01
……降っているのか、いないのか。
あまりにも細かすぎる雨が、真っ暗な空からほとんど音もなく落ちていた。
梅雨時の鬱陶しい湿気を孕んだ夜風が、真夜中のひっそりとしたメインストリートを、我がもの顔で吹き抜けてゆく。
駅前のロータリーに立つ時計台の針は、午前3時すぎを指していた。
ぴしゃ、ぴしゃ!
これでもう何度目だろうか。
小気味良い音を立てて、水溜まりの水が跳ね上がる。
下ろしたての革靴は、すっかりびしょ濡れだった。靴下やスラックスの裾も、汚れた水をたっぷりと吸っている。
けれど、川崎秋彦は、自分の足許のことなど全く気にも留めていなかった。
ふらふら、ふらふらと、缶ビール片手に千鳥足で歩みを進めていく。
完全な泥酔状態だった。
頭がぼーっとして、まともに思考が働かない。自分がどこにいるのか、それすらも秋彦の脳髄は把握していない。
いや、把握しようともしていなかった。
酔いで三半規管が麻痺しているのだろう、その軌跡はアスファルトの上で大きく蛇行している。
転んでしまわないのが不思議なくらい、ひどく覚束ない足取りだった。
ぴしゃ!
また、水溜まりに足を踏み込んだ。
「へなのはかひゃろ~」
言葉になっていない意味不明な音を、犬の遠吠え宜しく、秋彦は舌足らずな発音で夜空に向かって叫んだ。
そんな音痴の節回しにも似た、へたれた酔っ払いの叫びに答えるものなど誰もいない。
叫び声に驚いて振り返る者や好奇の目を向ける者も、午前3時を過ぎた真夜中の街には存在しなかった。
声が届きそうな範囲には、交番やコンビニの明かりもなかった。
雲に覆われた闇夜では、月や星々でさえも秋彦には付き合ってはくれない。
「はかひゃろ~ はかひゃろ~」
夜の闇の中、秋彦の叫びが繰り返される。
どうやら、「バカヤロウ、バカヤロウ」と言っているようだ。
「はかひゃろ~……」
ただ虚しく、酔っ払った秋彦の声だけが辺りに谺し、たちまちの内に闇の中に霧散する。
長かったのか、短かったのか。二、三分はは続いただろうか。「はかひゃろ~」の遠吠えリサイタルは終演した。
が、それで再び辺りに静寂は戻……らなかった……。
ぶおおぉぉぉん!
派手という言葉を使って形容してもいいだろう音律が、背後から聞こえた。
酔いを覚ますような、とまではいかないものの、頭痛を呼び起こすには十分な爆音だった。
聞こえてきた爆音に、秋彦は緩慢な動作で振り返る。
身体の向きを反転させた彼を、強烈な光が照らす。
「うっ……」
その眩しさに思わず目を細め、手を目許にかざした。
できるならば、この時、秋彦はすぐにその場から飛び退くべきだった。
そうすれば、もしかすると間に合っていたかもしれない。
しかし、残念ながら、秋彦の脳と身体は大量のアルコール摂取によって麻痺させられていた。
今の秋彦に、素面の時にような、瞬時の反射的な判断や機敏な動きを望むなど、到底無理な話だった。
光が迫ってくる。
キキキィィーーーー!
悲鳴にも似たブレーキ音が鳴く。警告するかのように、尖った摩擦音が鼓膜を震わせた。
それでもまだ、秋彦には光の正体が判っていなかった。
あっという間に、視界が眩い光に奪われ、目の前の色彩が白く染まる。
その瞬間、やっと、光彩の正体が車のヘッドライトだと認識できた。
今まさに、自分がとてつもなく危機的状況にあることも……。
車高の低い車体は、既にすぐ眼前にあった。
ああ、避けられない……。
思うと同時に、反射的に瞼が閉じてしまう。
刹那、
〝秋彦さん……〟
自分を呼ぶ聞き馴染んだ声が聞こえた気がし、一つ年下の恋人の面影が脳裏に浮かんだ。
日付が変わる前。つい何時間か前に、喧嘩別れをしてきたばかりだというのに……秋彦の想像の中で、彼女は優しげに微笑んでいた。
がん! がごん!
鈍くも高い音とともに、秋彦は跳ね飛ばされた。一緒に水溜まりの水が盛大に飛び散る。
恐怖を感じる暇もなかった。
二転三転、アスファルトの上を身体が勢いよく転げる。
何度、天地が入れ替わっただろうか。車道と歩道の境界、車止めを兼ねた段差と縁石が、車ではなく転がる秋彦の身体を受け止めた。
「う……ううっ……」
ぬるっとした生暖かいものが、眉間や頬を伝う。
ほんの数秒大人しくなっただけで、秋彦をはねた車のエンジンは再び喧しい咆哮を上げ始めた。
さすがに酔いは覚めていた。……が、思考が酔っていた時以上に上手く働かない。
アスファルトにうつ伏せに倒れた身体も、動いてはくれなかった。
ただ唇だけが、
「バカヤロウ……」
と、微かに言葉を紡いだ。
生存本能のなせる業だろうか。思考と感情を保とうと、なんでもいいから……何か考えようとするけれど……。
「……う、うう……あ、あぁ……」
感じている痛みが薄れ始め……辛うじて保っていた意識も薄れてゆく。
それに合わせるかのように、喧しく唸っていたエンジン音と排気音も遠ざかっていく。
それが消え失せた時、秋彦の意識はすでに途切れていた。




