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(法王か……)
目を開けた時、中指と人差し指が挟んでいたものは、〈法王〉のカードだった。
位置は正位置。カードの中の法王が、静かに涼介を見つめている。
くるり、涼介はそのカードを縦回転で引っ繰り返した。
「……タロットカード?」
多恵子が怪訝そうに眉を顰めた。
「THE HIEROPHANT、法王のカードね。意味は確か……慈愛や援助、良きアドバイス、ってところだったかしら?」
少しばかり、タロットについての知識があるらしい。多恵子は涼介の説明を半分省いてくれた。
「その通りです。ただ……」
多恵子の方に向いた絵柄は、今は上下が逆様のはずだ。
「逆位置ですから、意味も反対になりますけどね。せっかくの良きアドバイスも、悪意ある助言、それによる混乱というように」
「もちろん、タロットの逆位置のことくらい知ってるわよ。それで、そのカードがどうしたっていうのよ?」
多恵子がどこか馬鹿にしたように言う。
「鍵です」
涼介は短く答えた。
「鍵?」
「ええ。なんか、そういう事らしいですよ、悠馬の占いではね」
その言葉に、多恵子が呆れ顔になる。
「今度は……占いなの」
疲れたように言うと、
「天野くん……君、ちゃんとやる気あるの? いくら一条くんが評判の優秀な占い師だっていっても、ここは占いが登場する場面じゃないと思うんだけど」
と、多恵子は軽く肩をすくめた。
「……まあ、いいけどね」
大きな吐息を零し、彼女は続けた。
「それで、鍵っていうのは当然、今回の事件の、ってことよね。まさかとは思うけど、その鍵っていうのが今回の事件の犯人で、それが〈あたし〉だなんて言うんじゃないでしょうね?」
「いいえ、残念ながら違います」
皮肉っぽく言った多恵子に、涼介は首を横に振った。
「今回の事件の鍵、この法王のカードが示しているものは、たぶんオレのことです」
「へっ……」
よほど意外な返答だったようだ。多恵子は言葉を失ってしまった。口をぽかんと開けて、呆気に取られている。
「最初は、実行犯の後ろに隠れた人物のことを考えたんですけどね。ほら、法王の逆位置はマイナスの意味での援助を示すでしょう。もしくは援助が得られないか。オレはこれをマイナスの援助と解釈したんですよ。それで黒幕の存在も考えたんですけど……どうも、そんな人物の影は見えてこないんですよね。
じゃあ、他に何かあるだろうか……と、そう考えた時、ふと気づいたんです。マイナスの援助をできる人間なら、考えるまでもなくいるじゃないか。まさに灯台下暗し……っていうか、灯台は自らを照らせない、とでも言うべきでしょうか……。
……本当に盲点でしたよ。今回の事件の鍵、法王の逆位置が……」
オレだったなんてね……。しかし、涼介は最後のそれを言えなかった。
いや、言わせてもらえなかった。
「――涼ちゃん!」
強く響く、叫びにも似た声が割り込んできた。
美咲の憤りが、背中越しでも感じられた。
このままでは爆発しかねない。
「黙ってろ!」
涼介は強い口調で言った。ただし、後ろを振り返らずに。
自分は今、かなり情けない顔をしていることだろう。そんな表情を美咲には見られたくなかった。
いいや……見せるべきではないだろう。
美咲にだけは見せてはいけない。
涼介は思った。
だから、もう一度前を見たまま訴える。
「オレは大丈夫だから……」
「涼ちゃん……」
美咲は、半ば涙声で返してきた。
「……うん。……わかった」
「……ありがとな」
ぽつりと呟くような一言の中に、いろいろな想いを込めた。
涼介は気を引き締め直し、多恵子との対決を再開する。
「松井さん、あなたは気づいたんじゃありませんか?」
「何に?」
「秘密です。あなたはオレの秘密に気づいた。そうでしょう、松井さん? あなたの受講科目は全部、調べさせてもらいました。その結果、一つだけありました。例の日本教育史です。あの講義だけなんですね、オレとあなたが共通して受講している科目は」
多恵子はポーカーフェイスを保っていた。けれど、一瞬眉がピクリとしたのを涼介は見逃さなかった。
「だからこそ、あなたはオレのことに気づいた」
「…………」
「講義によっては退屈なものもあります。そんな時はついつい手慰みなんかをしてしまうものです。ノートの端に意味のない落書きをしてみたり、手に持ったペンで浪人回しをしてみたり……それが、あなたにとっては念動力だった。
さすがに、あなたが念動力を使ってどんな風に暇を潰していたのか、そこまでは分かりません。ただ、その中の一つに、『窓の外に見える桜へのちょっかいや悪戯』なんていう手慰みがあったのは確かだと思います。どうですか、違いますか?」
「…………」
多恵子は口を開かない。しばらく待ってみたけれど、無言のままだった。
仕方なく、涼介は続ける。
「日本教育史の最初の講義の時です。あの時、少し変わったことがありましたよね。あれです、松井さんも覚えていた桜吹雪。あの時はビックリしましたよね、窓の外の遅咲きの桜が、いきなり花びらを散らしてしまったんですから……。しかも周りには他にも桜の樹があったのに、なぜか一本だけが。
結局、突発的なつむじ風の仕業ってことに落ち着いて、〈風神の気まぐれ〉とか〈かまいたちの悪戯〉と呼ばれるようになったわけですが……違いますよね?」
「そういえば、そんな事もあったわね。で、話の流れからすると、あの桜の件もあたしの仕業だって言いたいわけね?」
「そうです。だけど、あなたはあんな事をしようとは思っていなかった。きっと、あの時、誰よりも驚いたのはあなた自身だったでしょうね。松井さん、あなたはあの時、桜の花びらや小枝にささやかな悪戯をしようと思っただけなんじゃないですか? なのに、残りが少なくなっていたとはいえ、桜の樹一本分の花びらを散らしてしまった。びっくりしつつも、あなたは考えたはずです。
なぜか? なぜ、こんな大袈裟なことになってしまったのか?
あなたは念動力の実験を繰り返したことでしょう。そして、見つけた。自分の能力が強く作用するのは、5号館2階の第8小教室だということに。しかも、それはなぜか、日本教育史の受講中に限っているということに」
なら当然、次に考えることは条件だ。
なぜ、水曜日の1講目、日本教育史の時にだけ、力が飛躍的に強くなるのか?
少し考査してみれば、自然と一つの答えに辿り着けたことだろう。
……人だ。念動力アップの条件となり得るものは、それしかない。
常に入れ替わるもの。それでいて、決まった時(水曜日の1講目)に固定されているもの。
それは、教壇に立つ講師と受講する学生だ。
念動力アップの条件は、第8小教室という場所じゃない。人間の方だ。
多恵子がそう考えたであろうことは、想像に難くない。
そこから先は簡単なことだっただろう。
なにせ、日本教育史の受講生の大半は、教育学部の学生だ。それ以外の学部からの受講生は数えるほどしかいない。
多恵子にとって、大半の学生は顔を見知っていたはずである。もちろん、講師も含めて。
考えるまでもない。それらの人間は難なく条件候補から除外できる。
残るは、少ない他学部の学生だ。自分の探している条件たり得る人間は、その中の誰かに違いない。
残る学生たちを一人一人チェックしていったとしても、たいした手間ではなかっただろう。
それにおそらく、多恵子がまず初めに調べたのは妖怪男の自分だろう、涼介はそう思っている。
いかにも怪しげな奴が一人交じっているのだ。やはり、まずはそこから手を付けたくなるのが、自然な流れというものだろう。
その結果、彼女の調査はすぐに済んでしまったはずだ。
「あなたは、オレの側にいると自分の能力がアップすることに気づいた。たぶん、それからは暇を見つけては、オレのことをこっそりと尾けまわしたりしていたんじゃないですか?」
「…………」
「なにせ、この前あなたが言ったように、本当にオレは美咲のことしか見えていないですからね。オレのことを尾けるのは簡単だったでしょう? もしかしたら、あなたが常にオレのすぐ横にいたって、オレは全然気づかなかったかも知れません。水島さんだって、ミス十波学園大の称号がなければ、全然知らない人です。すれ違ったって、目に留まることもないでしょう。まあ、水島さんが何かの着ぐるみでも被っていれば、さすがに目に留まるでしょうけどね」
最後の言葉に、多恵子が微かに吹き出した。
その笑いに思う。
(やっぱり、この人は……)
彼女の笑いの中には、明らかに嘲笑が含まれていた。それは涼介へ向けたものではないだろう……。
「そして。オレにくっ付いているうちに、あなたはもう一つのことに気づいた。自分の能力が少しずつ強くなってきていることに。好奇心が旺盛で、勝気なあなたのことです。たぶん、あなたは自分の能力をマイナスのものだとは考えていない。それなりに便利なものだと思っているはずです。だから、自分の能力が強くなっていくことに、喜びを覚えていたんじゃないですか。ウキウキと楽しかった……そうでしょう、松井さん? ただ、今はどうか知りませんけどね」
少しの間を置いて、「これが、今回の事件の不幸なきっかけです」と涼介は締めた。
☆
まさか……見破られるなんて、思ってもみなかった。
涼介の言っていることは、ここまでは全て見事に的を射抜いていた。
絶対安全圏だったはずなのに……。
眼差しがしっかりと感じられる。
けれど、その感情は読み取れない。
前髪の下で、涼介はどんな表情をしていることだろう。
怒っているのか……。
哀しんでいるのか……。
それとも、憐れんでいるのか……。
たぶん彼のことだ、得意げな顔はしていないだろう。
きっと、全部見破られているんだろうな。
けれど、まだだ。
まだ……。まだ負けない。
……になんて、負けたくない!
(だから、あたしは抗う……)
あたしはまだ負けない……。




