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ペーパークラフト

作者: 何処

 私には一人、珍しい友人がいる。人種とか、宗教とか、思想とかそういったことからは一線を引いた、美しい少年だった。


 思い返せば、私の生は恵まれたものだった。三十八年前に、深雪という名をもらい、息をした。

深雪などと大層な名に反して、私はぐずであった。走らせてみれば地面に顎を擦り付け、書かせてみればミミズが這い、話してみれば上手く言葉がでてこない。つまりは出来の悪い人間だった。

そんな私も八年前に嫁を貰い、亜鐘と名付けた娘もできた。妻は渥子といい、できた妻だった。決して満足とは言えぬ私の収入に文句の一つも付けず、時には働きに出、娘も育ててくれている。私には贅沢過ぎる程の妻だった。正直、自慢の妻であった。

そんな妻はなぜ私を選んだのか、それが不思議でならない。お世辞にも二枚目ではなかったし、目立ったほうでもなかった。

それを一度妻に問うたことがあった。妻は

「あなたは世界が醜いと思っているでしょう。それが許せないの。あなたの考えを変えたいの」と、少し悲しそうな顔をした。

私は妻のそんな顔を見るのは辛く、それ以来この話題は二人の間に挙がらなくなった。そして私はその記憶をすっかりなくした。


 ――振りをしていたのに、彼の一言で、亡き妻が悲しそうな顔をしている。

 「深雪さん、君は世界は醜いものだと思っているでしょう」

 「考えたことはないけど、端から見たなら醜いかもしれない」

 「なぜ」

 真昼のレストランはひっそりとしていて、暗かった。彼は私の向かいに深く腰掛け、真っ黒に濡れた瞳で私を見つめている。

 「なぜと聞かれても分からんよ。俺はそんなに頭が良いわけでもない」

 「知識や知能は問題じゃあない。今問題なのは感性だよ」

 「……醜いだろう、世界は。俺が世界に何をした」

 「何もしてないよ。深雪さんは」

 「ならなぜ俺から渥子を奪う。なぜ渥子が死ぬ。なぜ渥子を殺した奴が法に、国に、世界に護られる」

 半年前、私の妻は死んだ。私の誕生祝いに馳走を、と思い、買い物に出掛けた先だった。信号を青で渡った妻を、白いワゴンが撥ねたのだ。なんの罪もない妻を。

妻は病院へと運ばれた。私が駆け付けた時にはもう息がなかった。立ち会った医師から、妻から私への伝言を預かったのだという。……いや遺言と言うべきか。

「深雪さん、やっぱり世界は美しかったわ」そう言い残して妻は世界から消えた。私と亜鐘を残して。

 妻を撥ねた男は、精神に軽度であるが、障害を持っていて、妻を撥ねた時は、パニックに陥っていたと聞いている。これを理不尽と呼ばずになんと呼べばいい。私は俯いた。

 「それが世界なんだよ。受け入れるしかない」

 怒りよりも呆れが私に満ちた。これが全知全能と呼ばれる神というものなのか。私は泣きたくなった。


 私には一人、珍しい友人がいる。彼に名はなく、恐ろしい程の美少年だった。

彼と私が初めて出会ったのは半年前、私の妻が死んだ病院である。妻が死んだあの日は、死には相応しくない快晴だった。

明るい廊下に呆然と佇む私に、彼は声を掛けてきた。

 「晴れた日にそんな顔をするもんじゃないよ。穏やかでいるべきだ」

 穏やかな笑みを浮かべた彼は、ただ一言

「神と呼ばれてる」と告げ、私は深雪です。と名を告げていた。

普通なら、自ら神と名乗る人間が現れたならば怪しむべきであろうが、私にそんな余裕はなかった。最愛の妻が逝ってしまった。それだけが私の世界だった。


 「……俺は神じゃない。受け入れるだけの心を持っていない」

 「最初は誰でもそう言うもんだよ。わたしだって最初はそうだった」

 「全知全能の神が運命に悩むのか」

 少しの皮肉を込めたセリフも、満身創痍の私が投げてもダメージはない。

 「わたしは全知だけど全能じゃあないよ。知っているだけで、何もできない。作るだけ作って、見守るしかできない」

 「責任感がないなぁ、神ってものは」

 「そういうものなんだ。神ってものは」

 「こんな醜い世界、最初から作らなければいい。そうすれば君も自責の念に囚われなくて済むし、俺だって渥子を失わない。良いこと尽くしだ」

 「世界は美しいよ」

 ガラスのように透き通り、鋭い声が私を刺した。自信に満ちたその声は、どこか妻と似ていた。

 「……世界は美しいよ。深雪さん」

 「俺には分からんね。灰色のコンクリートジャングルのどこが美しい。見渡す限り人!人!人!」

 「君らが居るから、世界は美しいんだ」


 私達人間が居るから世界は美しいのよ。いつか妻がそう言っていたのを思い出した。醜い争いをし、子孫を残す目的以外の性に溺れる人間のどこが美しいのか、私には分からなかった。

 「それは君らの心だよ。人の心は幽玄だ。果てがない。見方一つで世界は変わる。君の奥さんのように世界を愛せば世界は色付く」

 「……渥子は世界は美しいと言って死んだ。渥子は世界に何を見たんだ」

 「愛だよ」

 「愛か」

 「奥さんが君を愛したように、君も奥さんを愛した。幸せだったろう。それが美しさだよ。美しさは極彩色とは限らない」

 「なあ、君には世界はどう見えている」

 「美しいよ。今だって愛がある」

 カラン、と入り口のドアが開いて、亜鐘が入ってきた。窓をみると日が落ちかけている。灰色のアスファルトを淡く蜜柑に染めて、日は落ちる。

前に一度、妻と二人きり、このレストランで食事をしたことがある。その時も同じように、日が落ちていく時間だった。妻はしきりに

「世界は美しい」と言っていた。

 「おとうさん、帰ろ」

 「亜鐘、お父さん待ちくたびれたぞ」

 拗ねたように言うと、亜鐘は妻そっくりの笑みで

「お外がきれいなんだよ。こういうの、美しいって言うんだよね。おかあさんがよく言ってた」と、私の腕をとった。

私もいつか妻や娘のように、世界は美しいと言えるだろうか。

向かいの席に彼の姿はなかった。彼は世界は美しいと言った。神にも感情があるのだと、この年にして私は初めて知った。

 亜鐘の手をとり、ドアをあける。排気ガスの臭いがする。それでもきっと、世界は美しいのだ。

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