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モデルも顔負け。スタイル抜群のボディにフィットした、レッドカラーのライダースーツが目に眩しかった。
ぎりっ……。
肉体があったならば、はっきりと歯軋りの音が聞こえたことだろう。
不機嫌丸出しの膨れっ面で、雪乃は慎也の隣に座っていた。
視線は斜向かい、ソファーに腰掛ける女性を真っすぐに射抜いている。
佐々木冴子。28歳。慎也の元同僚で、十波署・刑事課捜査一係、第二班の紅一点。階級は巡査部長で、武道は合気道を得手とし、趣味は風景写真の撮影と愛車でのツーリング。その相棒は、ライダースーツとお揃いのレッドカラー、ホンダのCBR……。
新しくオープンしたケーキ屋の情報提供など、ちょっとした用事を見つけては事務所にやって来る、女狐な女刑事。彼女のパーソナルデータは、雪乃の記憶領域にすっかりインプットされていた。
……腹立たしい。
事件の話をしているというのに、どこか嬉しそうな冴子の様子に、カップの中のコーヒーを頭からぶっ掛けてやりたくなる。
「……それで、やっぱり車種の方はフェラーリで間違いないんだね?」
「ええ、詳しくは話せないですが、まず間違いないそうです」
「なるほど、発見者の警備員は本物のカーマニアだったわけだ。マニアの面目躍如ってところだな。で、ブレーキの方はどうだって?」
「急ブレーキの痕跡が確認されています。その他いろいろな状況から鑑みて、今日までに故意による犯行の可能性は否定されています」
冴子の言葉に、慎也の表情が弛む。
「それじゃあ……」
「はい、川崎秋彦さんのひき逃げ事件には、何の裏もないかと。交通課からは、うち(捜査一係)も含め、他の課の方への捜査協力等の要請もなされていません」
慎也の身体から力が抜ける気配がした。
隣で、雪乃もほっと胸を撫で下ろす。
「当然、水島玲奈さんへの疑いは、最初から無かったも同然の扱いです」
いつまでも疑われているのでは、玲奈があまりにも気の毒すぎる。
(よかった……)
安堵感に思わず、雪乃は冴子に笑顔を向けてしまった。
(あ……)
もちろん、冴子の瞳に雪乃の姿は映っていない。
雪乃の笑った顔を、彼女が見られたはずがない。
けれど……それでも、なんだか面白くない。
不覚を取ってしまった自分に、ちょっぴり口惜しさを感じた。
冴子は、雪乃にとって最大の敵なのだ。
一昨日、玲奈と一緒にやって来た松井多恵子のことも、雪乃は敵……気に食わない奴だという判定を下した。
ただ、多恵子は雪乃にとって何の心配もない敵だった。
彼女は、慎也の敵(相性悪)でもあるから……。
彼の敵は、雪乃の真の敵にはなり得ない。
自分にとっての本物の敵は、慎也に特別な好意を抱く女性だった。
自分が好きな人……慎也を同じく好きな人間、それが雪乃にとっての真の敵なのだ。
つまりは恋敵である。
……慎也に好意を抱く女性。
それだけで雪乃は相手を嫌いになり、憎しみ近い感情を抱いてしまう。
恐ろしいほどの嫉妬心だと、人は言うかもしれない。
けれど……。
雪乃からしてみれば、みんな反則なのだ。
冴子にしろ他の女性にしろ、みんな生きている。血の通った肉体がある。
(だけど……。私には、それがない……)
雪乃は、慎也に触れることができない。
抱き締めてもらうことも、自分から慎也を抱き締めることもできない。
ただ握手するだけのことでさえ……不可能だった。
幽霊である雪乃には、生命あるものに触れることができなかった。
事務所に迷い込んできた蝶々は、そこに何も無いかのように雪乃の身体をすり抜ける。
植物も同様で。植木鉢を運ぶことは出来ても、そこに咲く小さな花に触れることは叶わなかった。
そんな時、どうしようもなく切なさが込み上げてきて、雪乃は泣いた。
この半年あまりの間に、何度泣いたことだろう。
大声を上げて、何度も何度も泣いた。
慎也に気づいてもらいたくて……。
大人の注意を惹こうとする幼子のように、大きな声で哀しみをアピールする。
けれど。その声はいつも慎也には届かなかった。
泣き疲れて顔を上げても、雪乃の顔は濡れていなかった。
……涙腺が温かい涙を流すことはなかった。
そんな自分に、さらに哀しみは募る。
幽霊である自分が、文字通り恨めしかった。
慎也との新しい生活は楽しいけれど、反面で哀しさや淋しさを感じることも少なくない。
この事務所がまだただの倉庫で、雪乃が独りぼっちだった時。雪乃の心は静かだった。
喜びも楽しみも、哀しみも淋しさも……そして、悔しさや怒り。雪乃の中には、感情なんてものはほとんど無かった。
自分が生きていた頃の記憶はなく、「雪乃」という名前以外、何も覚えていることはなかった。
気づくと、ここに……城山ビル三階の倉庫に雪乃はいたのだ。
……本ばかりで何もない。
本当に何も無かった。
……時の流れさえもない。
自分が幽霊になってから、どれくらいの時が流れていたのかも雪乃は知らなかった。
(……慎也さん)
雪乃は、隣の慎也の顔を見上げた。
話題は事件のことから、いつの間にか雑談に変わっていた。
慎也は穏やかに微笑んでいる。それは、雪乃の大好きな笑顔だった。
(でも……私に向けられたものじゃない)
……嫌だった。
慎也が冴子のことをただの後輩としか見ていないことは、十分に知っている。
その笑顔の中に、特別な感情は込められていない。
それでも、雪乃は嫌だった。
こっちを向いて欲しかった。
冴子のことなんて、見ないで欲しい。
(いつも、こんなに近くにいるのに……)
慎也がとても遠くにいるように思える。
雪乃にとって、彼は近くて遠い存在だった。
向かいで笑う冴子が羨ましかった。
……自分は幽霊だ。
そして……冴子は生きている。
(やっぱり反則だ……狡い)
自然の摂理から外れているのは、自分の方だ。それは重々分かっている。
冴子は当たり前に生きているだけだ。何のルールにも反していない。
(だけど……どうしても)
雪乃は、彼女に対し「反則だ」という気持ちが拭えなかった。
(だって、私は慎也さんに触れることさえできないんだよ……)
冴子をほんの少し(……本当はかなりだけど)憎ったらしく思うことくらい……。
……それくらい、許されるだろう。
「ねえ、神谷先輩、お昼まだでしょう? よかったら、ご一緒しませんか?」
本日非番の女刑事の声が、物思いに耽る雪乃の耳に飛び込んできた。
(……なっ!)
冴子の言葉に、半ば心の大海原を漂流していた雪乃の意識は一気に現実に引き戻される。
「それって、何か奢れってことかい? 情報の提供代わりに」
言った慎也に、
「はい、そう思ってもらって結構です」
と、冴子は頷き嫣然と微笑んだ。
……な、なんて厚かましい人なんだろう!
冴子への遠慮ない憤りが復活する。
(そんなの、放っとけばいいのよ!)
けれど。大きく息を吐くと、
「OK。わかったよ」
慎也は苦笑しつつ言った。
「喜んで付き合わせてもらうよ」
「ありがとうございます!」
冴子の弾んだ声とは対照的に、雪乃の気分はずぶずぶと沈み込んでいく。
(慎也さんの馬鹿……)
ソファーの背に無造作に掛けられていたジャケットに、慎也は袖を通す。
「じゃあ、行こうか」
――その瞬間だった。
たったららたったたったったぁ~♪
慎也の胸元から、誰しも一度は耳にしたことがあるだろう、有名な行進曲のリズミカルなメロディーが流れた。
その軽快なリズムは、涼介からの着信を示すメロディーだった。
玲奈に何かあったんだろうか。
慎也の纏う空気が緊迫する。それが雪乃にも伝わった。
「ちょっと、ごめん」
冴子に言うと、慎也はジャケットの内ポケットから携帯電話を取り出した。
「涼か、どうした?」
電話の向こうの涼介に問い掛ける。
「……なに、なんだって!」
少し大きめの声が、慎也の口から上がった。
うん、ああ、そうか……などと、彼は相槌を打っている。
「……なるほどな」
話が進むにつれて、厳しかった表情が少しずつ弛んでくる。
決して穏やかではないものの、慎也の顔に安堵の色が浮かぶ。
どうやら、さほど深刻な話ではないらしい。
「……そうか、うん……わかった。とりあえず、今からすぐに俺もそっちに行くから……。ああ、そうだな……それでいい」
……ピッ。
慎也は通話を切った。
「ごめん、佐々木君」
冴子の方を振り返ると、慎也は謝った。
「いいえ、事件なら仕方ないです」
さすがは刑事というべきか。その辺は冴子も切り替えが早かった。
「ごめんな。この埋め合わせは今度、必ずするから」
「なら。その代わり、その時はディナーにランクアップですからね」
冗談めかしに冴子が言うと、
「了解!」
慎也は、小さく敬礼を返した。
「相変わらず、ちゃっかりしてるね、君は」
言いながら、慎也は愛用のブラウンカラーのサングラスを掛ける。
「じゃあ、悪いけど」
「いってらっしゃい!」
冴子の声に送り出され、慎也は事務所を飛び出していった。
そんな二人の遣り取りに、雪乃は再び憂鬱な気分に捕らわれる。
何だかんだ言っても、冴子が魅力的な女性であることは認めていた。
不覚にも素敵だと思ってしまう。
だからこそ、余計に憎らしいのだ。
(やっぱり、この人……格好いい)
……どうして冴子なのか。
皮肉なことに……目の前の恋敵は、実は雪乃の理想の女性像だったりするのだ。
そのことが、雪乃にはたまらなく悔しかった。