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『たった6文字のHOPE ~神谷探偵事務所はぐれ事件簿~』  作者: 水由岐水礼
FILE・#5 喜怒哀楽のセカンドデー
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      ☆


「ごめんごめん! 待った?」

 学生食堂に多恵子が姿を現わしたのは、涼介たちに遅れること約20分後のことだった。

 四角いテーブルを挟み涼介の斜向かい、玲奈の隣の席に多恵子は腰を下ろす。

「はい、天野くん。これ」

 テーブルの上を滑らせるように、涼介の前に角形封筒が差し出された。

 見るからに、封筒はぺらぺら。中身は、何かの用紙が数枚というところだろう。

 手に取って中身を確認してみると、果たして現われたのは、二つ折りにされたB4サイズのコピー用紙2枚だった。

「ああ……」

 どうやら、多恵子が遅れてきた訳はこの2枚の紙にあるようだ。

 1枚目の用紙の文章は、「教育勅語体制下の」という書き出しから始まっていた。

 女子に多い丸い文字ではなく、少し崩し字気味の文字がノートの罫線に沿って並んでいる。

 ざっと流し見ただけで、用紙の正体が何であるか知れた。

 講義ノートのコピーだ。

 講義名は日本教育史。5号館2階の第8小教室で、さっきまで行われていたであろう講義である。玲奈の護衛がなければ、本来、涼介も受講していたはずの講義だった。

 嫌がらせ事件が解決するまで、涼介は講義の方は全て欠席することに決めていた。

 玲奈は「涼介さんも学生なんだから、それでは悪い」と反対したのだが、

〝大丈夫ですよ。これでもオレ、結構優秀なんですよ。一度や二度くらい講義を休んだからって、成績に響いたりはしませんよ〟

 と、付きっ切りで玲奈の警護に就くことを涼介は譲らなかったのだ。

 しばらく言い合いになったものの、結局、玲奈の方が「でも、1週間だけですよ」という条件で折れたのである。

 言い換えれば、それは依頼解決までの目安として、神谷探偵事務所側は1週間という一応の期限を提示されたことにもなる。

「あの、これ……」

 涼介が顔を上げると、

「君は優秀だそうだから、もしかしたら要らないかもしれないけどね。でも、あっても困らないでしょう?」

 多恵子は、悪戯っぽく笑って言った。

 優秀、の箇所にやや強めのアクセントが置かれていたように感じたのは、おそらく気のせいではないだろう。

「そりゃあ、まあ……」

 涼介は曖昧に答え、苦笑する。

「だけど、オレがこの講義を受けてること、松井さんはどうして知ってたんですか? まさか、わざわざ調べてくれたんですか?」

「あはは……君って、本当に美咲さんのことしか目に入ってないんだね」

 多恵子はおかしそうに笑った。

 どうして、ここで美咲の名前が出てくるのか。涼介は眉を顰めた。

「玲奈ほどじゃないけど、あたしも結構イケてると思うんだけどなあー。自惚れじゃなくて、そこそこには美人だと思うし。そりゃね、人にはそれぞれ好みはあると思うけど……でもね、天野くん?」

「あ、はい……」

「ねえ? あたしって、そんなに魅力ない?」

 言いながら、多恵子は涼介に流し目をくれた。

 何が何やら……。何がどうなれば、話がそんな方向に流れるのか。

 涼介が訊いたのは、多恵子がなぜ自分の受講科目を知っているのか、ということだったはずである。

 それがどうして、多恵子の魅力云々……なんて話に変わってしまったんだろう。

「ねえ、ねえったらぁ。それで……どうなのよぉ、天野くん?」

 流し目に加え、多恵子はさらに少し甘く艶めいた口調をプラスしてくる。

 ただただ戸惑うばかり。

 情けないことに、多恵子の意味深な言葉と流し目一つで、涼介の思考回路はパニック状態を引き起こしてしまっていた。

 助け船を求めようと彼が玲奈を見ると、彼女もくすくすと笑っている。

 涼介と違い、多恵子の言葉の意味を理解し、そのうえで玲奈は親友のおふざけを面白がっているようだ。

 多恵子の奇行を許容しているらしい玲奈の態度に、涼介はより一層困惑してしまう。

 涼介の顔は簾髪の下に隠れている。前髪の下の表情は見えない。

 それでも、涼介の困惑ぶりは、雰囲気で十分に伝わったのだろう。

「あははははっ!!」

 多恵子は流し目を解いて、爆笑した。

「天野くん、君って面白いね。でも、そんなんで大丈夫なの? もっと、しっかりしてもらわなきゃ!」

 涼介がきょとんとしていると、見兼ねたのか、ようやく玲奈が助け船を出してくれた。

「涼介さん、そんなに難しく考えないで。単純に考えればいいんですよ。多恵子さんが何学部の学生か……それを思い出せば、すぐに分かるはずですよ」

 ……多恵子の所属学部?

 それについては、昨日の内にしっかりと確認してある。

 多恵子は教育学部の1回生だ。ただし、浪人生を一年経験しているので、年齢は涼介よりも一つ年上である。

 提出されたデータは二つ。

 ……教育学部。そして、日本教育史。

「ああ……」

 ヒントがあれば、なるほど本当に単純なことだった。

 教育学部の学生と、日本教育史。これほどピッタリくる組み合わせはない。

 つまり、多恵子も日本教育史を受講していたのだ。週に一度、涼介は、小さな教室で彼女と顔を合わせていたのである。

「やっと、わかったみたいね。あの講義の受講者って、せいぜい40人くらいでしょう。さすがにあの少ない人数の中じゃね、天野くんってかなり……」

「目立ちますよね……」

 人を寄せ付けないための妖怪のお兄ちゃん姿は、確かに恐ろしく目立つ。

 同じ教室で講義を受けていて、どんな意味であれ、涼介の存在が目に留まらないはずがない。特にあんな小さな教室ならば、尚更だろう。

 分かってしまえば、簡単なことだった。

「ほら、桜吹雪があった初回の講義の日、あの日なんて、あたし、天野くんのすぐ後ろの席で講義を受けていたんだから」

 4月の日本教育史の初講義の時。竜巻のような旋風つむじかぜでも吹いたのか、教室の窓から見える桜の樹の残り少ない花びらが、一気に散ってしまったことがあった。

 その出来事は、学内でも結構な話題になり、〈風神の気まぐれ〉とか〈かまいたちの悪戯〉などと呼ばれていたものだ。

 あの桜吹雪を、多恵子は涼介と同じ教室で見ていたらしい。

「あの日だけじゃなくて、一回だけだけど、天野くんの隣の席で講義を受けてたことだってあるんだから」

 多恵子は不満げに言った。

(ああ……なるほど)

 涼介はやっと完全に理解した。

 自分が間の抜けたことを訊ねたものだから、多恵子はちょっとした悪戯心を起こしたのだろう。

 隣に玲奈がいるために目立たないかもしれないが、多恵子だってまずまずの美貌の持ち主である。

 街を歩いていて、すれ違い様の男子に振り向かれた経験も、何度となくあったはずだ。一人でいても、ナンパされたことも一度や二度ではなくあるのだろう。

 その辺りのことを土台にした謎かけ、それを多恵子は涼介に仕掛けてきた。

 からかい半分ではあるが、彼女はちゃんと涼介の質問に答えていたのだ。ただ、涼介がその謎掛けを見抜けなかっただけで。

「でも……天野くんの方は、あたしのことなんて全然知らなかったみたいね」

 多恵子が軽く涼介を睨む。

「どうせね、天野くんみたいな綺麗な人から見れば、あたしなんて……その辺にゴロゴロと転がってる石っころ。目にも留めてもらえない程度の、十人並みの女の子なんだよね」

「なっ……」

 またまた、いきなり何を言い出すのか。

 拗ねたように零す多恵子に、涼介は再び動揺してしまう。

 これもまた、ふざけているだけのことなんだろう。

 その証拠になるかどうか、多恵子の目許と口許は弛んでいる。二つの瞳は悪戯っぽい光を湛え、唇の端もしっかりと笑っていた。

 けれど。涼介には、多恵子の瞳の奥が暗く底光りしているようにも思えた。

 ……なんだか嫌な感じがした。ただの悪ふざけだとも思えなかった。

 もしかすると、彼女の中に、少しは本気の部分もあるのかもしれない。

 だとすれば、多恵子は自分の容姿に自覚以上の自信を持っていることになる。涼介は、その類のプライドを持つ人間が苦手だった。

〝美人が高飛車になるのはな、半分は男の方にも責任があるもんなんだ〟

 そんなことを言いながら、叔父の慎也は、事務所を訪れる高飛車美人に対しても上手く接している。若く見られて侮られがちだといっても、そこは元刑事だ。人のあしらいはよく心得ている。

 ……が、甥の方はそうはいかない。なにぶん、人付き合いの経験値が低い青年だ。人あしらいのすべなどという、気の利いたものを涼介が会得していようはずがない。

 多恵子の瞳の輝き……悪戯心と本気の狭間で、ただただ参ってしまっていた。

 玲奈はというと、多恵子の隣で困ったように苦笑している。

 こんなことは、今回が初めてではないのだろう。玲奈の表情は、涼介に「すみません」と言っていた。

 とりあえず、涼介に思いつく打開策は一つしかなかった。

「あ、あの、とにかくコレ……このノート、有り難うございました。ホントに助かります」

 無理やりに話題の転換を図る。

 くすり、多恵子は笑った。

 仕方ないわねえ、という感じで言う。

「いいえ、どういたしまして」

 どうやら勘弁してくれるらしい。多恵子は引き下がってくれた。

 涼介はホッとした。

「でも、あたしの字って少し癖があるから、読み難いかもしれないけどね」

「いいえ、そんなことないですよ。大丈夫です。少なくとも、オレの字よりはずっと綺麗ですから」

 フォローになっているのか、いないのか。

 涼介の言葉に、多恵子はやや脱力したような顔をする。

「まあ、それならいいんだけど……」

「大丈夫です。有り難うございました」

 涼介は頭を下げた。

「あの、涼介さん、多恵子さん」

 話の区切りをついて、玲奈が二人に呼びかけた。

 多恵子が玲奈の方を向く。

「少し早いですけど、お昼にしませんか?」

 涼介は、学食の中央に立つ柱を見た。

 壁掛け時計の短針は、文字盤の11と12の間、ちょうど中間あたりを指している。

 時刻は11時27分だった。

「そうね、そうしましょうか」

 そう言うと、多恵子は一番に立ち上がった。

 向かいで、玲奈が微笑んでいる。

 涼介は大きな安堵のため息を吐いた。

(だけど、こんなことじゃ……本当にいけないよな……)

 多恵子の言うとおり、もっとしっかりしないと……。


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