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『たった6文字のHOPE ~神谷探偵事務所はぐれ事件簿~』  作者: 水由岐水礼
FILE・#1 神谷探偵事務所の諸事情
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「毎度ありがとう!」

 城山祐一郎は、店を出ていこうとする青年の背中に声を掛けた。

 その声に、お得意様の青年は振り返り、ぺこりとお辞儀を返す。

 それにしても……と、祐一郎は思う。

(いつもながら、見事なだらしなさ振りだな)

 よれよれの伸びたTシャツに、随分と草臥れたジーンズ。

 髪をセットをするどころか、櫛やブラシすら持っていないんじゃないだろうか。長めの髪の毛はひどく乱雑で、それが計算された無造作ヘアーなどではないことは一目瞭然だった。

 顔に垂れた前髪はやけに長く、まるで簾のように青年の目許を覆い隠していた。それが青年の印象を暗く、どこか陰鬱なものにしている。

 ──妖怪のお兄ちゃん。

 近所の幼稚園児たちが青年のことをそんな風に呼びたがるのも、無理はない風体だと思う。

 とはいえ、それは上っ面だけの印象であり、真実ではない。一見「冴えない君」の青年が、実はそうでないことを祐一郎は知っている。

「涼ちゃん、早く早く!」

 店先から届く声が、青年を急かす。

 雑誌の並べられた店頭で、セーラー服姿の少女が焦れったそうに手を振っている。

 その手の動きに合わせ、少女の長いポニーテールが揺れていた。

 今日もいつもと変わらず、羨ましいくらいに元気いっぱいといった感じだ。

 少女のことは彼女が小学生の頃から知っているが、昔からその溌剌としたところは変わらない。

(ランドセルを背負っていた子供が、今や大学生と女子高生か……)

 ……私も歳を取るはずだ。

 二人の姿にちょっとした感傷に浸りながら、祐一郎は、最近薄くなり始め白いものが交じり出した自分の頭を撫でた。

「もう! 涼ちゃん、早く早く!」

 もう一度焦れたように言うと、幼なじみの青年の腕を引っ張り、少女は店の脇にある階段を一緒に上っていった。

 このビルの三階には、青年の叔父が経営する〈神谷探偵事務所〉が、テナントとして入っている。

 二人は、青年の叔父、神谷慎也を訪ねてきたらしい。この書店には、そのついでに立ち寄ったというところだろう。

 ──神谷慎也。

 祐一郎は、三階のテナント契約者のことを思った。

 甥っ子ほどではないが、慎也もなかなかにユニークな人物である。

 酒がまったく飲めない下戸で、チョコレートが大好き。

 チョコが好きだからというわけでもないだろうが、男前ではあるが慎也はかなりの童顔だった。実際の歳である32よりも、10歳以上は若く見えた。近くの高校の紺ブレの制服も、彼ならばほとんど違和感なく着こなせてしまえることだろう。

 そんな童顔を隠し少しでも大人に見えるようにと、慎也は外出時には必ずブラウンカラーのサングラスを掛けていた。けれど、慎也には申し訳ないが、祐一郎はそれもあまり効果はないと常々思っている。

 童顔の店子とは逆に、祐一郎の方は少しばかり歳よりも老けて見られがちだった。

 それもあって、

〝歳よりも若く見られるだなんて、羨ましいかぎりじゃないか〟

 と祐一郎は思うし、慎也に面と向かってそう言ったこともある。

〝私なら嬉しいけどなぁ……〟

 けれど。慎也にとって、それはこれっぽっちも嬉しいことではないらしい。

 まあ、童顔には、童顔にしか分からない苦労があるのかもしれない。

 ただ、どんな人物であっても、祐一郎にとっては慎也は救世主だった。


 半年前、慎也がテナントとしてこのビルに入ってくるまで、城山ビルは完全に運に見放されていた。

 いや、幽霊に見込まれていた、と言った方が正しいだろうか。

 実際、城山ビルは、〈幽霊ゴーストビル〉と呼ばれていたのである。

 現・神谷探偵事務所。つまり、このビルの三階は、契約したテナントがすぐに出ていくことで有名になっていた。それも、ひと月どころか、半月と保ちはしないのだ。

 その理由が、怪奇現象で……。怪我人こそ出なかったものの、新しいテナントが入るたびに必ず騒動が巻き起こった。触れてもいない物が勝手に動いたり、あちこち飛び回ったり……怪奇現象としてはメジャーなポルターガイスト現象、それがテナントの入った三階で発生していたのである。

 そんなことが毎度毎度、何度も立て続けに起これば、偶然や気のせい等とは言えなくなるし、隠すことも無理になってくる。どんなに話の中身が滑稽でも、人の口は噂するようになる。

 いつの間にか、幽霊ビルの噂は街中に広がっていた。

 くだらない与太話のような噂でも、城山ビル三階のテナントが頻繁に入れ替わっていたのは事実である。そのことがただの噂話に信憑性を付加していった。

 やがて、幽霊ビルの噂は、いろんな尾ひれがつき町の誰もが知る怪談話になっていた。

 噂の広がりとともに、客足は徐々に遠退いていき、書店の売り上げは落ち込んでいった。

 もちろん、三階フロアに新しい借り手が付くはずもなく……。

 訪れてほしい人間は来ず、歓迎できない奴らばかりがやって来る。怖いもの見たさの若者たちの肝試しグループや、カメラ持参の怪談マニアなど、夜中に何度その類の連中を追い払ったことか。

 おかげで、あの頃は毎日のように寝不足に悩まされていた。特に、怪談のシーズン、夏場は本当につらかった。

 そんな時、現われたのが神谷慎也だった。

〝こちらで事務所を開きたいので、賃貸契約を結びたいのですが……〟

 城山ビルの悪い噂は知っているだろうに……。

 慎也からの申し出があった時、祐一郎は正直驚いた。が、それ以上に喜んだ。

 なんとか新しいテナントを入れて、幽霊ビルの噂を払拭したかった。ずっとそれを願っていたのだ。新たなテナント契約の申し出、それは待ちに待っていたものであり、とても有り難いものだった。

 けれど。またすぐに出ていかれたりしたら……今度こそお仕舞いだ。

 そうならないためにも、慎也には長くテナントを続けてもらわなければならなかった。

 そこで、祐一郎は、滑稽なほど無茶苦茶な契約条件を慎也に提示した。

 1、テナント料は月3万円。光熱費等は別途、自己負担。

 2、契約期間は最低3年とし、1年以内の契約の解約は禁止。

 3、もし1年以内にテナント契約を解約する場合は、賠償金として100倍の賃料を実質契約ヵ月分、当方に支払うこと。

 ……と、こんなものである。

 それは、1年以内にテナントの契約を解約しないかぎり、慎也の側に有利すぎる条件だった。

 テナント料、月3万。それを提示した時、慎也は滑稽なほどに驚いていた。

 それはそうだろう。もし幽霊騒ぎさえなければ、そこは提示された額の10倍以上のテナント料を取れる物件なのだ。

 いくら曰く付きとはいえ、破格すぎる。

 それに、賃料の100倍などという法外な賠償金、そんなものは法律的に有効とも思えない。だいたい何の賠償金なのか、事情を知らない人間にとっては、ふざけているとしか思えないような得体の知れない条項である。

 ただ、探偵事務所を開こうというくらいだ。慎也には、祐一郎の提示した条件の意図は分かっていただろう。

 精神的に限界に近く、ひどく参っていた時に考えたこととはいえ、それは苦肉の策とすらも言えないような、児戯にも等しい愚かな行いだった。

 本人すらも馬鹿らしいと思っている条件提示に慎也がどう出るか。こんな無茶苦茶な話、まず受けるわけがない……まあ、確実に断ってくるだろうなと思っていた。

 なのに……。それに反して、三階フロアの下見をした翌日、慎也は早くも契約を結ぶことを伝えてきた。

 それから半年あまり。今のところ、神谷探偵事務所が城山ビルから出ていく気配はない。

 それにどういう訳か、今度のテナントに対しては、幽霊も悪戯を控えているようだった。

 ここ半年、城山ビルの三階は至極平和な状態が続いている。

 神谷探偵の事務所としても、自身の住みかとしても快適だと、慎也はえらくご満悦のようだ。

 祐一郎としても、悪い噂が下火になり、ほっと一安心。おまけに、慎也は元警官の探偵だった。そんな人間が、夜中もビルに常駐してくれているのだ。これは無料ただで警備員を一人雇っているようなものだった。

 加えて、もう一つお得な点があった。

 慎也は三階フロアの約3分の1を書庫スペースとして使っていた。彼はかなりのミステリー好きで、何度か見せてもらったが、その蔵書は質・量ともに相当なものだった。

 もしかすると、ミステリー好きが高じて、慎也は探偵になったのかもしれない。

 そんな訳で、毎月、三階の事務所からは、ミステリー系の新刊本が大量に買い上げられていく。

 その購入金額は、月によってはテナント料の収入よりも多くなっていた。神谷慎也は現在、城山書店の大得意様でもあった。

 ひょっとすると、そこには安すぎるテナント料に対する、補填の意味合いも含まれているのかもしれない……と祐一郎は秘かにそう思っているのだけれど、それは考え過ぎだったりするだろうか。

 なんにしろ、本当にいい人物がテナントに入ってきてくれたものである。

(明日あたり、神谷さんを食事にでも誘ってみるかな……)

 実は祐一郎も結構ミステリーが好きな人間だったりし、慎也と同好の士といえた。二人のミステリーに対する嗜好は重なるところも多く、その点に関しても慎也とは大いに馬が合った。

 そんなこともあって、大家と店子というだけでなく、祐一郎と慎也とは趣味を同じくするミステリー仲間でもあった。彼が酒を飲めないのは残念だけれど、食事しながら慎也とミステリー談議に花を咲かすのは、祐一郎にとっての最近の楽しみの一つであり、とてもいい気分転換になっていた。

(……そうだな、久し振りに慎也くんとミステリー談義と洒落込むか)

「うん、そうしよう……」

 知らず知らず声に出して、そう呟いた時。

「あの、すみません」

 女性の声が、彼の呟きと重なった。

 その呼びかけに、祐一郎は自分がレジカウンターにいたことを思い出す。

 お客様への応対をすべく、すぐさま意識を店員モードに切り替える。

 まずは失礼を詫びようと、目の前のお客に視線を合わせた瞬間、祐一郎は思わず感嘆の声を上げてしまいそうになった。

 一見しただけでブランド物のそれと分かる、淡いベージュ色のスーツを着込んだ女性は、恐ろしいほどに整った顔立ちをしていた。

「お訊ねしたいことがあるのですが……」

 歳は二十歳くらいだろうか。長い黒髪は艶やかに、色白の肌にすっきりと通った鼻梁。その大きめの瞳は、優しげな輝きを湛えている。

 形のいい唇から紡ぎだされた言葉が、耳の奥に心地好く沁み込む。

 その容姿だけでなく仕草も含め、身にまとう雰囲気全体が柔らかく上品な女性だった。

「神谷探偵事務所というのは、こちらでよろしいのでしょうか?」

 女性の美貌に見惚れてしまい、半ば意識が飛んでいた祐一郎は、少しまごついた応対をしてしまう。

「……あ、は、はい、そうですよ。神谷さんのところなら、あの入口脇にある階段を上って頂ければ、三階が事務所になってますよ」

「そうですか、有り難うございます」

 女性は丁寧に頭を下げた後、「もう一つ、お訊きしたいのですが」と続けた。

「ええっと……何でしょう?」

「その神谷さんの事務所に、天野涼介さんという方はいらっしゃるでしょうか?」

(……えっ、涼介くん!?)

 女性が口にした名前に、祐一郎は少なからず驚く。

 天野涼介とは、慎也の甥で、ポニーテールの少女に「涼ちゃん」と呼ばれていた妖怪青年のことだった。

(この別嬪さん……涼介くんの知り合いなのか?)

 あの非社交的な涼介を、こんなお嬢様が訪ねてくるとは……。

 涼介のよれよれのTシャツと、仕立てのいいお嬢様のブランド物のスーツ。服装一つをとってもあまりにも違い過ぎる両者に、二人の接点がまったく想像できなかった。

「ええ、おりますよ。涼介くんなら、今もちょうど事務所の方にいるはずですよ」

 祐一郎は言いながら、これはちょっと拙いんじゃないかな、と思う。

 こんなとびっきりの美人が、涼介を訪ねていったりしたら……。

 十中八九どころか十中十、彼の幼なじみの少女──小林美咲は爆発してしまうだろう。二人がどんな関係だろうと、それも聞かず美咲は嫉妬心を全開にするはずだ。

 ブラコンの涼介の妹でさえ、嫉妬の対象にしてしまうような少女である。おそらく、ただでは済まないだろう。

(こりゃあ……大変なことになるぞ)

「ご丁寧に、どうも有り難うございます」

「いえ、どういたしまして」

 と、お決まりの言葉を返した祐一郎に、もう一度礼を言うと、女性はレジカウンターの前から離れた。その立ち居振る舞いは、やはり育ちの良さを感じさせるものだった。

 連れがいたらしく、店の外で、彼女は、髪をショートボブにしたパンツルックの女性と合流する。

 二言三言、何か言葉を交わし、二人は連れ立って階段を上っていく。

 二人の姿が見えなくなると、祐一郎の口から深い吐息が零れた。それは意識せず吐き出されたもので。その呼気に合わせるかのように、自分の身体が弛緩したのも分かった。

 いくら美人とはいえ、相手は自分の半分の年齢にもならないと思われる女の子だったというのに……。

 どうやら、年甲斐もなく、若いお嬢様相手に自分はなにやら緊張をしてしまっていたらしい。

 吐息と弛緩。自分の心身が示したリラックス反応に、遅ればせながら、祐一郎はそのことに気づいた。

(……私もまだまだ若いということか)

 まあ、枯れていないことは良いことだよなぁ……。

 そんな益体もないことを思い、祐一郎は苦笑した。

 城山ビル一階、城山書店は今日もいつも通り、店主が色ボケなことを考えつつ苦笑できる程度には平和なようだった。


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