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自宅へ帰り着いたのは、午後9時半を少し回った頃だった。
見上げると、二階の自室に明かりが点っていた。
(……美咲か)
美咲は涼介の部屋の合鍵を持っている。
天野家では、美咲を家族の一員として扱っていた。涼介と小林家についても、それは同様だった。
慎也曰く、二人は既に「両家公認の許婚みたいなもの」なのだ。
そんな事情もあり、美咲はお向かいの天野家にいつでも自由に出入りができた。天野家の合鍵もあずけられている。
二階に上がり自室のドアを開けると、案の定、美咲がベッドの上に座っていた。
壁を背もたれ代わりに、推理モノのコミックを読んでいる。
「あ、涼ちゃん、おかえり」
美咲がコミックから視線を上げた。
「ああ、ただいま」
言いながら部屋に入ると、涼介はGジャンを脱いでクローゼットの中のハンガーに掛けた。
「はい、バンド」
美咲が、ベージュのヘアバンドを投げて寄越す。
「サンキュー」
涼介はそれを上手くキャッチし、簾髪をかき上げヘアバンドで素早く止めた。
目許がすっきりとする。視界が開けた。
(あ……)
視線が、小学生の時以来お世話になっているデスクへと向かう。
ショルダータイプの鞄と紙袋が、デスクの上に載っていた。紙袋には城山書店の店名が印刷されている。
それを見て、今更ながら、自分が叔父の事務所に荷物を置き忘れてきたことに気づく。
「ホント、涼ちゃんって、こういう忘れ物多いよね」
涼介の視線を追いかけ、美咲が言った。
鞄と紙袋は、彼女が届けてくれたのだろう。
「……悪い。すまないな、余計な手間を掛けさせてしまって」
「いいよ、別にそんなことくらい。届けるっていっても、お向かいさんなんだし。それより、涼ちゃんに謝られたら……あたし困るなぁ……。あたしが涼ちゃんに謝ろうと思って、待ってたのに……」
「はぁ?」
謝る……何を?
涼介は、間の抜けた声を出した。
「涼ちゃん、今日はごめんね」
と、唐突に美咲が頭を下げる。
…………なんだ?
謝られるような心当たりなんてない。
「あの……美咲? いったい何のことだ?」
学習デスクの椅子に腰を下ろし、涼介は眉を顰めつつ訊いた。
「だから、夕方の事務所でのこと」
言われても、やっぱり、涼介には何のことだか……さっぱりだった。
戸惑い気味の涼介に構わず、美咲は続ける。
「ほら……いろいろ喚いて、涼ちゃんのこと困らせちゃったでしょう。ごめんね、涼ちゃん。怒鳴ったりして、ホントにごめんなさい。今度会ったら、玲奈さんにも謝っておかないとね」
「なんだ……そのことか」
とりあえず、美咲が何を謝ろうとしているのかは分かった。
ただ……。
「そんなこと気にしなくていいよ。全然怒ってないから。だから、美咲が謝ることなんてないよ」
涼介の方は、美咲に謝られる必要を全く感じていなかった。
それどころか、なぜ美咲が「ごめん」と言ってくるのか、いまいち納得できていない。
まあ確かに、玲奈にはきちんと謝っておいた方がいいとは思うけれど……。
「でも、涼ちゃん……」
涼介の言葉に、美咲の表情が微かに曇る。
しかし、涼介は気づかなかった。
「いいんだって、本当にオレは怒っていないんだから。それより、美咲……おまえ、オレに謝るためにずっと待ってたのか?」
涼介は訊ねた。美咲はまだ制服姿のままだった。
「うん、そうだよ」
なにかおかしい? とでも訊くように美咲は首を傾げる。
……やっぱり、理解できない。
涼介は怒ってもないし、不機嫌にもなっていないのだ。
それは、幼なじみの美咲にも分かっているはずである。
なのに、なぜ謝るのだろうか。
涼介からしてみれば、美咲に謝ってもらう理由などない。それでも、美咲は「ごめん」を繰り返す。
こういうことは、今回が初めてではない。
既に二人が小学生の頃から、時折あった。
〝……不安なんだよ〟
ふと、そんな言葉を思い出す。
前に一度、美咲のことについて、慎也に相談したことがあった。
〝美咲ちゃんは不安なんだよ〟
それはその時、開口一番、慎也が口にした言葉だった。
──不安? 何が不安なんですか?
涼介がすぐさま訊き返すと、慎也はため息を吐きつつ答えた。
〝だから……いつまた、おまえに拒絶されるか不安なんだよ、美咲ちゃんは……〟
美咲は一度、これ以上ないというくらいに涼介に拒絶されている。それが今も美咲の傷になっているのだ。
そして、その拒絶の原因はまだしっかりと涼介の中に残っている。少しも解消されていない。
前髪で顔を隠し、草臥れた洋服を着、涼介は自分の周りに防壁を巡らせている。
閉じ籠もり騒動以後、涼介は必要がない限り、なるべく他人を自分の周りに寄せ付けなくなってしまった。
──危険な奴。危険人物。
自分は人にとって厄介な存在なんだ、という意識は涼介の中で今もなお生き続けている。
……人に近づいてはいけないんだ。
その思いは、部屋に閉じ籠っていた時と何ら変わってはいなかった。
涼介の心傷は癒えていないのだ。
ただ、美咲の傍らに小さな自分の居場所を見つけたというだけで……。
涼介の心は、いまだ外の世界に対し閉じている。特殊能力の保持者との接触を、ひどく恐れている……。
〝だから、美咲ちゃんは不安なんだ〟
いつかまた、涼介に拒絶されるかもしれない……美咲は怖いのだ。
不安ゆえに……怖いから、ひどく嫉妬する。
過剰な嫉妬は、美咲の抱えている不安の表れなのだ。
〝おまえのことを信じつつも、美咲ちゃんは不安でたまんないんだよ〟
記憶の中の慎也の声が、鼓膜の奥……脳裏に囁きかけてくる。
(美咲を拒絶するなんて……)
そんなことないのに……。
(……あるわけないじゃないか)
美咲の顔を見ながら、涼介は心の中で呟く。
不安……相手が離れてゆく不安。
それを感じているのは、むしろ……。
(オレの方だ……)
美咲が離れていけば、涼介はたちまち居場所を失ってしまう。
心の片隅で、涼介は常に脅えていた。
心の奥に囲った不安と、涼介はもう何年も戦い続けてきた。
でも……それは涼介だけではない、と叔父の慎也は言う。
『美咲、おまえも不安なのか?』
思わず、そんな思いが口をついて出そうになる。
声には出さなかったけれど、涼介の唇はしっかりと動いていたらしい。
「ん? なに、涼ちゃん?」
美咲が訊いてきた。
「別に何でもないよ」
涼介は首を小さく横に振った。
そう……とだけ呟いて、美咲はベッドから腰を上げた。
涼介が何を言おうとしていたのか、追求しようとはしない。
手に持ったコミックを、ミステリー小説が並ぶ背の高い本棚に戻す。
「ホントにごめんね」
もう一度言うと、美咲は涼介の頬にそっと口づけをした。
いつもと同じ……。「ごめんね」の後、彼女は涼介の頬にキスをする。
それは、閉じ籠もり騒動よりも前からの、二人の間での定番だった。
きっかけは、昔、子供番組で放送されていた歌である。
……ケンカの後で、頬っぺたにキスして仲直りをする。
というような歌詞の内容を、涼介と大喧嘩した時に、幼稚園児の美咲が無邪気にそのまま実践したのが始まりだった。
それが、十年以上経った今も続いているのである。
(そういえば……昔は、美咲ともよく喧嘩したよな……)
幼かった涼介が、美咲に腹を立てることも少なくはなかった。それが、閉じ籠もり騒動以降、涼介は怒らなくなってしまった。
(今のオレには、美咲を怒ることなんて……できない、無理だ)
「じゃあ帰るね、涼ちゃん」
その声に我に返ると、美咲はいつの間にかドアの外にいた。
「ああ、また明日な」
「じゃあね、おやすみ」
言葉を残し、美咲がドアを閉める。
階段を下りていく足音が聞こえた。
足音が遠ざかっていく。
気を利かせて待ってくれていたのだろう。
足音が消えるのと入れ替わりに、ドアがノックされる。
「お兄ちゃん、入るよ」
ドアが開き、パジャマ姿の優子が部屋に入ってきた。
左手に何か持っている。それが何なのか、涼介にはすぐに分かった。
「はい、これ」
優子が左手の物を差し出す。
タロットカードだった。
それは、友人の一条悠馬が高校時代に使っていたものだ。
カードは2枚……。
「……法王と戦車。悠馬からか?」
「うん。お兄ちゃんに渡してくれって」
「で、これだけか?」
手許のカードに視線を落としたまま、涼介は訊ねる。
「ううん、まだあるよ。〝鍵はウォーターとアイランドです〟って」
ウォーターとアイランド……水と島。
つまり、水島。玲奈のことを指しているのだろう。
玲奈たちが悠馬のところ、〈占いの館・運命の輪〉を訪ねたことは承知している。水島邸へ向かう途中に聞かされていた。
法王と戦車。2枚のカードは、今度の件についての占い結果ということなのだろう。
どうやら、悠馬とは一度会う必要がありそうだ。
「それじゃあね」
言付けを終えて優子が戻っていくと、涼介はベッドに寝転がった。
夕食がまだだった事を思い出すけれど、全然食欲は湧いてこなかった。空腹感も感じない。
……涼介は疲れていた。
人付き合いは苦手。いや、人付き合いをしない……人付き合いの経験値が低い、といった方が正しいだろうか。
そんな涼介にとって、今日はいろいろとあり過ぎた。
玲奈や多恵子たちとの行動は、彼にかなりの負担を強いていた。
睡魔が、涼介に襲いかかる。
……考えることはたっぷりとあった。
……明日の準備もしなくてはいけない。
けれど……もう疲れ切っていた。
午後10時前、涼介は早めの眠りに就いた……。