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校内に女の子たちの声が溢れている。
芸能やファッション、評判のお店から友達の噂、教師への悪口に至るまで、少女たちのトピックスは尽きることを知らない。
透明感のある女性ボーカルが、アップテンポな旋律に乗って流れている。
学校が最も賑やかになる時間帯の一つ。
昼休みの桜川女子高校は、お昼の校内放送をバックミュージックに、今日もいつもと変わらず姦しい。
けれど。例外というものは、どこにでもあるものだ。
近頃の児童数減少に伴って、第2校舎の4階は去年から使われていなかった。お昼休みの雑多な音声も、この最上階まではなかなか上って来れないようだ。
空き教室が並ぶ廊下に立つと、聞き慣れた喧騒が少し遠くに感じられた。
「ごめんね。せっかくのお昼休みなのに、呼び出したりして」
一緒にここまで上ってきた少女に対し、美咲はまず謝った。
「あ、いえ、そんなことは別にいいです。それより、わたしに話って何ですか?」
やや恐縮したように、美咲の向かいで小柄な少女が首を横に振る。
いかにも男子が守ってあげたいと思うような、華奢で可愛い女の子だ。
「うん、実はね、玲奈さんのことなんだ」
「玲奈さん!? れ、玲奈さんって、水島玲奈さんのことですか!?」
美咲の口から飛び出た名前に、少女は思いっきりビックリした顔をする。
その反応に美咲は思う。
(玲奈さんのことって、本当にトップシークレットなんだ……)
秋彦と玲奈の付き合いは、よほど厳密に秘密が守られているらしい。
「そう、その玲奈さん。あなたのお兄さんの恋人のね」
美咲が言うと、
「ど、どうして、美咲さんがそのことを知っているんですか? ううん、それよりも何故ですか? なんで、美咲さんが玲奈さんのことなんて聞きたがるんです?」
川崎春菜──秋彦の妹は、困惑を少しも隠さずに訊いた。
「うーん、それがね……ごめん、それはちょっと言えないんだ」
その言葉で、春菜はとりあえず理解したらしい。
「ああ……守秘義務ですね」
と、小さく呟く。
美咲が自分を呼び出したのは、神谷探偵事務所絡みの用件でなのだ。
それが分かれば分かったで、次に新しい疑問が湧いてくるのは当然のことだろう。
「だけど……何のために、神谷さんのところで玲奈さんのことを……」
春菜が独り言のように言う。
実際、半ば独り言のようだ。頭の中の思考が、口から零れ出たというところだろう。
向かい合ってはいるものの、春菜の視線は美咲にピントが合っていない。焦点がぼやけている。
けれど、それは数秒のことだった。
「あっ、まさか!」
春菜が、ハッとしたように大きな声を上げる。
焦点が回復し、彼女の眼差しがしっかりと美咲に向けられた。
「まさか、美咲さん! 神谷さんたちも警察みたいに、今度のお兄ちゃんの件で玲奈さんのこと……」
「違う、そんなんじゃない!」
春菜が言い終える前に、美咲は否定する。
「そうじゃないよ。涼ちゃんや慎也叔父さんは、そんな人たちじゃないよ! 第一、依頼人は玲奈さんなんだから」
「……玲奈さんが?」
「あっ……!」
しまった! という風に、美咲は自分の口を手で押さえた。
春菜の言葉につい、美咲は守秘義務の基本中の基本、依頼人の名前を喋ってしまった。
「あ、今のはなし! 今の話、オフレコだからね、春菜ちゃん」
言いながら、ひどく慌てた様子で美咲は顔の前で手を振る。
「と、とにかく、あたしから春菜ちゃんは何も聞かなかった……それでお願いね」
ねっ? 春菜に手を合わせた。
「……はい、わかりました」
一級上のドジな先輩に苦笑しつつ、春菜は軽く頷いた。
「でも、代わりにもう少し教えてください。玲奈さんは、神谷さんに何を依頼したんですか?」
「それはちょっと……」
当然、美咲は渋る。
玲奈の依頼は、今回の事故、兄・秋彦の件と何か関係があると思っているのだろう。口調は穏やかだったけれど、春菜の瞳は真剣だった。
お兄ちゃん子の彼女にとって、今度のひき逃げ事故はかなり衝撃的なことだったと思う。
可愛い顔の下には、犯人に対する強い憤りの気持ちもあるだろう。
何か分かるのなら、少しでも知りたい。
彼女の気持ちが分からないわけじゃない。けれど、やっぱり話せない。
高校生バイトとはいえ、美咲も神谷探偵事務所の一員だ。慎也や玲奈の信頼は裏切れない。
それに、今のところ、春菜と玲奈の関係は大変良好のようだ。
春菜が大声を上げた時、「神谷さんたちも警察みたいに……」の部分には、憤りがこもっていた。彼女は、玲奈が疑われていることに対し本気で怒っていた。
でも、もし玲奈の依頼のことを話せば、その怒りが別のものに変わってしまうかもしれない。
春菜の心に、玲奈へのマイナスの感情を抱かせたくはない。
今はまだ、秋彦の事故と玲奈への嫌がらせの因果関係ははっきりしていない。どころか、慎也も涼介もそれを否定する考えを採っている。
春菜と玲奈の間に溝を作るような真似は、控えるべきだろう。
「ごめん……春菜ちゃん。悪いけど、それはダメだよ、話せない」
美咲は、申し訳なさそうに告げた。
春菜は美咲を見つめたまま、視線を逸らさない。
「どうしても、だめですか?」
「うん、ダメ」
今度は即答する。
二、三拍置いて、春菜が大きく息を吐いた。
「……仕方ないですね」
彼女の表情が弛む。
「……分かりました。涼介さんたちが、お兄ちゃんの為にならないことなんて、するわけないですもんね」
「当たり前でしょう。川崎さんは、涼ちゃんにとっては大切な先輩なんだから」
それは絶対に約束する、美咲は言った。
暗に、玲奈の依頼が秋彦のことと何か関連があるかもしれない事だ、と仄めかしながら。それくらいなら、許されるだろう。
子供っぽく見えても、兄に似て春菜には聡明なところがある。美咲のささやかな厚意に、彼女はちゃんと気づいたようだ。
優しげに目を細め、「それで十分です」と微笑する。
「次はわたしの方が答える番ですね。それで、玲奈さんの何を聞きたいんですか?」
「ありがとう、春菜ちゃん」
ひとこと礼を言ってから、美咲は訊いた。
「訊きたいのはね、玲奈さんのことっていうよりも……正確には、春菜ちゃんたちのことなんだ」
「わたしたち、ですか?」
「うん……というか、あなたと同じ立場に誰がいるか、ってことかな?」
「……?」
要領を得ない顔で首を傾げた春菜に、美咲は付け加える。
「あたしと涼ちゃん、それから慎也叔父さんに一条さんも、昨日あなたたちの仲間入りをさせてもらったんだけどね」
「ああ……そういうことですか」
美咲が何を聞きたいのか、春菜には分かったようだ。質問内容を確認することなく、指を折りながら答え始めた。
「美咲さんたちを除けば、えっーと……お父さんとお母さん、それからお婆ちゃん、あとは玲奈さんのご両親とわたし。お兄ちゃんと玲奈さんが付き合っているのを知ってるのは、この六人です。ああ……それと玲奈さんの友達で、松井多恵子さんって人ですね。ただ……」
「ただ?」
と、そのまま返した美咲に、
「お兄ちゃんと玲奈さんがいつから付き合い始めたか、美咲さんは知ってますか?」
春菜はいきなり話を変えた。
「えっ……? あ、ああ、うん……。はっきりとは知らないけど、去年の秋頃からだって……」
唐突な話題転換に、美咲は少しばかり面食らってしまう。
「それが、どうかしたの?」
「ええ。同じことを一度、松井さんにも訊いてみてください。そうすれば、分かるはずですよ」
「多恵子さんに?」
「はい。あの人は『ひと月前』って答えると思いますよ」
「へっ……」
……なんで?
春菜の言っている意味は分かる。
端的に言えば、玲奈は多恵子に対し嘘を吐いている、ということだ。
けれど……なぜ。どうして、玲奈は親友に対し偽る必要があるのだろう。
秘密に嘘を交えて明かす……そんなことをするくらいなら、秘密のままにしておけばいいのに。
……なぜだろう。
なんだか玲奈らしくない、美咲は思った。
「今月の初めでした。玲奈さんが、わたしに松井さんを紹介してくれたんです。その時、『秋彦さんのこと、多恵子さんにもお話したの』って、玲奈さんに言われたんです。でも、なんだか変なんですよね……。松井さんは、お兄ちゃんたちが付き合い始めてまだ間もない、って思ってるみたいで。何かの辻褄を合わせるためかもしれないけど……」
「……玲奈さんらしくない?」
「そう、そうなんです!」
美咲の言葉に、春菜は我が意を得たりとばかり意気込んだ。
「わたしも、そう思ったんです。だから一度、お兄ちゃんに訊いてみたんです。だけど、理由は教えてくれなくて。ただ、そういうことにしておいてくれ、って」
「玲奈さんにも訊いてみた?」
「いいえ、玲奈さんにはちょっと訊きにくくて……」
春菜は首を横に振った。
彼女のどこか少し引っ掛かったような物言いに、美咲は感じとった。
(ああ、そうか……そうなんだ)
春菜は知っているのだ。玲奈が中学時代に負った心の傷を。
玲奈が秋彦とのことを周りに秘密にするのも、その傷が原因だ。もしかしたら、多恵子への嘘もその傷と関係が……と、春菜は思ったのだろう。
だったら、訊けないだろう。
訊ねることによって、玲奈の古傷に触れてしまう可能性があるのだから。
「そっか……そうだよね」
しんみりと美咲は言う。
その響きの中に含まれたものに、今度は春菜の方が気づいたらしい。
一瞬、彼女は目を見開いた。そして、小さな声で痛ましげに吐き出す。
「美咲さんも知ってるんですね……」
「うん……まあね」
二人の間に沈黙が落ちる。
……二、三分は経っただろうか。
先に口を開いたのは、春菜の方だった。
「美咲さん、聞きたいことは、それだけですか?」
「あ、うん。とりあえずはね」
美咲は頷いた。慎也に指示されたことは、玲奈と秋彦のことを知っている人間は誰か、その確認だけだ。
「じゃあ、今度はわたしの方から一つ。涼介さんに、お兄ちゃんが会いたがってる、って伝えておいてもらえますか」
「ん? うん、いいよ。でも、それって優ちゃんに言った方が早くない?」
優ちゃんとは、涼介の妹・優子のことだ。
美咲はもう一人の幼なじみのことをそう呼ぶ。同様に、優子の方も、美咲のことは「咲ちゃん」と呼んでいる。
「まあ、そうかもしれないですけど。やっぱり、美咲さんの方が確実そうですから」
「…………まっ、そうかもね」
美咲は苦笑した。放課後、優子は毎日のように恋人の一条悠馬のところへ飛んでいく。
対し、美咲の方は「涼ちゃん、涼ちゃん!」だ。
確かに、春菜の言うことが正しそうだ。
「だけど、伝言の必要はないと思うよ」
美咲は苦笑を微笑みに変えた。
「涼ちゃん、今日、玲奈さんと一緒に病院に行くはずだから」