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「私が中学生の時でした……」
玲奈がゆっくりと語りだす。
「その頃、私は男の子からよく交際を申し込まれていました。ラブレターも毎週のように貰ったものです。
ですが。精神的にまだ幼かったんでしょうね。その頃の私には、男の子に対する興味もありませんでしたし、誰かと付き合ってみたいという気持ちもなくて……。ですから、何の意識もなく、私は交際の申し込みをずっと断り続けていました。恋に恋するみたいな、恋愛への憧れのようなもさえ、私の胸の内にはまだ芽生えていなかったくらいで……」
話しているうちに、玲奈の声から震えが徐々に消えていった。代わりに何かを押し殺すように、淡々とした調子になっていく。
「相手に『好きです』と告白されても、それがどういうものか、よく分かっていなかったんです。『甘いクリームが好き』の『好き』なら、もちろん分かっていましたが。そんなお子様な状態で、男の子と交際なんて出来るはずがありません。それに……男の子たちはみんな……」
続きは自分では言い難いだろう。
「あなたの綺麗な容姿、外見ばかりを見ていた。いや、それしか見てくれなかった……ですか?」
さり気なく気を利かせ、慎也は玲奈の言葉を奪った。
「……ええ。仰るとおりです」
美人には、美人なりの悩みがあるものだ。
あまり器量が良すぎると、人はそこばかりに注目し、ちゃんとその人間のことを見てはくれないものである。それはなかなかに寂しいことなのだ。
まあ、美しさを鼻に掛けているような女性なら、そんなことは気にならないかもしれない。けれど、玲奈はそういった、ある意味ポジティブな質の御令嬢ではないだろう。どころか、逆に自分の恵まれた容姿のことで悩んでしまうタイプのお嬢様だと思う。
周りの女子との間にも、これまでにきっと、玲奈自身は望まない……ただ彼女が綺麗だったが故の、すれ違いなども何度もあったことだと思う。
「でも、私が中学三年の時でした。クラスメートの男の子と、お付き合いをすることになったんです。彼は、私の内面もちゃんと見てくれる人でした。周りからは冴えない奴って言われていた男の子でしたけれど、私にとっては優しくて素敵に思える人だったんです」
「初恋だったんですね?」
「……はい」
玲奈が無感動な調子で頷く。
なんとも言えない暗い陰りが、彼女の顔を過ぎる。
辛く苦しい出来事が、悲しみや後悔などともに、彼女の中で思い出されているのだろう。
どこか泣き出しそうな、儚げな表情でまた肩を震わせ始めた玲奈の様子に、慎也は以後の話の展開を悟った。
「月並みな言い方になりますが、彼と交際を始めてからは、毎日がドキドキいっぱいで。ちょっとした喧嘩をしたりすることもありましたが、そんなことも含めて、初めての男の子とお付き合いは、私にとっては心地好くて幸せに感じられるものでした。でも……」
玲奈が言葉を切る。その表情は、懐かしく甘酸っぱい初恋について語る女子のものではなかった。
(……まるで、自分のことを罪人だとでも思っているかのようだな)
警官時代に取り調べを担当した、とある事件の被疑者。意図せず犯してしまった自らの罪とその後の後悔、それをうな垂れながら告白していた逃亡犯。あの時の犯人の姿と、目の前の伏し目がちな玲奈の印象が重なる。
「……いいですよ、そこから先は話さなくても。おおよその見当はつきますから、俺が代わりに話しますよ。だから、間違っていた時のみ指摘して、訂正してください。水島さん、あなたから話すのは辛いでしょう?」
「えっ……」
思いがけない慎也の言葉に、玲奈は驚いたようだった。
少し逡巡する様子を見せたものの、
「……はい、お願いします。お気遣い、有り難うございます」
と、玲奈は素直に彼の厚意に甘えた。
「結論から先に言うと、あなたと付き合っていた彼は、私刑を受けたのでしょうね。
水島さん。あなたはそれまで、たくさんの男子を振ってきた。その中には、あなたが特定の誰かと付き合うことを、面白くないと思った連中もいたはずです。
あまり感心はできませんが……中学や高校時代、学生というものは学校という狭い世界の中で、独自のヒエラルキーを構築しているものです。どこの学校でも、この身分制のピラミッドはいろんな形で存在していることだと思います。クラスメートと自分を比べて、『自分はこいつよりは上だ』的な、そんなささやかな意識でも数が集まれば、立派なミラミッドができてしまうものです。たとえ、閉じられた世界でしか通用しない不完全なものだとしても、それは学内、学生たちの間では、数学の公式以上に定義する力を持つこともあるかと。
中学時代のあなたのお相手は、あまりパッとしたタイプではなかったようですし。学生たちが決めたヒエラルキーでは、ピラミッドの下層部に位置づけられていたのでしょう。だから、多くの男子たちにとって、あなたと彼の交際は認められるものじゃなかった。どうして、あんな奴が……と悔しい思いもしたでしょうし、あなたに振られていた同級生の中には憤りの感情を持て余した男子もいたでしょう。そういったある意味幼い連中は、許すということができなかったりするものですし。そんな歪んだ思いが集まれば、私刑ということになるのも……自然の流れだったでしょうね」
慎也が話している間、玲奈はじっと耐えるように俯き黙っていた。
そんな親友に、多恵子は気づかわしげな視線を向けている。
「その私刑が、どんなものだったかは分かりませんが……おそらく、彼はかなりの怪我を負わされたんじゃないでしょうか。
……と、こんな風に推察されるのですが、いかがですか?」
慎也は問いかけで話を締めた。
その内容に訂正するほどの間違いはなかったのだろう。
玲奈は最後まで口を挿まなかった。
やや長い沈黙があって、玲奈が頭を上げた。
「その通りです。……全治1ヶ月の怪我でした。私のせいで彼は……」
言う玲奈は、とても辛そうだった。その声は弱々しく、半ば涙声になっている。
「違うよ! それって違う、そんなの玲奈さんのせいじゃないよ! 玲奈さんが悪いわけじゃ、絶対に……」
「美咲ちゃん」
声を張り上げた美咲を遮り、慎也は首を横に振った。
これは、他人がどうこう言ったところで、どうなるものでもない。自分で乗り越えるべき類のことだ。
安易な慰めは、却って、苛む言葉となって当事者の心に突き刺さるだろう。玲奈の気持ちを、余計に辛いところへ追い込むだけだ。
「そんなの非道いよ……」
哀しげに言うと、美咲は涼介の肩に頭をあずけた。
ふと隣に目をやると、雪乃も痛ましそうに玲奈を見ている。
「だから、それ以来……私、男の人とお付き合いするのが怖くなってしまって……」
そんなことを経験すれば、トラウマになってしまうのも仕方がないだろう。
「秋彦さんのことも、最初のうちは何度交際を申し込まれても、ずっと断り続けていたんです。中学の時のことを思うと怖くて、どうしてもOKとは言えなくて……。でも、私も秋彦さんのことは嫌いではなかったですし、条件付きで交際を承諾したんです」
「あなたと川崎君が付き合っていることは、内緒にする……ですか?」
「……はい」
まあ、当然といえば当然か。
「それで、わかりました」
慎也は一つ息を吐いた。
「オレも分かりました。昨日の夜、水島さんと先輩はそのことで喧嘩になったんですね。先輩は基本的に開けっ広げで、隠し事なんかは徹底して嫌がる人です。それだけじゃなく、水島さんのことを思って、交際をオープンにしたいと申し出たんでしょう。でも、水島さんはどうしてもYESとは言わなかった。いえ、言えなかった」
「たぶん、そうだろうな。付け加えるならば、あなたはその時、濃いサングラスでも掛けていたんじゃないですか? もしそうなら、警察があなたを疑った訳も少しは分かります。
そして、二人のデートはいつも夜で、学内ではただの知人の振り。川崎君はそれが嫌になったんじゃないでしょうか、違いますか?」
涼介と慎也の合同推理(?)に、玲奈は少し怯んだようだった。
秋彦のことで責められているとでも、思ったのかもしれない。
実際、多恵子はそう感じたようだった。
「ちょっと神谷さん、天野くん! その言い方は、玲奈を責めているんですか!」
逆に、多恵子が二人を責めるように言い放つ。
「ああ、いえ、そういうわけでは……。言い方が悪かったみたいですね。すみません、謝ります」
頭を下げた慎也に、玲奈が慌てた。
「そ、そんな、頭を上げてください。神谷さんたちの仰る通りなんです。秋彦さんと私は、そのことで言い合いになって……場所は隠れ家的なレストランだったんですが、言い合いの末に、秋彦さんは怒って店を出て行ってしまって。それを見ていた人が、警察の方に。神谷さんが仰られたように、私はサングラスも掛けていましたし……」
「それで、あらぬ疑いを警察に持たれてしまった、と。……でも、やはり納得がいきませんね。それくらいのことで、警察があなたに疑いをかけるでしょうか。どうにもピンと来ないんですが……」
「もう、せっかちですね! もちろん、まだ続きがあるに決まっているじゃないですか!」
また多恵子から横やりが入り、慎也は叱られてしまう。
元々、彼女が熱しやすい性格をしているというのもあるだろう。
けれど、それを抜きにしても、自分と多恵子の相性は良くはなさそうだ。
首をすくめると、雪乃が多恵子を睨んでいるのが視界の端に映った。彼女との相性が悪いのは、慎也だけではないらしい。
(頼むから、大人しくしていてくれよ……)
多恵子に対し何やら怒っている様子の雪乃に、慎也は心の中で手を合わせる。
「車です。川崎さんをはねた車が問題なんです」
多恵子は、声に深い吐息を乗せて言った。
「自動車? まさか、ひき逃げが水島さんの愛車で行われた、とでも言うんですか?」
「違います! 何を言っているんですか。そんなこと、あるわけがないでしょうが!」
多恵子の怒りのバロメーターは、再び急上昇し始めているようだ。
「新聞にもあったビルの警備員、その人が聞いたっていうエンジンの音、それが普通の乗用車の音じゃなかったみたいなんです。どうやら、かなり特徴のある音だったらしくて、あれはスポーツカーだって。たまたま大の車好きだったビルの警備員さんが、逃げた車はフェラーリだと思うと証言したみたいなんです」
「で、これまた、たまたま水島さんの愛車もフェラーリだったと」
「……はい。正確には父の物になりますが、家の車庫にはフェラーリが二台あります」
二十歳の女性がフェラーリとは……。水島玲奈は、正真正銘のお嬢様だったようである。
「なるほどね、喧嘩と車種ですか……。そこにサングラスのおまけ付き、と……それで疑われてしまったわけですか。
で、あまりにも都合よく、水島さんにとっては都合悪くですが……容疑が掛かってしまった」
そこで一旦言葉を区切り、慎也は多恵子の方へと顔を向けた
「だから、松井さん、あなたは精神的云々という先ほどの考えに基づいて、こう言いたいわけですね。川崎君をはねたのは、水島さんへの嫌がらせ犯と同一人物の仕業だと」
「そうです。だって、そう思いませんか? 犯人はきっと、昨夜、玲奈たちの後をこっそりと着けていたんです。それで、二人が喧嘩しているのを見て、今回のことを思いついたんですよ。玲奈の恋人である川崎さんを車で襲って、その容疑を玲奈に着せる。これほど玲奈にダメージを与えられる方法が、他にありますか?」
手ぶりを交え、多恵子は自分の推理を披露した。
しかし、その理屈は穴だらけのこじつけである。
まず第一に、玲奈に容疑が掛かるようにするには、フェラーリが必要となる。
犯人は、そのイタリア製の高級車をどこで調達したというのか。フェラーリなんてもの、そう簡単に庶民が手に入れられるものではない。
それに同じ車種を使ったところで、人をはねたかどうかなんて、車体を調査すればすぐに分かる。水島家所有の二台のフェラーリを調べれば、玲奈の容疑などすぐに晴れてしまうだろう。
フェラーリなどを使えば、盗難車でもないかぎり、却って犯人自身が危うくなる。警察は無能ではない。そんな限定された車種によるひき逃げ事件など、すぐに犯人を挙げてしまうだろう。
もしもひき逃げ犯が嫌がらせ犯と同一人物ならば、それは秋彦を道連れにしただけの自滅行為である。
テグスを使った仕掛けを拵えるような人物が、そんな自棄っぱちの間抜けだとは到底思えない。
「まあ、犯人が金持ちならば、フェラーリの調達だけはできるかも知れませんけどね。でも、やっぱり無理がありますよ。水島さんと川崎君の件は、とりあえず分けて考えてみるべきですよ」
「ううっ……」
多恵子の素人推理は呆気なく潰えた。
今度はもう反論してこない。いや、できないといった方が正しいか。
口を噤んでしまった多恵子を見て、雪乃はニコニコと笑っていた。なんだかよく分からないが……とりあえず、機嫌は直ったようである。
「でもまあ、松井さんの精神的苦痛の説自体は悪くありませんよ。水島さんへの嫌がらせ犯の方については、俺もあなたの説をベースして考えてもいいかと」
フォローのつもりではなく、慎也はその点についてはしっかりと認めていた。
「オレもそう思います。苦しめるだけ苦しめた後で、嫌がらせ犯が水島さんに危害を加えない、とは言い切れないですけど……。基本的にはその線で考えていいと思います」
涼介とも意見の一致をみたようだ。
その意見を最後に、事務所から言葉が消えた。
玲奈も多恵子も、伝えるべきことは全て話し終えたらしい。
やたらと長い打ち明け話と意見交換会(?)になってしまったが、やっと本題に入れそうだ。
「とりあえず、お話は終わりのようですね」
すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干す。
「それでは、具体的な依頼内容の打ち合わせに入りましょうか」
言って、慎也は全員の顔を見回した。