18
3
病院の病室ほど、白がよく似合う場所はないだろう。
見渡すかぎり、白ばかりが瞳に映る。
前後に左右、病室の四方の壁はお決まりのように白い。だったら上下はどうか、これまた天井も床も見事なまでに白かった。
日除けに閉じられたカーテンが、そよ風に優しく揺れている。そのカーテンの色も言うまでもない。
白、白、白……白が無愛想なまでに、さほど広くない室内の大勢を支配している。
病院独特の薬臭さが、さっきから鼻孔をちくちくと刺激し続けている。
正直、涼介は病院があまり好きではない。
何度来ても、慣れない場所だった。
病院の清潔感、ホワイトカラーに満ちた空間が、妖怪もどきの風体をした自分を排斥しているような気がするのだ。
真っ白なシーツが敷かれたベッドの上に、川崎秋彦が横たわっていた。
右足を吊り、左腕にも包帯が巻かれ簡単に固定されている。反対側の右腕には、点滴のチューブが繋がっていた。
額の包帯や頬に貼られたガーゼが、痛々しさを誘う。せっかくの美形が形無しだった。
身体の痛みが酷いのだろう。涼介の話を聞きながら、秋彦は何度も苦しげに眉を顰めていた。
赤みが薄く、顔色が悪い。少し憔悴しているようにも見える。涼介を見上げる顔には、いつもの明るい爽やかさはない。
今、病室に玲奈の姿はない。
「……悔しいな」
やや嗄れ気味の声で、秋彦は零した。
「記憶が少しくらい無くなっても、どうってことはない。でも、玲奈を守ってやれないのが、どうにも悔しくてな……」
「先輩……」
口を開いたものの、言葉が続かなかった。
「くそっ……。なんだって俺は、こんなところで横になってんだろうな。本当は俺が……俺が自分で、玲奈のことを守ってやりたいのに」
秋彦が、右手をぐっと握り締める。
骨折や傷の痛みとは別の痛みが、秋彦の顔を苦渋の色に染める。
涼介は何も言わなかった。
ただ静かに、秋彦の気持ちが収まっていくのを待つ。
秋彦の拳が、軽く開かれる。
「すまないな、涼介。なんだか面倒なことを、押し付けてしまって……」
「そんな、面倒だなんて……そんなこと全然思ってませんよ」
涼介は、全然のところで首を左右に振った。
「そうか……」
と、秋彦が微笑する。
しばらくの間を置いて、秋彦は言った。
「玲奈のこと、よろしく頼むな」
「はい、任せておいてください」
秋彦の目を見つめ、涼介はしっかりと頷いた。
「ああ、お前なら大丈夫だって信じてるよ。ただ、無茶はするなよ。ちゃんと自分のことも守るんだぞ」
秋彦の真摯な眼差しが、涼介を射抜く。
「自分を守る……ですか?」
「そうだ。涼介、お前は自分のこととなると、どうも少し捨て鉢になるところがあるからな。いくら玲奈が無事でも、お前が大怪我なんてしたりしたら全く意味がないんだからな。そんなことになったら、礼を言うどころか逆に怒鳴りつけてやるからな、覚悟しとけ。
いいな、涼介。自分のことも、しっかりと守ってやるんだぞ。美咲ちゃんを泣かすような真似は、絶対にするんじゃないぞ」
少し苦しそうにしながら、秋彦はゆっくりと言い聞かすように話した。
「先輩……」
秋彦の言葉が、心の中に沁み込んでくる。
戒めの言葉の中に溢れた自分への思いやりに、涼介は温かい気持ちになる。
同時に自分の甘さに気づき、恥じるとともに反省する。
「……ありがとうございます」
自然と、感謝の言葉が唇から紡ぎだされた。
頭を下げた涼介に、秋彦は苦笑する。
「おいおい、涼介。お前が頭を下げてどうするんだよ。礼を言わなきゃいけないのは、俺の方なのに……」
困ったように言って、
「本当に……お前はいい奴だよな」
秋彦は、最後にそんな言葉で締めた。
面と向かって、「いい奴だよな」などと言われ、涼介は赤面してしまう。
「じゃあ、玲奈のこと頼んだぞ」
秋彦はゆっくりと瞼を閉じた。
疲れていたのだろう。秋彦はそのまま眠ってしまった。
(……任せてください。水島さんのことはちゃんと守ってみせますから)
「もちろん、オレ自身のことも……」
涼介は静かに椅子から立ち上がり、ドアへと向かった。
ドアを開けると、足許に花の生けられた花瓶が置かれていた。
……がっちりとした太めの花瓶。
それは、玲奈が水を替えるといって持って出たものだった。
(なぜ、こんなところに……?)
「まさか……」
涼介は駆け出した。
(……油断した)
まさか、こんなところにも嫌がらせ犯の奴が。
――どこだ、どこだ、どこだ!
「廊下は走らないでください!」
誰かが高い声で怒鳴っていた。
けれど、涼介の耳にその声は届いていなかった。
(――水島さん!)
☆
階段を全速力で駆け上がる。
最後のステップを上り切り、終点のドアを思いっきり開けた。
肩で息をしながら、屋上へ飛び出す。
視界が一瞬で大きく開けた。
少し眩しさを感じた。久し振りの青空が、彼方に見える大鷲山まで広がっている。
――いた!!
蒼穹の下、涼介は見つけた。
(……よかった。嫌がらせ犯の仕業じゃなかったのか……)
ぜいぜいと荒い息に交ぜて、涼介は安堵のため息を吐いた。
玲奈と自分以外、辺りに人の姿はない。
玲奈はフェンス越しに空を眺めている。
その横顔には物思いの風情が漂っている。
「水島さん!」
涼介の呼びかけに、ワンテンポ遅れて玲奈は振り返った。
「涼介さん……?」
状況が把握できていないらしい。
半ば夢現つの表情で、彼女はぼんやりとした眼差しを涼介に向けた。
呼吸はまだ整わない。肩を上下させながら、涼介は玲奈の許へと歩みを進める。
汗のために、Tシャツは湿り気味だった。
近づいてくる涼介の草臥れた様子に、玲奈はようやく事態が飲み込めたようだ。
「あ……。ああ、私……」
彼女は目を見開く。
自分の行動がどんな影響を及ぼしたのか、気づいたらしい。
自分を捜し病院中を駆けずり回っていた涼介の姿が、想像できたのだろう。
「ごめんなさい。本当にすみません」
心底申し訳なさそうに、玲奈は涼介に頭を下げた。
「余計な心配を……」
さらに続けようとする彼女を、
「いいんですよ。心配するのも、警護役の仕事ですから」
と、涼介は息を弾ませつつも、穏やかな口調で遮った。
玲奈が頭を下げる。
「水島さんが無事で良かったです。ちょっと疲れましたけど」
微かに声を立てて、涼介は笑った。
「涼介さん……。本当にすみませんでした」
「だから、もうそれはいいですよ」
けれど、一応けじめは必要だ。
「でも、今度からこういうことは控えてくださいね」
玲奈へ釘を刺す言葉は忘れなかった。
「はい」
「じゃあ、戻りましょうか。ただ病室に戻っても、先輩は眠ってるかもしれないですけど」
涼介は背を返し歩き始めた。
後ろから足音は追ってこなかった。玲奈が着いてきている気配はない。
「水島さん?」
振り返ると、やはり玲奈はまだ立ちん坊のままだった。
「もう少し……」
……消え入りそうな声。
「えっ……」
「もう少し、ここに居てもいいですか?」
玲奈の声は、とても沈んでいた。まるで、昨日、中学時代のことを語っていた時のように。
「……辛いんです、いま秋彦さんの顔を見るのは私、とても辛いんです」
玲奈の瞳は切なげに揺れていた。
「だから、もう少しだけ……待ってください」
「…………」
いったい、どうしたのだろう……。
不粋だとは思ったけれど、
「どうしたんですか、水島さん?」
涼介は訊かずにはいられなかった。
目を伏せて、玲奈は答えなかった。
沈黙が二人の間を漂う。
涼介は静かに待った。
玲奈が涼介に背を向けて、空を見上げた。
「さっきの秋彦さんと涼介さんの話、聞かせてもらいました」
沈黙が破られる。玲奈は語りだした。
「嬉しかった……。秋彦さんの気持ち、とっても嬉しかった……」
……秋彦さんの気持ち。
〝本当は俺が……俺が自分で、玲奈のことを守ってやりたいのに〟
あの時、玲奈は廊下で立ち聞きしていたらしい。
「それに比べて……私は卑怯者です」
玲奈の頭が垂れる。
「事故があった晩、秋彦さんは本当にもの凄く怒っていたんです。もう終わりかも……正直、そう思いました……」
ひき逃げに遭った時、秋彦は泥酔状態だったという。おそらく、玲奈のことで自棄酒でも呷っていたのだろう。
自棄酒なんて、普段の秋彦なら全く考えられないことだった。涼介が尊敬する先輩は、自棄酒をかっ食らい愚痴を零すような、そんな後ろ向きな性格ではない。
もしかすると、秋彦の方も、玲奈と同じような不安を感じていたのかもしれない。
深夜の自棄酒は、彼の不安と玲奈への想いの深さを物語っているんじゃないだろうか。
涼介はそう思った。
「そんなこと……」
……ないですよ。否定しようとしたが、玲奈は涼介に皆まで言わせなかった。
「なのに……秋彦さんは、私に優しく微笑み掛けてくれるんです。喧嘩したことなんて、すっかり忘れて。涼介さん……私、ホッとしているんです。彼の記憶喪失を喜ぶ気持ちが、心の中に確かにあるんです。彼が忘れてしまったことに安心している、そんな私がいるんです」
こちらからは見えないけれど、泣いていたりするのかもしれない。
語る玲奈の肩は震えていた。
彼女の言葉はさらに続いた。
「さっきみたいな彼の言葉に喜んで。喧嘩のことなんか無かったように、彼の笑顔に微笑み返す。そんな自分が嫌で……たまらなくて……。私は……卑怯者なんです」
再度自分を卑怯者呼ばわりし、玲奈は苦い感情の吐露を終えた。
「…………いいんじゃないですか、それで」
涼介は、ぽつりと言った。
びくり、玲奈の背中が微かに反応する。
「もし水島さんと同じ立場に立ったら、オレも……きっと卑怯者になると思いますから。水島さんだけじゃありませんよ。みんな、そうですよ」
なにも、卑怯者なのは玲奈だけではない。
誰だって、負の感情の一つや二つ、心のどこかに持っている。
……みんな、同じだ。
違うのは、自分のそのマイナスの心を許せるかどうか。
自分の卑怯さを、どれだけ敏感に自覚できるかどうか。
〝大人になっていくにつれて、自分の中にある卑怯さには鈍感になるものなんだ。それらに次第に目を瞑るようになる。淋しいことだけどな……〟
そんなことを言っていたのは、叔父の慎也だった。
叔父の言葉を逆に返せば、玲奈はまだ子供だということになる。そして、涼介も……。
清濁併せ呑む。それを身につけるには、玲奈は少し正直で真面目すぎるようだ。
だから、迷い苦しむ。
人によっては、そんな玲奈を馬鹿だという者もいるだろう。
「水島さんは、真面目すぎるんですよ」
涼介は思った通りを口にした。
もちろん、それは悪い意味ではない。
少し間があって、くすりと玲奈が笑うのが聞こえた。
「涼介さんがそれを言いますか。それって、なんだか変ですよ。だって、私から見れば、あなただって十分真面目すぎる人ですよ。私には、涼介さんも私と似たタイプの人だと思えるんですけど……違いますか?」
「…………」
……違っていないかもしれない。
〝おまえは真面目すぎるんだよ〟
以前、涼介も慎也に同じことを言われたことがあった。
……自分の中にある卑怯さに鈍感になる。
それも同じく、その時、「真面目すぎる」の後に続けて、慎也が涼介に向けて言った言葉だった。
「どうやら、前にも同じことを言われたことがあるみたいですね。真面目すぎる……実は私もそう言われたの、涼介さんが初めてじゃないんです」
「……オレもです。前に叔父さんに言われたことがあるんです。それから、川崎先輩にも……あ」
思わず、秋彦の名前を出してしまった。
……迂闊だった。
禁句だとまでは言わないものの、今は秋彦の名前は口にすべきではなかったのに……。
けれど。玲奈の方は気にした様子もなく、
「そうですか、涼介さんもなんですか」
と、話に乗ってきた。
ただ、未だに彼女は涼介に背を向けていて、その表情は窺い知れない。
「えっ……水島さんもなんですか?」
「ええ、私も同じことを秋彦さんに言われました。やっぱり、私と涼介さんは似ているんですね……」
玲奈の口調は、しみじみとしていた。
「真面目すぎるところだけじゃなくて、何かを怖がっているところも……。涼介さんが何を怖がっているのかは分からないですけど、その格好もそれと関係があるんでしょう?
チョコレートがどうとかじゃなくて、涼介さんが女性に限らず、自分の側に他人を近づけまいとしているのは分かります。なぜなら……。私もそうですから……」
自分と玲奈は、よほど似通った雰囲気を持っているのだろうか。
似ているということだけで、玲奈は、涼介の中に怖れがあることを見抜いてしまった。
他人が涼介に近寄りがたいと感じるのは、その妖怪もどきの風体のせいだけではない。
……オレに近づくな、側に寄るな。
涼介はいつも、拒絶のオーラを発している。それがあるからだ。
よほど鈍感でない限り、それを感じ取ることは容易い。
でも……その理由は。
玲奈は、なぜ……涼介の拒絶の理由を怖れに求めたのだろう。
「なぜですか?」
内心の動揺を隠し、涼介は訊いた。
「……私も怖いんです。中学の時のあの事件以来、私は人が怖いんです。もちろん、分かっています……人がみんな、あんなことをするわけがないことは。でも、ダメなんです。……心の底で、どうしても人を怖がってしまうんです。
だからかもしれません。なんとなく……感じられたんです。何かは分からないけれど……この人も何かを怖がっているって」
言い終えて、玲奈は振り返った。
「……ね? そうでしょう、涼介さん?」
微笑んだ顔は、とても淋しげだった。
愁いを帯びた眼差しに、涼介はふと思う。
もしかすると、玲奈の丁寧な物腰や言葉遣いは、彼女の拒絶の表れなのかもしれない。
丁寧すぎる応対や言葉は、人に窮屈さを感じさせる。それは、人と接する上で必ずしも最適なものではない。
人によっては立ち入り難く思ったり、ある種の遠慮や素っ気なさを感じるはずである。
涼介は、玲奈の心の中に分厚い壁を見たような気がした。
けれど、違う。
(……オレとは違う)
涼介が怖れるものは、もっと質が悪い。
(我ながら……救いようがない)
心の中で呟いた。
玲奈の感じている怖さは、他人に対するものだ。人に対する不信感を伴った恐怖だ。
涼介の怖れとは根本的に違う。
自分が怖いのは……。
(オレが怖いのは……自分自身だ)
……他人じゃない。特殊能力の増幅性質なんてものを持つ、自分自身が怖いのだ。
だからこそ、涼介は他人との間に防壁を巡らす。自分を守るためではなく、周りの人間を自分から守るために……。
もちろん、それが同時に、自分を守ることにもなるのだけれど。
玲奈の問い掛けに、涼介は「YES」と頷くことも「NO」と言うこともしなかった。
返事の代わりに、
「オレのことも怖いですか?」
涼介は玲奈に訊いた。
玲奈の表情に、軽く驚きの色が交じり込む。
二、三秒、目を少しだけ大きくした後、優しげに微笑むと彼女は言った。
「いいえ、全然。涼介さんのことは、少しも怖くありません」
……素直に喜ぶべきだろうか。
どこか複雑な心持ちもしたけれど、
「それは、良かった……」
涼介も微笑み返し、空を見上げた。
それが、玲奈の問いに対する彼の答えだった。
つられたのか、玲奈も空を仰いだ。
梅雨の中休み、久し振りの晴天は本当にどこまでも青かった。
再び、沈黙が屋上を支配する。
そのまま、二人はしばらく空の青さを瞳に映し取っていた。