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たんたんたん……。
リズム感のある足音を響かせながら、少年が階段を駆け上がってゆく。
たいして長くはない階段だった。
すぐに最上階、目的地に辿り着く。
城山ビル三階、〈神谷探偵事務所〉のドアの前で少年は足を止めた。
〝本日定休日〟
ドアに掛けられた白いプレートの赤い文字に、少年はにやりと口の端を上げた。
調べるまでもなく分かっていたが、一応、手に持った夕刊の日付を確かめる。
6月27日。
新聞の上部には間違いなく、そう今日の日付が印刷されていた。
「やっぱり、そうだ……」
そうだったんだ……。
少年はひとり、納得したように呟いた。
新聞配達のアルバイトを始めてから、はや3ヵ月と3週間。
本日定休日。その赤い文字を見るたびに少年は思っていた。
〝この事務所の定休日って、一体どうなっているんだろう?〟
火曜日だったり、金曜日だったり、かと思えば、またある時は月曜日だったり……。
定休日とあるくせに、ドアにプレートの掛かる曜日は目にするたびに違う。でたらめで、まちまちだった。
これのどこが定休日なのか?
……ずっと疑問だった。
もしかして、思い立ったが吉日……ってな具合に、この事務所の所長さんの気分任せに休日が決まっているんじゃ……。
なんて……思ったりしたこともあったけれど。疑問を抱き始めて2ヵ月半、少年は気づいた。
ずばり、答えは数字の7。……簡単なことだった。なんのことはない、この事務所は「7」の付く日が休みだったのだ。
そう、朝市の開市日などのように。
「ふっふっふっ……我ながら、なかなかの名推理。俺、このバイト辞めて、ここで雇ってもらおうかなぁ……なんて、ね」
疑問の解決に、少年は少しばかり得意な気持ちになっていた。どうも、この少年はちょっぴりお調子者くんのようだ。
「──謎はすべて解けた」
などと、さらに調子に乗り、アニメやマンガでお馴染みのセリフを決めながら、ドア横の郵便受けに夕刊を差し込む。
そして。
「あのう、失礼しまーす。俺、ここで雇ってもらえませんかー?」
などと言いながら、事務所のドアを思いっきり開けた……りは、もちろんしなかった。
さすがに、少年もそこまでお調子者くんではない。
お役目を終えるとすぐに背を返し、次の配達先へと向かうために階段を足早に下りていく。
たちまちの内に、少年の足音は消えた。
それを待っていたかのように、事務所のドアが開く。
いや、実際、待っていたのだ。新聞配達の少年は知るべくもなかったが、事務所前の様子は、高性能な小型カメラによって、事務所内でモニタリングされていたりするのである。
かたん……。スチール製の郵便受けが音を立て、中から折り畳まれた新聞が抜け出す。
お調子者くんの新聞配達の少年がまだこの場にいたら、あんぐりと口を開け目を見開いていたことだろう。
もしかすると、悲鳴なんかを上げていたかもしれない。
事務所から出てきた人間はいなかった。
なのに、新聞は事務所の中へと入ってゆく。
新聞は宙に浮いていた。
ぱたん。独りでにドアが閉まった。このドアは決して自動ドアではない。もしそうであったとしても、ドアの前には誰も立ってはいなかった。
ちょうど1メートルくらいの高さだろうか。
その辺りの高度を維持した状態で、新聞はこの事務所の所長、神谷慎也のデスクへと向かう。
小さなモニターが二つにファイルが数冊。あとは、筆記用具といった細々とした物が、いかにも事務用といった風な、デザインよりも丈夫さが優先といった感じのスチール製のデスクの上に置かれている。
飛んできた新聞は、そのデスクの上で動きを止めた。
「ご苦労さま」
誰に言ったのか。労いの言葉を口にしつつ、慎也は目の前に浮いている新聞を手に取った。因みに、新聞は地元紙である。
と同時に、「ぴぃー、しゅんしゅん!」と何か汽笛のような音が聞こえた。
音の発生源は隣、給湯室からのようだ。
音の正体はすぐに知れた。ケトル、薬缶の悲鳴だ。
すわ早く火を止めなければ!
普通なら、ここはこうなる場面である。
ところが、慎也は怒っているようなケトルの悲鳴を無視する。悠然と新聞を広げ、回転椅子から腰を上げようとしない。
事務所内には慎也ひとりだけで、他には人の姿はない。
にもかかわらず、ケトルは鳴くのを止め、すぐに大人しくなった。
しばらくすると、今度はソーサーに乗ったカップが、新聞の時と同じく、またもや宙を浮かび慎也の方へやって来た。
……いったい、どうなっているのか?
などと訝ることもなく、慎也はカップがデスクに着地すると、「ありがとう」と何もない空間に笑顔を向けた。
カップを手にとって、それを口に運ぶ。
まずは、鼻と舌がコーヒーの馥郁たる香味と風味、苦味を味わう。それが幸福感の先駆けとなる。
コーヒーには砂糖もミルクも入っていない。
慎也は煙草も酒も嗜まない。上着のポケットには、煙草の代わりにシガーチョコやポッキーを忍ばせている甘党人間である。
ブラックコーヒーは、そんな彼の好む唯一といえる大人の味というやつだった。
「やっぱ、コーヒーはブラックに限るよなぁ」
リラックスした気分になり、ほうっと慎也は吐息を漏らした。
ふと時計を見る。
──アンラッキー・スリー4。
二本の針は、ちょうど「4」が三つ並ぶ時刻を指していた。あまり縁起の宜しくない数字の並びだ。まあ、だからといって、別にどうということもないのだけれど。
慎也にとっては、ただ単に「もうすぐ5時かぁ……」というだけのことでしかない。
(そろそろ、あいつらの来る頃だな)
と、デスクへ視線を落とすと、事務所前を映すモニターに、ちょうど「あいつら」の姿が映し出されていた。
セーラー服姿のポニーテール少女と、Tシャツ&Gジャン、ジーンズというラフな格好をした青年だ。青年の方は、小脇に〈城山書店〉とプリントされた見慣れた紙袋を抱えている。
どうやら、事務所に来る前に、このビルのオーナーが経営する1階の書店に寄ってきたらしい。
少女は、カメラに向かいVサインを出していた。
「こんにちはー!」
元気な声とともに、ドアが開く。
ご自慢のポニーテールを揺らしながら、少女が事務所内に入ってくる。
青年がその後に続き、ドアを閉めた。
「いらっしゃい、美咲ちゃん、涼」
新聞を畳みながら、慎也は二人に微笑を向けた。
そして、もう一人。デスク脇にすっと姿を現わした少女──幽霊少女、雪乃にもにっこりと笑ってみせた。