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『たった6文字のHOPE ~神谷探偵事務所はぐれ事件簿~』  作者: 水由岐水礼
PROLOGUE 誰も見てはいなかった
1/36

01


 ……降っているのか、いないのか。

 あまりにも細かすぎる雨が、真っ暗な空からほとんど音もなく落ちていた。

 梅雨時の鬱陶しい湿気を孕んだ夜風が、真夜中のひっそりとしたメインストリートを、我がもの顔で吹き抜けてゆく。

 駅前のロータリーに立つ時計台の針は、午前3時すぎを指していた。

 ぴしゃ、ぴしゃ!

 これでもう何度目だろうか。

 小気味良い音を立てて、水溜まりの水が跳ね上がる。

 下ろしたての革靴は、すっかりびしょ濡れだった。靴下やスラックスの裾も、汚れた水をたっぷりと吸っている。

 けれど、川崎秋彦は、自分の足許のことなど全く気にも留めていなかった。

 ふらふら、ふらふらと、缶ビール片手に千鳥足で歩みを進めていく。

 完全な泥酔状態だった。

 頭がぼーっとして、まともに思考が働かない。自分がどこにいるのか、それすらも秋彦の脳髄は把握していない。

 いや、把握しようともしていなかった。

 酔いで三半規管が麻痺しているのだろう、その軌跡はアスファルトの上で大きく蛇行している。

 転んでしまわないのが不思議なくらい、ひどく覚束ない足取りだった。

 ぴしゃ!

 また、水溜まりに足を踏み込んだ。

「へなのはかひゃろ~」

 言葉になっていない意味不明な音を、犬の遠吠え宜しく、秋彦は舌足らずな発音で夜空に向かって叫んだ。

 そんな音痴の節回しにも似た、へたれた酔っ払いの叫びに答えるものなど誰もいない。

 叫び声に驚いて振り返る者や好奇の目を向ける者も、午前3時を過ぎた真夜中の街には存在しなかった。

 声が届きそうな範囲には、交番やコンビニの明かりもなかった。

 雲に覆われた闇夜では、月や星々でさえも秋彦には付き合ってはくれない。

「はかひゃろ~ はかひゃろ~」

 夜の闇の中、秋彦の叫びが繰り返される。

 どうやら、「バカヤロウ、バカヤロウ」と言っているようだ。

「はかひゃろ~……」

 ただ虚しく、酔っ払った秋彦の声だけが辺りに谺し、たちまちの内に闇の中に霧散する。

 長かったのか、短かったのか。二、三分はは続いただろうか。「はかひゃろ~」の遠吠えリサイタルは終演した。

 が、それで再び辺りに静寂は戻……らなかった……。

 ぶおおぉぉぉん!

 派手という言葉を使って形容してもいいだろう音律が、背後から聞こえた。

 酔いを覚ますような、とまではいかないものの、頭痛を呼び起こすには十分な爆音だった。

 聞こえてきた爆音に、秋彦は緩慢な動作で振り返る。

 身体の向きを反転させた彼を、強烈な光が照らす。

「うっ……」

 その眩しさに思わず目を細め、手を目許にかざした。

 できるならば、この時、秋彦はすぐにその場から飛び退くべきだった。

 そうすれば、もしかすると間に合っていたかもしれない。

 しかし、残念ながら、秋彦の脳と身体は大量のアルコール摂取によって麻痺させられていた。

 今の秋彦に、素面の時にような、瞬時の反射的な判断や機敏な動きを望むなど、到底無理な話だった。

 光が迫ってくる。

 キキキィィーーーー!

 悲鳴にも似たブレーキ音が鳴く。警告するかのように、尖った摩擦音が鼓膜を震わせた。

 それでもまだ、秋彦には光の正体が判っていなかった。

 あっという間に、視界が眩い光に奪われ、目の前の色彩が白く染まる。

 その瞬間、やっと、光彩の正体が車のヘッドライトだと認識できた。

 今まさに、自分がとてつもなく危機的状況にあることも……。

 車高の低い車体は、既にすぐ眼前にあった。

 ああ、避けられない……。

 思うと同時に、反射的に瞼が閉じてしまう。

 刹那、

〝秋彦さん……〟

 自分を呼ぶ聞き馴染んだ声が聞こえた気がし、一つ年下の恋人の面影が脳裏に浮かんだ。

 日付が変わる前。つい何時間か前に、喧嘩別れをしてきたばかりだというのに……秋彦の想像の中で、彼女は優しげに微笑んでいた。

 がん! がごん!

 鈍くも高い音とともに、秋彦は跳ね飛ばされた。一緒に水溜まりの水が盛大に飛び散る。

 恐怖を感じる暇もなかった。

 二転三転、アスファルトの上を身体が勢いよく転げる。

 何度、天地が入れ替わっただろうか。車道と歩道の境界、車止めを兼ねた段差と縁石が、車ではなく転がる秋彦の身体を受け止めた。

「う……ううっ……」

 ぬるっとした生暖かいものが、眉間や頬を伝う。

 ほんの数秒大人しくなっただけで、秋彦をはねた車のエンジンは再び喧しい咆哮を上げ始めた。

 さすがに酔いは覚めていた。……が、思考が酔っていた時以上に上手く働かない。

 アスファルトにうつ伏せに倒れた身体も、動いてはくれなかった。

 ただ唇だけが、

「バカヤロウ……」

 と、微かに言葉を紡いだ。

 生存本能のなせる業だろうか。思考と感情を保とうと、なんでもいいから……何か考えようとするけれど……。

「……う、うう……あ、あぁ……」

 感じている痛みが薄れ始め……辛うじて保っていた意識も薄れてゆく。

 それに合わせるかのように、喧しく唸っていたエンジン音と排気音も遠ざかっていく。

 それが消え失せた時、秋彦の意識はすでに途切れていた。


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