ちょっと卑怯な気もするけど……。まっ、いっか……)
雪乃は、慎也の笑顔に見惚れているようだった。
このまま行けば、雪乃はじきに首を縦に振ることだろう。
「やっぱり、ダメか……」
慎也はため息を吐き、がっくりと肩を落とした。落ち込んだ様子で背中を丸める。
どこか哀愁が漂う彼の落ち込みに、場に哀しげな空気を含んだ静寂が生まれる。
(……やっぱり、これも計算じゃないんだよね。でも……ホントにそうなのかな?)
あまりにもマニュアル的な行動に、美咲はちょっとばかり慎也のことを疑ってしまう。
せつなげに雪乃を見つめる彼に、とうとう雪乃が折れた(落ちた?)。
「あ、あの、わかりました。どうぞ、ここを使ってください」
あらら……。美咲は慎也にそれを伝える。
「えっ、本当に。本当にいいの?」
慎也の表情がパッと明るくなった。
「ただし……条件があります」
世の中、そう甘くはなかった。
慎也の表情が引き締まる。
「条件は二つ。一つは、事務所としてだけでなく、ここを住居としても使うこと。もう一つは、私も探偵事務所の仲間に加えてください。その二つを受け容れてもらえるのなら、ここを自由に使ってもらっても結構です」
「つまり、それって……君と一緒にここで暮らせってこと?」
「……あ、えっ、その……」
慎也の言い回しに、雪乃は狼狽えたように言葉を詰まらせた。もちろん、彼の言葉に深い意味はないだろう。
「……そ、そうです。だって、夜になって急に人がいなくなったら、寂しいじゃないですか」
おおよそ幽霊らしくない主張だ。
さっきまでとは違う矛盾する雪乃の発言に、美咲は思わず吹き出してしまう。
仲間の件に関しては、「なんだか面白そうだから」と雪乃は無難な理由を返した。
「うーん……それもそうだな。わかった、そうするよ。通勤がなくて、俺もその方が楽だし。うん、ちょうどいいや」
すんなりと納得してしまった慎也に、雪乃は嬉しそうに微笑んだ。
なんだか微笑ましくて、美咲も自然と笑みを浮かべてしまう。
「もう一つの条件もOKだ。じゃあ、これで契約は成立でいいね?」
「はい」
雪乃は頷いた。
その翌日、ビルのオーナー、城山祐一郎氏との契約も済んだ。
こうして、クリスマスの3日前。城山ビルの三階に、神谷探偵事務所は無事開設された。
そして、半年後の現在に至る……。