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……特殊能力の増幅性質。一語で言い表すなら、ブースター性質。
そんな奇天烈な性質が自分にあると気づかされたのは、涼介がまだ小学二年生の時だった。
それを知るきっかけになったのは、小さな異変……。
☆
お向かいに住む仲良しの少女が、微かだが身体を震わせていた。
つないだ手には、妙に力が込められている。
涼介の隣で、美咲が立ちすくんでいた。
どうやら何かに脅えているようだった。
美咲の視線は、公園のブランコの奥にある桜の木に注がれている。
「どうしたの、美咲ちゃん?」
首を傾げ、涼介は訊いた。
「こわいの。ねえ、涼ちゃん。どうして、あのおじさん、頭から血がいっぱい出てるのに笑ってるの? ねえ、おかしいよ……ねえ、こわいよ、涼ちゃん」
今にも泣き出しそうな声で言いながら、美咲は涼介にしがみ付いた。
けれど、美咲の指さす先には桜の木が一本あるだけだ。
彼女の言うような、頭から血を流した男などどこにも居なかった。
「どこにいるの? そんなおじさん、どこにもいないよ」
「どこって、あそこだよ。ほら、あの木のところ。ねっ、いるでしょう?」
「…………」
やはり、涼介には見えなかった。
「涼ちゃん、帰ろう」
涼介の手を引っ張って、美咲は出口の方へ歩き出す。
美咲が引くのに任せ、涼介も歩みを進める。
気になって、公園を出る時にブランコの方を振り返ってみた。
が、結果は同じ。やはり涼介の目には誰の姿も映らなかった。
結局、訳のわからないままその日は家まで帰り、涼介は美咲と「ばいばい」をした。
それから、ひと月。
同じようなことが、たびたび起こった。
なんでもない空間を指さしては、美咲が脅えるのだ。
時には、大泣きすることもあった。
頭から血を流したおじさんに、腕のないお姉さん。背中に矢の刺さった、変な格好(武者姿)をしたお兄さん。
人間だけでなく、涼介には見えない犬や猫の姿も美咲には見えるようだった。
……幽霊。
そのうち、まだ幼かった涼介の頭に自然とそんな単語が浮かぶようになった。
そうだ、それしかない。
涼介は子供心に確信した。
(きっと、美咲ちゃんには幽霊が見えるんだ)
そして……それは正しかった。
……さらにひと月あまりが過ぎた。
涼介は独り、ベッドの上で膝を抱え丸まっていた。
明かりは消され、天井の蛍光灯に光はなかった。
その上、カーテンも閉じられている。
室内は薄暗く、陰気な空気が籠もっていた。
ここ3週間近く、涼介は小学校に行っていなかった。
黒いランドセルが、机の上で埃を被っている。
「……せいだ。ぼくのせいで、美咲ちゃんは……」
涼介はぶつぶつと呟いていた。
ひと月あまり前、美咲に幽霊が見えているらしいことを知った時、涼介は叔父の慎也に相談した。
いつも美味しいケーキを焼いてくれる、大学生の叔父のことが涼介は好きだった。
彼を実の兄のように、涼介は思っていたのだ。
美咲と一緒に幽霊の話をしに行くと、慎也は微かに眉を顰めた。
その様子に、
「信じてくれないの?」
涼介は少し怒ったように言った。
「いいや、そんなことはないよ……。ただ、少し気になることがあってね……」
そのまま、少し思案する風に黙った後、
「ねえ、美咲ちゃん」
慎也は美咲に笑顔を向けた。
「なあに、おじさん?」
やや舌足らずな調子で、美咲が訊く。
「あのね、美咲ちゃん。美咲ちゃんがいつも変な人たちを見るのは、どんな時かな? 分かるかい?」
それは、明確な意図を持った質問だった。
「うーん、うーん……うーんとねぇ……」
と、まだ幼い、幼稚園児の美咲は一生懸命に考える。
一頻り考えて、
「あのね、涼ちゃんと一緒にいる時」
彼女は元気よく答えた。
こちらは何の意図もない、素直な言葉だった。
「それは本当かい?」
「うん、ホントだよ。あたし、嘘なんてつかないもん」
「うん、それは分かってるよ。美咲ちゃんは嘘つきなんかじゃないよね。なるほどね……涼と一緒の時なんだ」
「そうだよ。あのこわい人たち、いっつも……あたしが涼ちゃんと一緒の時にばっかり、出てくるんだもん」
美咲は少し立腹気味に喋った。
ぴくり、慎也の片眉と唇の片端が動く。
「……出てくるんだもん、か」
呟き、おし黙る。慎也はそのまま「考える人」状態になってしまった。
翌日から、慎也は大学から早く帰宅し、涼介と美咲をいろいろな場所に連れて歩いた。
それが十日ほど続いただろうか。
涼介は慎也の部屋に呼び出された。
そこで初めて、特殊能力の増幅性質について聞かされることになる。
この十日間、慎也は調査していたのだ。
涼介にも分かるように、慎也はなるべく簡単な言葉で噛み砕いて説明してくれた。
実は、慎也にも最近、明らかにこの世のモノではないものが見えることがあったのだ。
美咲の言う、公園の「頭から血を流したおじさん」の幽霊のことも、彼は以前から知っていたらしい。
子供の頃から、慎也は金縛りにあったりすることがよくあったのだという。だから、自分に少しばかり霊感があることは自覚していた。
けれど、さすがに幽霊の姿を拝むことは半年くらい前まではなかった。それが突然、〈見える人〉になってしまったのである。
ただ、奇妙なことに家の近所でしか、それは見えないのだ。大学や繁華街では、一度も幽霊を見たことはなかった。
それがずっと疑問だったらしい。
幽霊は騒がしい場所が嫌いなんだろう。
とりあえず、適当にそんな風に思うことにした。が、それは間違いだと分かった。
美咲の話を聞いて、慎也は閃いたのだ。
そして。十日間調べあげた上で、特殊能力の増幅性質なんていう、およそ常識離れした結論に辿り着いた。
……俄かには信じられなかった。というよりも、小学二年生の理解の範疇を超えていた。
けれど。逆に幼いからこそ、理解できずとも素直に受け入れてしまいそうにもなる。
しばらく混乱していたが、落ち着いてくると思い当たる節もある。
美咲以外にも、涼介は「幽霊」とか「お化け」と言って怖がる女の子を見たことがあった。
クラスメートの男の子が、給食の時間にスプーン曲げを披露し、先生に怒られていたのは、何ヵ月前のことだっただろうか。
その何日か後、そのクラスメートは、家から持参したスプーンで再度挑戦したという。でも、その時にはスプーンは曲がらなかったと聞いた。
聞いたというのは、再チャレンジの日、涼介は風邪で学校を休んでいたからだ。
自分がいない時に、失敗した……。
そのことを思い出し、涼介は逃げ場はないと感じた。叔父の言う難しい言葉……ブースター、特殊能力の増幅性質を事実として受け入れた。
「……ぼくのせいなの? ずっと美咲ちゃんが怖い思いをしてきたのは、ぼくのせいなんだ……」
次の日から、涼介は不登校になった。
部屋の鍵を閉め、入浴とトイレの時以外、部屋から出てこない。食事も自分の部屋で摂った。
美咲が来ても、絶対に会おうとしなかった。
それでも毎日、美咲はやって来た。
「涼ちゃん、涼ちゃん」
と、美咲が自分のことを呼ぶ。
けれど、涼介はドアを開けなかった。
美咲とはもう会わない。
(会っちゃいけないんだ)
「ねえ、開けてよ、涼ちゃん」
ドンドンとドアを叩く音がする。
そんなことがもう3週間も続いているのだ。
やがて、美咲は帰っていく。
ここ1週間ほどは、階段を下りる小さな足音とともに泣き声が耳に届いていた。
その泣き声に、胸が痛んだ。
それでも、ドアは開けられない。
(開けちゃいけないんだ)
涼介は自分に言い聞かせた。
「ぼくと一緒にいたら、美咲ちゃんは……」
ドア1枚を挟んでの攻防は、さらに2週間続けられた。
「開けて、涼ちゃん」
美咲がドアを叩いている。
「ダメだよ、開けられない。開けちゃダメなんだ。ぼくと美咲ちゃんは、一緒にいちゃいけないんだよ」
もう何度、同じことを言っただろうか。ドアの向こうへ涼介は言葉を送る。
「そんなのイヤだよ。開けてよ、開けて、涼ちゃん!」
ドアの外からも、いつもと同じ内容が返ってくる。
開けて、開けてったら!
ドンドンドン!
美咲はなかなか諦めない。
泣きながら、「開けて」を繰り返している。
「ダメったら、ダメなんだ!」
思わず怒鳴ってしまった涼介に、外の声が途切れた。
……ひっく、ひっく、ひっく。
しゃくり上げる音だけが聞こえる。
ひっく、ひっく。
ひっく、ひっく……。
美咲が立ち去る気配はない。
「だいじょうぶだよ。あたし、だいじょうぶだから」
しばらくして、美咲の声がした。
何が大丈夫なのか?
(美咲ちゃんは、何を言っているんだろう?)
いつもと違う初めての展開に、涼介は戸惑ってしまう。
「涼ちゃん、だいじょうぶだから。あたし、こわくないから。ゆうれいもお化けも、こわくないよ。ううん、ホントはこわいけど……こわがらないように、がんばるから。それから、もう泣かないようにもする。だから、ここ開けてよ、涼ちゃん」
必死に泣くのを堪えながら、言っているのが分かった。
どうして幽霊が見えるのか。どうやら、美咲は知ってしまったらしい。
彼女に分かる範囲で、慎也が教えたのだろう。
「ねえ、涼ちゃん。一緒に公園にいこうよ」
公園というのは、桜の木の下に血を流したおじさんの幽霊が出る、あの公園のことだろう。
「ねっ、いこう。あたし、もうこわがらないから。こわいのなんて、がまんするから。一緒にブランコのろう(乗ろう)」
涼介と一緒に居たいがために、我慢すると言っているのだ。
幽霊を怖がらないし、めそめそ泣かない。
そんな美咲の健気な訴えにも、涼介は言葉を返さなかった。
一昨日。慎也からドア越しに聞かされて、涼介は知っていた。
涼介が隣にいなくても、美咲は一部の幽霊が見えるらしいのだ。それは、「よほどひどい亡くなり方をした者や、この世に強い未練を残している霊たちだろう」と慎也は言っていた。
涼介の増幅の力は、その場限りの一時的なものではないらしい。涼介の身近で何度も増幅を受けているうちに、能力保持者の持つ能力はレベルアップしてしまうようなのだ。
つまり、基礎能力のアップ。涼介の増幅性質を借りている時の強い力を、能力者はそのうちに本当に自分のものにしてしまうのである。
美咲はもう既にそれがかなり進んでいる。
このまま行けば、美咲は涼介が側に居なくても幽霊が見えるくらい、強い霊感を身につけてしまうだろう。
それは、美咲の日常に当たり前に幽霊が存在することを意味する。
そのことは、小学二年生でもしっかりと理解できた。
だから、なおさら美咲とは一緒にいることはできないと思った。
「ダメだよ、ダメだ。ぼくのせいで、美咲ちゃんが怖い思いをするなんて……ぼくが我慢できないもの……」
ある意味、ものすごく勝手な言い分である。
けれど、当時の涼介や美咲にそれが判るはずもない。
「だいじょうぶ。あたし、がまんする。ゆうれいもお化けも、こわくないもん」
……そんなはずがない。
「そんなの嘘だよ。怖くないわけないじゃないか」
……絶対に怖いに決まっている。
美咲は嘘を吐いている……涼介は譲らなかった。
「うん、ホントはこわい。でも、こわくないよ、ホントだよ」
「なに言ってるんだよ。言ってることがムチャクチャだよ、美咲ちゃん。嘘はダメだよ」
「嘘じゃないもん。こわいけど、ホントにこわくないんだもん!」
美咲は退かない。同じことを繰り返す。
(……もういいよ。ムダだから、もう止めなよ……)
涼介は心の中で訴えた。
「……お化けなんか、こわくないもん!」
美咲が大きな声を上げた。
「だって、あたし……お化けなんかより、涼ちゃんと一緒にいられなくなる方がこわいもん。もう涼ちゃんと一緒にあそべないなんて、ぜったいにイヤだもん!」
……真っ白で真っすぐな言葉だった。
それは、今もしっかりと涼介の胸に刻み込まれている。
そこには何もない……。ただあるのは、幼い少女の素直な想いだけ。
〝涼ちゃんと一緒にいられなくなる方がこわい〟
(ぼくと一緒に居られなくなる方が怖い? 幽霊より、お化けよりも?)
美咲は何も考えず、ただストレートに自分の気持ちを言葉にしただけだろう。
それが、涼介の心に届き響いた。
瞳から温かいものが溢れ出していた。
なぜだか、ホッとする。
……嬉しい。嬉しかった。
薄暗い部屋の中で、ずっと涼介は孤独だった。
(……ぼくは火種なんだ)
人にとって、危険な存在なんだ。
美咲だけでなく、誰にも近づいてはいけない。
そう、誰にも……。
(そうしなきゃ、ぼくのせいで……)
……たくさんの人が怖い思いをしてしまう。
……たくさんの人を泣かせてしまう。
……美咲のように。
ダメだ。絶対にダメだ。
(……そんなのはダメに決まっている。でも、ぼくは……)
どうしたら、いいんだろう。
──危険な奴。危ない奴。
だから……。
(ぼくは、独りで居なきゃいけないんだ)
……独りだ。ぼくは独りきりなんだ。
膝を抱え、一日中、涼介はそんなことばかり繰り返し考えていた。
孤独だった。……居場所が消えた。
〝涼ちゃんと一緒にいられなくなる方がこわいもん〟
真っすぐな想い。美咲の言葉がリフレインされる。
真っ暗だった涼介の心に、光が射してくる。
(ぼくは……独りじゃない?)
……居てもいいの? 居場所がある。
美咲の隣。……美咲ちゃんが一緒にいてくれる?
涙が止まらなかった。
ベッドから立ち上がり、ドアへと向かう。
目許を、手の甲でごしごしと拭った。
ドアノブに手を掛ける。
……かちゃ。
微かな音とともに、ドアが開く。
廊下の明かりが、そして……美咲が部屋に飛び込んできた。
「涼ちゃん!」
美咲が涼介に抱きついた。
その小さな身体を、涼介はぎゅっと抱き締めた。
美咲が顔を上げる。ひと月以上ぶりに見る少女の顔は、涙でぐじょぐじょに濡れていた。
けれど、嬉しそうだった。
「……ごめん」
言って、涼介は美咲の頭をそっと撫でた。
「ううん……」
どういう意味か。美咲は軽く首を横に振る。
また、涼介の胸に顔を埋めた。
「ありがとう……」
涼介は囁いた。それは、ほとんど独り言のようなものだった。
よく聞こえなかったのだろう。
なあに? という風に、美咲は顔を上げて涼介を見る。
何も言わず、涼介はただ微笑んだ。
美咲が、にっこりと微笑を返す。
――だいじょうぶ。
その瞬間。目の前の少女は、涼介にとってとても大切な女の子になっていた。
☆
「……大切な人なんですね」
意識が昔に飛んでいた涼介の耳朶に、静かに玲奈の声が触れた。
「えっ……」
幼い頃の美咲の面影が消える。
十年前の薄暗い子供部屋から、街灯の明かりの下へ引き戻された。
目の前に、玲奈が立っていた。
「美咲さんのことです」
惚けた様子の涼介に、玲奈が言う。
大切な人……。
美咲……。
少し遅れ、玲奈の言葉が涼介の中に浸透してくる。
また、幼い美咲の笑顔が脳裏に浮かんだ。
それが、現在の……高校二年生の、いつもの美咲の笑顔に変わる。
自然に、唇が動いていた。
「……ええ、オレにとっては大切な娘です。かけがえのない……」
紡がれた言葉に、
「そうですか……」
とだけ、玲奈は微笑みと共に返した。
その瞳は、優しげな輝きを湛えている。
けれど、どこか寂しげにも見える。
…………なんだろう。
一瞬、何かが心の琴線に触れたような気がした。
でも……その正体は判らなかった。
たぶん、気のせいだろう……。
「……そろそろ、行きましょうか」
涼介は言うと、玲奈が頷くのを待って再び歩き始めた。