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【番外編】アヴェルス

 日差しがじりじりと地面を焼くような夏の日だった。

『アヴェルス』という街で宿の部屋を確保し、すぐさま外へ繰り出そうとしていたディオス。宿のオーナーに「外出します」と声をかけるために足を運んだロビーで、懐かしい顔を見つけて声をかけた。

「――――カイトスさん!」

 名前を呼ばれた男が振り向く。一瞬だけきょとんとした表情をしていたが、ディオスの姿に気付くとたちまち嬉しそうな顔になった。

「ディオスか! 久しぶりだな、一年ぶりか!」

 ディオスが声をかけた男――――カイトスは、ディオスがヴァイナーを出たばかりの頃に知り合った人物だった。トゥバンの紹介で出会い、それから数日世話をしてくれた、ディオスの恩人の一人だ。

 住んでいるのはヴァイナーからは近く、ここからは遠く離れた街のはずだった。何故ここに、と問うと、

「新婚旅行だ!」

「違うから」

 満面の笑みで言い放つカイトス。それを隣に立っていた小柄な人物が否定した。

 カイトスが紹介してくれた人物は、妻ではなく彼の婚約者だった。以前から彼女に関するのろけ話は聞かされており、正直げんなりするほどだったのだが――――

「スピカです。よろしくね」

 微笑(ほほえ)んでお辞儀をするその姿には、この上なく『可憐』の二文字が似合っていた。

 低い背丈と細い体。腰までの長さの茶色の髪はスピカのお辞儀に合わせてさらりと流れる。蒸されるような暑さの中でも最低限の露出しかない服装は彼女の品の良さを現していた。

 極め付けは笑顔の愛らしさだった。呆れた表情から一変、笑顔になったその様はツボミが花開いたかのよう。挨拶をする声はまるで鈴の音のように凛と澄んでいる。

 (しっ)()する気も起きないほどの美女であった。

「……どこから(さら)ってきたんですか」

「攫ってねぇ!」

 思わず口をついた言葉に、カイトスは瞬時に怒鳴り返してきた。

「だってそうとしか考えられないじゃないですか! こんな絶滅危惧種級の美人なんて密猟でもしないと捕まりませんよ!」

「テメェは俺を何だと思ってやがる!?」

「誘拐犯!!」

「断言すんな!」

 (ひと)()(はばか)らず言い争うディオスとカイトス。見かねたスピカに仲裁を入れられたことでひとまず口は(つぐ)んだものの、ディオスはやはり、カイトスにこれほどまでの美人な婚約者がいることがどうにも()に落ちなかった。


        *


 アヴェルスは他の街と比べ、魔人の多い街だった。

『魔人』とは人間とモンスターの間に生まれた子のことを言う。人間とモンスターの境界を(あい)(まい)にしている街ではハーフである彼等も問題なく暮らすことができるのだが、モンスターが毛嫌いされている地域では彼等は居場所を作ることができず、他の街へと流れていく――――アヴェルスは、そんな流れ者が多い街だった。

 そして何を隠そう、ディオスの目の前で彼女とイチャつきながらホットドックを(ほお)()っているカイトスも、アヴェルスとは別の街で生まれた『魔人』の一人なのである。

 外見は竜人に近い。肌の表面全てが黒光りする(うろこ)でびっしりと覆われている。実際は蛇のモンスターと人間のハーフであり、その証拠に時折口元から(のぞ)く舌は細長く、先端が二つに割れていた。

 それでも味覚はディオスと変わらない――――むしろディオスよりも舌は()えているらしい。ホットドックにかけるソースの量を(こま)めに調節していた。

「で、実際はどうしてここに?」

 ディオスもホットドックに(かじ)りつきながら、もう一度尋(たず)ねた。

 スピカの(ふう)(ぼう)に目を奪われてしまったために聞くのを忘れていた。新婚旅行でないのは確かだが、只の旅行にしてもカイトスの故郷からは遠く離れすぎている。気軽に訪ねられるような距離ではなく、無意味に(かん)ぐってしまう。

「新婚ではないけど、旅行なのは間違ってないよ」

 しかし、スピカから返ってきた答えは(いささ)か拍子抜けするものであった。

「本当にですかぁ? こんなに遠い所までぇ?」

「本当だよ。カイトスって見た目がアレだから、()()ねなく旅行できる場所ってこういう所しかなくって」

「見た目がアレって言い方はやめろ」

 新婚どころか熟年夫婦並みに息の合ったやりとり。それを見てやっと「本当にカップルだったんだ」と納得したディオスは、もう一度大きく口を開けてホットドックにかぶりついた。

 カイトスが外見のことで面倒事が多いのはディオスも知っていた。カイトス自身の(きょう)(じん)な精神力とコミュニケーション能力の高さでそれ等をいなしていたものの、それでも全ての障害を排除するには至らない。今回の旅行は、そんなカイトスをスピカが気遣ってのことなのだろう、とディオスは考えていた。

「片想いじゃなかったみたいで安心しましたよ」

「だから最初ッから言ってんだろうが!」

 小さく嫌味を挟むことを忘れないディオス。その()(なま)()()な友人に再度怒鳴り返したカイトスは不機嫌そうな顔で水を(あお)った。


        *


 カイトス達に合わせて、ディオスは街に一週間滞在することにした。

 もちろん、全日程で常に行動を共にするわけではない。カイトスとスピカとは半分だけ一緒に遊んで回るつもりだ。彼女と二人きりになりたがっていたカイトスには嫌がられてしまったが、スピカの方が同行を(こころよ)く許可したものだからそれに従わざるを得なかったようだ様子である。

 とは言っても観光して見て回れる場所は少なかった。街自体の面積が非常に狭いため、観光気分で回れる場所は最初の二日間で全て見尽くしてしまった。

 残っているのはせいぜい専門店が並んでいる通りくらいだ。しかし貧乏旅をしているディオスに余計な物を買う余裕はない。

「明日には出発しようかなぁ……」

 二日目の晩、部屋の中で一人、ディオスは呟いた。

 ベッドと姿(すがた)()しか置かれていない狭い部屋。(きゅう)(くつ)だが、ここがアヴェルスで唯一の宿だと言われてしまったため、選択肢はなかった。

 滞在予定期間は一週間だったが、早めても問題はない。()(ぎん)にやや不安があるが、日雇いの仕事も見つからなかったため、カイトス達がいること以外に滞在するメリットはなさそうだ。

「あんまりくっついてたら、カイトスさんにも悪いしなぁ……」

 思ってもいないことを口にしながら、ディオスは頭の中で翌日の予定を組み立てる。

 ――――豪雨が窓を叩き始めたのは、その一時間後だった。


 夜中、眠れなくなってしまったディオスが宿の食堂に顔を出すと、スピカを中心に他の宿泊客達が談笑して過ごしていた。

 宿泊客は全員が男だった。彼等は一様にして鼻の下を伸ばしており、スピカはそれに困ったような笑顔で対応している。……そして何故か、カイトスはいない。

 この場を放っておいたら後でカイトスに怒られるに違いない。そう考えたディオスが連中を一睨みすると、その迫力に恐れを()したのかあっさりと集団で離れていった。

「情けないですねぇ」

「あはは……でも、助かったよ。ありがとう」

 わざと聞こえるように言ったディオスに対し、スピカの声は(ひか)えめだった。

「カイトスさんは?」

 この場にいなければならないはずの男の姿がない。尋ねると、スピカは何の気もなしに答えた。

「寝てるよ」

「寝て……寝れるんですか!? こんな雨の中で!?」

「一度寝たら起きないからね、カイトスは……」

 降り注いでいる雨はディオスが今までの人生で初めて遭遇する大雨だ。

 アヴェルスは平地にあり、近くに川もないため土砂崩れも洪水も心配する必要はないが、それでも地盤が(ゆる)んで陥没してしまうのではないかと思うほどの威力があった。

 ディオスが眠れなかったのはこの雨が原因だ。降り始めは「ああ、降ってきたな」程度の認識しかなかったが、時間が経つにつれてその勢いは増し、今では(かな)(づち)で鉄板を打つような(ごう)(おん)を立ててこの街に降り注いでいる。

 スピカも、他の宿泊客も、同じ理由で眠れずに食堂へ集まっていたらしい。

「この様子だと、明日の観光は無理そうだね……」

「そうですね……ああ、そういえば」

 観光、という言葉を聞いて思い出した。頭の中で描いていた明日のスケジュールを。

「私、やっぱり明日には出発しようと思います。もう見れる場所は見終わっちゃった……し……?」

 その言葉が尻すぼみになっていったのは、周りの凍りついた空気を感じ取ったからだ。

 横目でディオス達の様子を窺っていた男達が、今度は「信じられない」とでも言いたそうな表情で固まっていた。中には顔から血の気が引いて蒼白になっている者も何人かいる。

「え……何? 私、何か言いました?」

 スピカに問うが、彼女も困惑した顔で首を(かし)げる。状況が把握できていないのはディオスとスピカの二人だけのようだった。

 宿泊客達は黙って遠巻きに見ているだけ。先に(しび)れを切らしたディオスが彼等に事情を問おうとした時――――口を開いたのは、同じく食堂で暇を潰していた宿のオーナーだった。

「雨の日はやめた方がいい」

「雨?」

 問題は『明日』という日ではなく、『雨』にあるとオーナーは言う。

「雨の日は森の方から魔物が来る。兵隊でも勝てねェ魔物だ。姉ちゃんもちょっとは腕が立つみてェだが、進んでちょっかい出す趣味がねェならやめときな」

「……なるほど」

 実を言うとディオスには『進んでちょっかいを出す趣味』があるのだが、周囲の視線を受けてそれは諦めた。笑い事にならない事態になる予感がした。

 ディオスの『世界の全てを見て回る』という目的を達成するためには多少魔物へちょっかいをかけることも必要になってくる。しかしそれは他人に迷惑をかけないことを前提にしているため、アヴェルスの人々に迷惑をかける可能性がある以上、そういった行為は(はばか)られた。

「悪ィが、明日は外出禁止だ。自殺願望がある奴も明日は絶対に外に出るんじゃねェ。それからカーテンを開けるのも禁止だ。奴は姿さえ見ちゃいけねェからな」

「まるで厄災ですね……」

 スピカが呟く。オーナーは頷いた。

「確かにな。雨が奴を連れてくるのか、奴が雨を連れてくるのか……それすらも分からねェ、自然災害だよ」

 オーナーは視線を外へ向ける。カーテンで仕切られていて見えない外へ。

 宿の外では相変わらず雨が降り続いている。

 その轟音の中には(くだん)の魔物の足音も混じっていたのだが――――ディオスの聴覚にすら拾われることなく、雨音の中に消えていった。


        *


 ディオスの予想以上に雨は降り続いた。次の日も、その次の日も……そして三日目、じっとしていられない(しょう)(ぶん)のディオスはもちろんのこと、他の宿泊客も音を上げ始めた。

「おいオヤジ、一体いつまでこんな所に缶詰め状態でいなきゃならねぇんだ!?」

 一人の客が怒鳴り始めたのは三日目の昼時、ロビーでのことだった。

 一日目は何の問題もなかった。ゆっくり体を休める者、物思いに(ふけ)る者、他の客と談笑する者……各々が穏やかな時を過ごしていた。

 二日目、弱まることを知らない雨に宿泊客達は不安を覚え始めた。しかしオーナーが「いつものことだ」と涼しい顔で言ったこと、そして「雨の間は金はいらねェよ」と宿泊費を無料にすることを約束したため、文句を言う者はいなくなった。

 ――――しかし、その約束はその場しのぎにしかならなかった。その次の日、つまり今日には再び不安に駆られ、その不安を怒鳴り散らして発散する者が現れ始めた。

「……部屋に戻るか」

 不穏な空気を感じ取ったカイトスがディオスとスピカを(うなが)す。それに従った方が面倒事は少なくて済む――――とディオスも分かってはいたが、嫌な予感に(あらが)えず、その場に残ることにした。

 今のような一触即発の空気は嫌いだった。しかしその空気から逃げてはいけないと――――ディオスはここにいなければならないと、そんな予感がした。

 根拠はない。ただ、十七年間磨き続けてきたディオスの勘がそう告げていただけだ。

「大体、雨の日だけ現れるモンスターだァ!? んなモン聞いたこともねぇ! ただの迷信じゃねぇのか!」

 (つば)を飛ばしながら詰め寄る男。オーナーは不快そうに眉間に(しわ)を寄せながら対応する。

「信じられねェかもしれねェが、迷信ではないな。つい先月も、この街の奴が例のモンスターに食い殺されてる。原型も残らねェほど無残にだ。そのモンスター――――ダゴンの姿も分からねェ現状じゃ、迷信だと思われても仕方ねェが」

 オーナー曰く『ダゴン』と名付けられているそのモンスターは、名前以外の一切が不明だと言う。直後の説明で理由は分かったが、姿形すら伝わってはいない。

「何年か前には一家で殺られたな。絶対に見るな、っていう親の言いつけを破った子供がカーテンを開けて、家ごと叩き潰されたそうだ。こういうわけで、ダゴンの姿を見た奴はもれなく死ぬ。関わらねェのが一番だ」

「……やっぱり、信用ならねぇな」

 オーナーが静かに説き伏せようとするが、男は耳を貸さなかった。言葉で抑え込める段階は昨日の時点で越えていた。

「お前、さっきから伝聞ばかりじゃねぇか! お前自身もそのモンスターを見たことがねぇんだろ!? 居るかも分からねぇモンスター一匹のためによくこれだけの人数を閉じ込められるぜ! なぁ!?」

 男は振り返って他の宿泊客に同意を求めた。ディオス達三人はもちろんそれに頷くことはしなかったが、他の者達は頷いたり、気まずそうに視線を逸らしたり……反応は様々だが、ほとんどの者が現状に不満を抱いているのは明らかだ。

 その中には雨の初日、「外へ出る」と言ったディオスに冷たい視線を向けた者もいる。聞こえるように「とんだ手の平返しですね」と悪態をついてみたが、それに対して言い返してくる者はいなかった。

 同意を得られたことに満足したのか、男は勝ち誇った顔でオーナーに向き直る。

「ほら、連中ももううんざりだってよ! どうせ俺等が死んでもお前には関係ないだろうが! 俺はこんなジメジメした(きゅう)(くつ)な小屋の中なんざもう御免だ!」

「――――おい、よせ!」

 多数の共感を得、気が大きくなった男が外へのドアへ向かって一直線に進む。オーナーが声を荒げて止めるが、カウンターの中からの制止には何の効果もなかった。

「やめろッ!」

 続いて大声を上げたのはカイトスだった。隣に立っているスピカが怯えて身を(すく)ませてしまうほどの怒号だったが、男は振り向くことさえなくドアノブに手をかけ、押し開く。


 ――――瞬間、()(とう)の如く(みず)飛沫(しぶき)が上がった。


 続いて木造の宿の柱が折れ、ロビーの半分が『潰れた』。

 一瞬だった、瞬きをする間もなく、まるでその空間だけ深海に放り込まれて水圧を受けたかのように……折りたたまれるようにして潰された。

 ドアを開けた男も、その周辺に立っていただけの客も、カウンターの中にいたオーナーもまとめて、全て。

 突然の出来事に、時が止まったかのように辺り一帯を静寂が包んだ。豪雨の音を忘れてしまうほど空気が凍り付いた。

 時が動き出したのは巨大なモンスターが姿を現したからだった。壊れた壁に細長い五本の指がかかり、続いてモンスターが――――ダゴンが、残った宿の中を(のぞ)き込むように頭部を見せる。

「――――うわぁああぁあああぁぁあああっ!!」

 悲鳴が爆発した。目の前で人が無残に殺されたことと、それを実行したのが巨大なモンスターだということに、やっと人々の理解が追い付いたからだ。

 ダゴンの外見は、短く言うと『()せこけたトカゲ』だった。体長こそ十メートル近い(きょ)()であるものの、骨に皮を張り付けただけだと言っても過言ではないほど手足は細く、骨格が浮き出ている。白目のない真っ黒な目玉は半分飛び出しており、半開きの口からは(ねば)り気のある(よだれ)(したた)り落ちていた。

 その()えた怪物は、獲物の群れを見つけて嬉しそうに口元を(ゆが)ませる。モンスターにも表情があるということを、ディオスはこの時初めて知った。……知っても何の得の無い情報だが。

 悲鳴は(おさ)まらない。(きょう)(こう)状態の人々は互いを押しのけながらダゴンとは反対方向に逃げようとする。

 しかし人間の足で逃げられるはずがない。再びダゴンが振り上げた長い腕は、重力を伴って人の群れを叩き潰す。

 ――――と、誰もが思っていたが。


「――――二度はやらせない!」


 雄々(おお)しく叫んだのは、ダゴンの腕に体当たりを仕掛けたディオスだった。

 助走をつけた上での突進――――それも鍛え上げられているディオスによる不意打ちは、ダゴンの攻撃を()らすには充分だった。

 狙いが外れ、振り下ろされた腕はテーブルを叩き潰す。木片が舞った。

 ダゴンの腕にしがみ付いたままディオスは叫ぶ。

「逃げて――――!」

 しかし言葉は途中で途切れる。ダゴンが再び腕を振れば、ただそれにしがみ付いていただけのディオスはあっけなく遠心力で吹き飛ばされた。

 宿の外、ぬかるんだ地面に背中から叩き付けられる。衝撃と痛みで息が()まった。

「ぐぁっ……!」

 目に、鼻に、口に、雨水と泥水が流れ込んでくる。その不快感を無視して飛び起きたディオスは、視界を確保するべく目元を(こす)って泥を払い除けた。

 ダゴンはディオスに背を向けている。視線を向けているのは、半壊した宿の中だ。そちらの方が()(もの)が多いのだから、当然か。

「この……ッ!」

 今なら逃げられる。しかし、一人逃げるわけにはいかない。あの中にはカイトスとスピカもいるのだから。

 銃も、刀も、部屋の中へ置いたままだ。武器もなしに怪物になど勝てるわけがないが、それでも立ち向かうしか選択肢はなかった。

 兵器の街『ヴァイナー』で十六年もの間、(たん)(れん)を積んできたのは何の為か。街を出てから一年が経つ今でも、声を大にして言える――――自分は、(きゅう)()にある全ての人々を助ける、ヒーローになるのだと。

「こっちを見ろ、このデカブツ――――ッ!」

 力一杯叫んでも、声は雨に吸い込まれて消える。

 雨粒がディオスを叩く。「もう諦めろ」とでも言わんばかりに。

 それでも、ディオスはダゴンに背を向けなかった。ばかりか、むしろ無理矢理にでもこちらへ振り向かせてやろう――――と覚悟を決め、もう一度突進の体勢を取った瞬間、


「くらいやがれェ――――ッ!!」


 カイトスの(ほう)(こう)と共に、ダゴンの足元から水飛沫が上がった。

 カイトスが得意とする、水属性の魔法だった。人一倍器用なカイトスは徒手空拳や剣術など戦闘に関する技術を幾つも持っていたが、中でも好んで使っている攻撃手段は、物心ついた時には既に身についていたという水を操る魔法だ。

 雨と共に現れたダゴンに水飛沫は通用しない。しかしカイトスが狙ったのは、水圧による木片の()(さん)だ。

 跳ね上がった木片がダゴンの顔に当たって(ひる)ませる。大したダメージではない――――が、カイトスの目的に気付いたディオスは、勢いよく地面を蹴った。

 ダゴンが顔を払っているその一瞬――――カイトスの手の平の上で、水滴が渦を巻く。次の瞬間に生み出された青い(くさり)が、ダゴンの左膝に絡みつく。

 タイミングを見計らって、ダゴンの右膝に弾丸となったディオスが激突した。それに合わせてカイトスが力強く鎖を引く。

 強制的に両膝から力を抜かれたダゴン。その巨体が急激に(かし)ぐ。

 ディオスは立ち止まらず、カイトス達へ向かって駆ける。背後でダゴンが倒れる音を聞きながら。

 再び三人が同じ場所に立つ。そして、同時に叫んだ。

「逃げるぞ!」「逃げよう!」「逃げましょう!」


        *


 その後、三人で一目散にその場から逃げ出した。ダゴンは追っては来なかったが――――どこに潜伏しているかも分からない。

 大雨の中、顔に張り付く髪の毛を払いながら走った。そして唯一の一般人であるスピカが息を切らし始めた時、


「おい、姉ちゃん達! こっちだ!」


 と、前方の小さな小屋の中からずぶ濡れの男が姿を現した。

 手招きをされ、ディオスは導かれるまま小屋の中へ飛び込む。隣を走っていたカイトスは一瞬だけ迷う素振りを見せたが、スピカの状態を見てこれ以上走り続けるのは無理だと判断したのだろう、一拍遅れてディオスに続いた。

 三人が飛び込み、招いた男が乱暴な音を立ててドアを閉める。それと同時に力が抜けたディオスとスピカは、服が汚れるのも構わず泥だらけの床にへたり込んだ。

「あんた等、生きてたんだな……良かった」

 ドアに背を預け、男が安心したように言った。

 同じ宿に泊まっていた客だ。名は確かスルガーという。自己紹介をしたので顔も名前も憶えていた。

 しかし、さほど親しかったわけではない。宿の中ですれ違えば挨拶をする程度の仲だった。

 ドアを開け、そこにもしダゴンがいたらどうなるのか、先程の事件の直後ならば充分に理解できるはずだ。わざわざ危険を冒してドアを開ける必要はない。

「オーナーの話じゃ、あいつに見つからなきゃいいんだよな? 雨が止むまで隠れてりゃいいんだろ?」

 疑われていることに気付かず喋り続けるスルガー。彼に対し、未だ気を張っているカイトスがその疑惑をぶつけた。

「何でドアを開けたんだ、あんた」

「は?」

「外走ってるのが俺達だったからまだ良かったが、もしあのバケモンだったら死んでたんだぞ。あんたは自殺志願者か? それとも何か企んでやがるのか?」

 乱暴な言葉遣いで、直球で聞き出そうとするカイトス。やっと疑われていると気付いたスルガーは、しかしそれに対して怒るわけでもなく、苦笑した。

「確かになぁ……しかしあんた等がいなかったら、俺はあそこで死んでたんだ。あんた等に助けられたってのにここで見捨てたりでもしたら、それこそ(ばち)が当たって次こそ死んじまうよ」

「この状況で罰が当たるなんて、笑えない冗談ですね……」

 息を整え、ディオスは呟く。

 あのモンスターは正に天災だ。交戦したディオスなら分かる。――――あれは、人が戦ってはならないものだ。

 ディオスとカイトスが同時に口にする。

「倒しましょう」「とっとと逃げるぞ」

 今回は全くの正反対の答えだった。一瞬小屋の中に沈黙が下り、直後には火が点いたようにディオスとカイトスの怒鳴り声が弾け飛ぶ。

「ハァ!? 何言ってるんですか、あんな怪物放っておく気ですか!?」

「テメェこそ自分が言ってること分かってんのか!? あんなモン相手にする意味ねぇだろ! 無視して早く別の街に避難するべきだ!」

「死人が何人も出てるんですよ! 今までだって街の人が何人も殺されてるのに、あの怪物を野放しにする気なんですか!?」

「それは確かに同情する! けどな、俺達は街の連中に「助けて」とも何とも言われてねぇんだよ! 報酬が貰えるわけでもねぇのに命懸()けて戦う必要がどこにある!? 余計なことに首突っ込んで死にたくねぇんだよ、俺は!」

 互いに相手の心情は理解できる。ディオスの中にはできれば逃げ出してしまいたい気持ちがあり、カイトスの中には街の住民を助けたいという気持ちがある。

 それでも二人は信念を曲げなかった。ディオスはヴァイナーの民の誇りを持って立ち向かい、カイトスは婚約者の身の安全を優先して逃亡を選択する。

 故に(ゆず)らない。互いに自分が間違っているとは口が裂けても言えないからだ。

 息荒く睨み合う。――――それに割って入ったのはスピカだった。

「カイトス、私に気を遣わないで。カイトスは街の人を助けたいんでしょ? 助けられるはずなのに見捨ててしまって後悔したくないでしょ?」

 問いかけではない、それは断言だった。

 スピカが口にした言葉は、カイトスの主張とは真逆だ。カイトスの「逃げる」という判断に対し、スピカは「助ける」という選択肢を提示する。

 もちろん、カイトスは否定しようとした。しかしカイトスに喋らせる前に、スピカは声を大きくして(まく)し立てた。

「私は怪我をするのは嫌。カイトスが怪我をするのも嫌。でも、後悔して苦しんでるカイトスを見るのはもっと嫌! 苦しむカイトスを見るぐらいなら、私は大怪我したって構わないの!」

「いや、それはお前――――」

「私の理想のカイトスは、私のことが大好きで、でも私以外の人を見捨てることもできない、そんな優しいカイトスだから! だから困ってる街の人を見捨てるなんて、冷たいこと言わないで! 戦おうって決断したディオスの想いを踏みにじるような、(はく)(じょう)な人間にならないで!」

 途中でカイトスが(さえぎ)ろうとしたが、スピカは耳を貸さずに言い切った。彼女がカイトスに対して語気強く?愛?を表現する姿を、ディオスはこれまでの五日間で初めて見た。

 スピカが言葉に出すことなく、カイトスを気遣っていることにはディオスも気付いていたが、今のように「理想」「優しい」といった、明確に好意を示す言葉が出たのは驚きだった。いつもはカイトスが一方的にスピカを口説いているばかりだったというのに。

 普段は冷たくあしらってくるスピカからの珍しい好意に、カイトスは複雑な表情で溜息をついた。

「そういうのはもっとこう、甘い空気の時に聞きたかったなぁ……こんな(さつ)(ばつ)とした時じゃなくてよぉ」

 その表情はスピカの説得を諦めていた。観念してディオスとの協力を考え始めたカイトスへ、スピカがトドメを刺す。

「そのぐらい、ダゴンを退治したらいくらでも言ってあげるから!」

「言ったな!? 俺だって魔物狩りで生計立ててんだ、あんなモンスター一匹ぐらい簡単にぶっ飛ばしてやる!」

 そしてとうとう、カイトスの口からはっきりとダゴンと戦うというセリフが飛び出した。

 カイトスの変わり身の早さに、ディオスは「ちょろい人だなぁ」と心の中で呟く。と同時に、飴とムチを見事に使い分けるスピカに対し、少しだけ恐れを感じた。


        *


 ダゴンを倒し、アヴェルスの人々を助ける――――と(たん)()を切ったディオスだったができることは限られていた。

 相棒である刀も銃も、潰された宿の中だ。後で拾いに行くとしても、大雨が降りしきる中では非常に難易度が高い。

 ただでさえ戦力が少ないというのに、ディオスが丸腰というのは致命的だ。スピカに戦闘能力は皆無。スルガーも同じだ。全員が観光客のため、街の地理にも弱く、ダゴンの生態も分かっていない。

 この状況で、まともに戦えるのはカイトス一人しかいないと思われた。

「やるって言ったんだからやるしかねぇだろ。いいからさっさと作戦立てるぞ」

 しかし、一番危険な立ち位置であるはずの当人が最も楽観的であった。

 カイトス曰く、さすがに怪我は免れない。しかし自分が過去に戦ったモンスターの中にはあれ以上に強大な敵もおり、それに比べたら大したことはない――――と言う。

「だったら何であんなに戦うのを嫌がってたんですか……」

「万が一ってことがあんだろ。ダゴンの実力と能力についてはある程度予想はできるが、最悪の事態を考えておくのも大事だ。俺にとっての最悪の事態は、スピカが死んじまうことだからな」

『スピカが死ぬ』という最悪を避けるために、カイトスは『ダゴンから逃げる』という選択肢を取ろうとした、と語った。結局はスピカの良いように誘導されて、多少の危険へ足を突っ込むことになったわけだが。

「……それで? 数々のモンスターと戦ってきたカイトスさんは、ダゴンの能力がどんなものだと予想してるんです?」

 皮肉を込めて尋ねるが、もはやカイトスはディオスと張り合うことすらやめていた。()(ごく)真剣な表情で、自らの推測を口にする。その予想を元に作戦を組み立てる。

 予想が混じっている以上、立てられた作戦は不安定で、いつ崩れてもおかしくはない。それでもいつ止むか分からない雨の中、この狭い小屋の中に(ろう)(じょう)し続けるわけにもいかない。

 雨で濡れた体は冷え始めている。

 体力が残っている今が、一番の勝負時だ。


        *


 そして、小屋の外――――ディオスは両手で農作業用のスコップを持って雨に打たれていた。

 今は街の端の倉庫の陰に立っている。陰から飛び出せば、そこにはダゴンがいる――――と、ディオスの隣に立つカイトスは言った。

 水の魔導師であるカイトスは、水たまりを踏んだ時に跳ね返る水飛沫すらをも感じ取り、敵の居場所を掴むことができる。

 宿が襲撃された際も、実は外にダゴンがいることには気が付いていたらしい。それを言うとパニックを起こす可能性があったため、ギリギリまでは黙っているつもりだったが――――あのドアを開けた男を殴ってでも止めておくべきだったと、カイトスは淡々と語っていた。

 ともかく、カイトスの感覚を信じ、ディオスは曲がり角の向こうにいるはずのダゴンへ戦いを挑む準備を整えた。

 手に持ったスコップは、先程逃げ込んだ小屋――――農具置き場だったらしい――――から持ち出したものだ。武器ではないが鈍器としては使える。常人には重いが、ディオスの腕力なら振り回すのも何のことはない。

 隣に立つカイトスに、無言で左手の拳を差し出す。それを見たカイトスも同じく左手で拳を作り、ディオスにそれに打ち付けた。

 戦いが始まる。――――その状況下で、ディオスは事前の打ち合わせ通り、そこで両の(まぶた)を強く閉じた。

 すぐ傍に感じていたカイトスの気配が動く。身を(ひるがえ)し、低い声で咆哮した。

「――――かかってきやがれ、トカゲ野郎!」

 次の瞬間にはディオスの足元を揺るがすほどの衝撃が伝わってきた。ダゴンが腕を振り下ろしたのだろうか、飛び散った水がディオスの顔にまで跳ね返ってくる。

 単身立ち向かうカイトスの雄叫び、()(まく)を震わせるダゴンの咆哮、大地を揺らす振動、大雨の中でも感じる水の応酬――――凄まじい戦闘が始まったのが、視覚以外の感覚が聴き取る。感じ取る。

 早く、早く目を開けてあの戦闘の中へ飛び込んでいきたい――――しかし、ディオスの固く目を閉じて立っているという行為も、作戦の一部。合図もなしに独断で動くことは許されない。

 焦りを覚えながらも、ディオスはスコップの柄を握り締めて耐えるしかなかった。


        *


「かかってきやがれ、トカゲ野郎!」

 叫んで飛び出した――――そしてダゴンの姿を視認した瞬間、ダゴンの手の平が降ってきた。

 先程宿にそうしたように、カイトスを叩き潰そうとしたのだろう。しかし攻撃パターンを読んでいたカイトスは本能的に()んで(かわ)す。地面を叩いた細長い指を、カイトスは自身の左手に現れた青色の刃――――水を(ぎょう)(しゅく)させて作り上げた刀で斬りつけた。

「うぉおおおおぉおッ!」

 咆哮を上げ、(こん)(しん)の力で――――しかし刃はダゴンに通じなかった。確かに刃を叩きつけた感覚はあるのだが、まるで岩。ダゴンの体に切り傷の一つも刻むことなく弾き返される。

 ダゴンが(うな)り声を上げ、カイトスを食らわんと頭から飛びかかる。それを横っ飛びで避けたカイトスはダゴンの眼球目掛けて突きを繰り出すが、切っ先はダゴンの目に突き刺さることはない。目の(ねん)(まく)(はば)まれるばかりだ。

 ダゴンが虫でも払うかのように頭を振る。反応が遅れたカイトスは、その小さな動作一つで簡単に薙ぎ払われ、地面に叩き付けられて止まった。

「くそがッ……!」

 悪態をついて跳ね起き、再びダゴンへ向かって突進する。その最中、カイトスは握り締めていた刀の形を崩し、降りしきる雨を吸収させて別の武器へと形状を変化させた。

 次に現れたのは、カイトスの背の高さほどもある巨大な大鎌だった。

「これでどうだぁあああッ!」

 大きく振り上げ、ダゴンの首を切り落とすべくその刃を叩き付ける。だがやはり、鎌はダゴンの鱗に阻まれてしまう。

 以降も続くダゴンからの反撃をかわし、カイトスは武器の形状を変え何度も飛び掛かる。しかし全ての攻撃が阻まれてしまい、それどころかダゴンの攻撃をカイトスは避けきれなくなってきた。

 刀も、大鎌も、槍も弓矢も効果がない。目にも頭にも心臓にも、針一本すら通らない。

 そしてカイトスが武器の形を鎖へと変化させ、ダゴンの左腕へ絡ませた。ダゴンが反射的に振り払おうとするが、カイトスは踏ん張る。ダゴンに振り解かれまいと、そして自らも決して放すまいと、鎖を握る拳に力を込める。


 ――――その、カイトスが鎖を出すタイミングが、合図だった。


「――――――ッ!」

 雄叫びを上げ、これまで物陰で待機していたディオスが飛び出した。叫び声は(やかま)しい雨の音に吸い込まれて消えていったが、ダゴンの耳には届いたのか、ディオスの方へ振り向いた。

 標的をディオスへと切り替えるダゴン。しかし視線を逸らした瞬間、カイトスはダゴンの足元の水溜まりからもう一本鎖を出現された。急速に伸び上がった鎖はカイトスの意のままにダゴンの首へと何重にも巻きつく。

 ダゴンが足掻くが、鎖は怪物を地面に叩き付けんばかりに綱を引く。

 そしてダゴンが力負けし、(かす)かに(こうべ)()らした時――――ディオスが縦に振り下ろしたスコップが、ダゴンの左の眼球を叩き割った。

「――――アァアアアアアァァアアアッ!!」

 初めて怪物の口から悲鳴が(ほとばし)った。縦に割られた眼球から黄色く粘り気のある体液が噴き出した。

 激痛を受けたダゴンが暴れ回る。カイトスとディオスが慌ててダゴンから離れた直後、ダゴンの首を縛っていた鎖が勢いよく引き千切れた。

 振り回される尾が民家の窓ガラスにぶち当たって叩き割る。ガラス片が砕け散る甲高い音が微かに豪雨の中に響く。

 暴れ続けるダゴンの姿には誰もが命の危険を感じ取るほどの迫力がある。しかしダゴンと真っ向から対峙しているカイトスとディオスに恐怖心はなかった。それはカイトスが小屋の中で語った?ダゴンの弱点?の予想が的中したためだった。


        *


「――――奴の弱味は、虚弱体質だ」

 作戦会議をしていた時、カイトスはそう言い切った。

 それを聞いてディオスは耳を疑った。ディオスだけではない。スピカも、スルガーも、揃って目を丸くしていた。

「いやいやいや、それは有り得ないですよ! 私が吹っ飛ばされたの見たでしょ!?」

 ダゴンの(きょう)(じん)さはあの攻撃を受けたディオスが最も理解しているつもりだ。自惚(うぬぼ)れでも何でもなく、ディオスは正しく、自分が強いことを知っている。その自分が丸腰だったとはいえ、成す術もなく一方的に負けているのだ。

「そのお前が吹っ飛ばされたところ見たから言ってんだよ」

 しかし、とカイトスは自らの見解を述べた。

「あのデカさの(ばけ)(もん)にフルパワーで投げ捨てられたら、全身バラバラになっててもおかしくねぇ。ところがお前はすぐに立ち上がって体当たりしていくぐらい、ダメージを受けてなかった。今はどうだ? どこか痛むか?」

「……別に、何も」

 言われてみれば痛みは残っていなかった。体は濡れて冷えており、走ったことによる疲労は感じるが、打撃によるダメージは一切ない。

「確かに……ダゴンが手加減してたとも思えないし……」

 近くで見ていたスピカも頷く。ディオスとスルガーも含めた三人が納得するのを見て、カイトスは言葉を続けた。

「オーナーが言ってたことに嘘がないとしたら、雨が降る間、この街の住人は一歩も家から出ようとしねぇはずだ。更に、この街は魔人はいてもその他のモンスターも動物もほとんど見かけない。ということは、ダゴンはかなり長い間、ろくな食事にありつけてねぇことになる。そんな状態で筋肉維持できると思うか?」

 何日も――――下手すれば何か月も、何も食べられない環境。もしかしたら植物ぐらいは口にしているかもしれないが、あの巨体を持っていて、たかが野草を口にするだけで体力を維持できるとは思えない。

「考えるだけでお腹が空いてきた……」

 思い出せば、今朝起きてから何も口にしていない。雨雲の下にある今のアヴェルスは昼も夜も分からないほど暗いが、ディオスの腹時計によればそろそろ昼時のはずだ。

「そういうわけで、さすがに限度はあるが、俺等なら奴の攻撃にある程度耐えられるはずだ」

 俺等、と言って指したのは自分自身とディオスの二人。スピカとスルガーはもちろん頭数には入れられない。

「ただ、そう上手くいくとは思えない。ダゴンは俺と同じ、水属性のモンスターだ。ということは……」

「あんたの魔法じゃ、あいつに決定打を与えられない……」

「そうだ」

 呟くスルガーに、カイトスは頷いた。

「戦力は二人。そのうち一人はこの体たらくだ。奴とまともにやり合えるのはディオス、お前しかいない。それでも奴と戦うか?」

 その問いかけを受けて、ディオスはようやっと、カイトスがやたらとダゴンとの戦いを避けようとしていた理由を理解した。

 戦力の計算や作戦を立てることもせず、ただ勢いでダゴンと戦おうとしていたディオスと、カイトスは違った。カイトスは逃げながらも状況を分析して戦闘を避けようとしていたのだ。

 こちらが不利である理由を突き付けられ、ディオスは初めて怖気づいた。実質、一対一でダゴンと戦えと言われているようなものだ。

「……やってやりますよ。この街の人達を見捨てるなんて選択肢、最初(ハナ)っからありませんから!」

 しかし、恐怖は無理矢理忘れた。「モンスターに襲われて困っている人達を助けるヒーローになる」――――ヒーローは、モンスター一匹程度に恐れなど(いだ)いてはいけないのだから。

 怯えたことに気付かれないために、あえて力強く宣言した。そのディオスの様子に気付いていないのか、もしくは気付いていたのにあえて気付かないふりをしたのかは分からないが、カイトスは「よく言った」と歯を見せて笑う。

「お前がそう言ってくれるなら、充分勝算はある。もちろんお前一人で戦えなんざ言わねぇから安心しろ。――――それじゃあ、作戦会議だ」

 ディオスの不安を(かん)()させる一言を付け加え、カイトスは話を戻した。

 カイトスが立てた作戦は、作戦と言っていいのか分からないほどシンプルで、そして難易度が高かった。しかしそれと同時に、この戦力で展開するにはこれ以上はないというほど最適な作戦でもあった。


        *


「――――ディオス、もう一回だ!」

「はいッ!」

 カイトスの掛け声に応え、ディオスはスコップを握り直す。跳ね返ったダゴンの体液は、気持ち悪さを感じる前に雨で流されていった。

 三度、水溜りから鎖が生える。今度は最初から二本。片方はダゴンの右手を、もう片方は再びダゴンの首を絞め付けて地面へ叩きつけようとする。

 微かにダゴンの頭が下がり、それを叩き斬ろうとディオスが突進する――――が、暴れ続けるダゴンはいとも簡単に首の鎖を引き千切って脱出した。

 脱出したダゴンが四本の足で駆け出す。ディオスとカイトスの存在を無視して。

 予想外の苦戦のため、一時撤退すべきと判断したのだろう。片目を潰されて真っ直ぐ走れないダゴンは、右へ左へ、蛇行しながら走り抜けようとする。

「させるか! ――――ディオス!」

 ダゴンを見据えたまま振り返ることもなく、カイトスは声を張り上げてディオスを呼び寄せる。

 呼び寄せている間にも、カイトスの左手を覆うように水滴が集まって形を成す。そこに出現したのは、大人を三人まとめて握り潰せそうなほど大きな?ドラゴンの手?だった。半透明のため視認が難しいが、目を凝らすとうっすらと表面に鱗が見える。爪は鋭利で、それが攻防一体の魔法であることが分かった。

 ――――但し今回の用途は、攻撃でも防御でもない。

 差し出されたその大きな手の平へディオスが飛び乗る。――――次の瞬間にはもう、ディオスは浮遊感を味わっていた。カイトスが力の限り投げ飛ばしたのだ。

 宙に浮く感覚――――そして弧を描いて、雨粒と共に落ちていく。

「――――ッ!」

 悲鳴は噛み殺した。もし一つでも声を出せば、眼下を走るダゴンに気付かれる。避けられてしまえば、ディオスは地面に叩き付けられて一瞬のうちに絶命するだろう。

 高度が下がる。落ちる。そして――――

「――――捕まえたァ!」

 狙いは多少ずれたが、何とかダゴンの背中へ着地した。雨で滑って落ちそうになったが、なんとかしがみ付いて持ち堪える。

 鱗に覆われた体は、ディオスが思っていたよりも弾力があった。てっきり岩のように硬いかと思っていたのだが、トカゲやヘビなど、?爬虫類?という分類に入る動物は総じて、見た目ほど鱗が硬いわけではないという――――これは、蛇の魔人であるカイトスから後々教えてもらった知識だ。

 背中へ降り立ったディオスに気付いたダゴンが暴れかける。走る勢いはそのまま、民家の壁にディオスを叩き付けようとする――――が、それは既に予想済み。

 ダゴンが壁に背中をぶつける直前、ダゴンの左側へ飛び降りて地面を転がる。ディオスが左目を潰したおかげで現在は死角になっているはずだ。

 事実、ダゴンは背中からディオスが消えたことには気付いているが、その姿は見つけられていない。

「これでもくらえぇえええッ!」

 右目に見つかる前に、ディオスは渾身の力でスコップをダゴンの左足の甲へ突き立てる。鉄の板がいとも簡単に鱗を砕き、その下の肉を抉って血を噴き出させる。

「アァアアアァアア!?」

 再び悲鳴が上がり、ダゴンが左手でディオスを払った。瞬間的なことで避けきれなかったディオスは、最初に対峙した時と同じように跳ね飛ばされ、今度は民家の壁に激突して止まる。

「ぐっ……!」

 (うめ)き声を上げ、起き上がろうとする――――その時視界に入ったのは、ディオスを叩き潰さんと右手を振り上げるダゴンの姿だった。

 ――――まずい!

 殺意に満ちているダゴンの右目。逃げなければ殺される。

 本能だけが走る。気持ちが焦る。しかし体が追い付かない。

 (なまり)のように重い体を、勢いをつかせて地面へ転がそうとする――――が、間に合わず、ダゴンが振り下ろした右手がディオスの左足に叩き付けられた。

「―――――――――――――――ッ!」

 肉の中で骨が折れる感触。激痛が走る。歯を食い縛って悲鳴を殺す。

 敵に弱味を見せるまいと、(とっ)()に強がってダゴンを睨み付けてみせた。

 獲物が弱っていると気付くと、狩る側は勢いづいて更なる猛攻に出る可能性がある。しかしこれだけ痛めつけても弱る気配がないと知れば、警戒して攻撃の手を下げることが多い。

 実際、ダゴンも警戒して下がった。ディオスの足から手を離し、大きく一歩飛び退いてディオスを観察している。

 ダゴンが離れ、ディオスは即座に飛び起きた。折れた足を庇いつつ右足のみで立ち上がる。

 もうダゴンと追いかけっこはできそうにない。そうなれば、ディオスができることは一つ――――もう逃がすことなく、この場で仕留めること。

 相手も片足を負傷している。走れないこともないだろうが、逃げ出すのは困難だろう。

 互いに睨み合う。弱まることのない雨が体中を叩く。

 やがて一つ、大粒の雨がディオスの瞳を濡らして、その不快さに顔を(しか)めた。――――瞬間、ダゴンが動いた。

「!」

 大地を揺らして真っ直ぐ突進してくる。それを再びダゴンの死角、左側へ飛び込んで(かわ)す。

 ダゴンが万全の状態ならばディオスは()き殺されていたのだろうが、今のダゴンはディオスと同じく片足がほとんど使えない状態。スピードが乗っておらず、躱すのは容易だった。

 地面を転がりながらもディオスはダゴンから目を離さない。そのおかげでダゴンの左足が目の前に来た時、足の甲に刺さったままだったスコップの柄を掴むことができた。

 右足で大地を踏み締め、スコップを引き抜く――――勢いはそのままに、振り上げられたスコップの先端がダゴンの脇腹の肉を抉り取る。手応えは大きい。

「アァアアアァァッ!?」

 悶絶するダゴン。さすがに痛みに耐えきれなくなったのか、その場に()()をついて崩れ落ちた。

 しかしディオスも(ただ)では済んでいなかった。ダゴンの突進を避けて地面に転がった時、そしてスコップを振り上げた時、折れた左足に体重がかかり、気を失いそうなほどの激痛の波が押し寄せてきている。少しでも気を抜けば気絶してしまいそうだ。

 今ならダゴンに(とど)めを刺せる。しかしダゴンへ一歩近付く、その一歩が重い。

 低く、唸り声を上げてダゴンが立ち上がる。半身を引き()りながらもディオスに迫る。ディオスも片足を(かば)いながら後退するが、ダゴンと同じく動きは(かん)(まん)。すぐに歩幅の大きいダゴンに追い詰められる。

 もう、ダゴンの手が届く距離。

 ダゴンが手を伸ばしてくる。ディオスを握り潰す気だ。

 スコップを振り回して抵抗するが、威力が伴っていない。踏ん張るための両足は、片足が()(はや)使い物にならず、両腕には力が入らない。

 今の弱っている状態のディオスでも、常人――――スルガーや、宿の戸を開けてダゴンに殺された男程度では太刀打ちできないほどの戦闘力を残していた。しかしダゴンのような巨大な怪物には蚊が刺す程度のダメージしか与えられない。

 宙を()いていたダゴンの手が、とうとうディオスの体を(わし)掴みにする。

 徐々に強まる圧力。

「が……あッ……!」

 もがく。しかし腕を振ることもできない。

 (あばら)(ぼね)が折れる。内臓が潰れる――――


「――――テメェこっち向きやがれェエエエェェエエッ!!」


 潰れようかというその時、カイトスの咆哮が響き渡った。

 それと共に手の力が弱まり、ディオスの体が水溜まりに落ちる。一度は地面に転がったディオスを、駆け寄ってきたカイトスが支えて起こした。

「おい、大丈夫か!?」

「最ッ高ですよ……誰かさんがもっと早く駆け付けてくれれば!」

 余裕を見せるためにあえて皮肉を口にした。その意図に気付いたカイトスは「よし、元気だな」と断言してダゴンへ視線を戻す。

 ディオスにとってはスローモーションに感じていた時間だが、実際はカイトスに投げられて合流するまで、僅か一分足らずの出来事。これでも充分間に合ってくれた方だ。

 カイトスの左手には先程までディオスが握っていたスコップがある。ダゴンに捕まって取り落としたそれをカイトスが拾い上げ、ダゴンの手に叩き付けたのだ。

「ディオス、これを……」

「それはカイトスさんが持ってて下さい」

 カイトスが返そうとしてきたスコップをディオスは押し返した。

 ()(びん)な動きを取れない今、スコップのような重い物を持ったところでただの(あし)(かせ)と同じだ。

 それに――――

「――――もう一つ、ありますから」


        *


「――――それで、ダゴンと戦う方法だが」

 ダゴンの弱点が虚弱体質だと仮定された時、カイトスはそう言って話を続けていた。

「まずは奴の力を()ぐ方向でいきたい。手でも足でも、どこでもいい、一箇所大怪我させてやれば出血で弱っていくはずだ」

「……それなら、目か後ろ足ですね。そうしたらまともに動くこともできなくなります」

 具体的に狙いを提示したディオスに、スルガーは「確かに」と頷き、カイトスは「流石」と感心する。

 種族が違ったとしても、弱点はどの生き物もほとんど変わらない。絶命させるなら頭か胴、機動力を落とすなら足か目だ。

「だから最初に機動力を落としたい。可能ならそのまま頭割るか心臓突き刺してブッ殺したいところだが、もしそれが上手くいかなかった時は持久戦に持ち込む。(すき)があればダメージを与えていくが、もしダゴンが暴れて近付けそうにないなら、疲れるのを待てばいい」

「……それまで、あんた等は耐えられるのか?」

「できる」

「できます」

 カイトスとディオスがほぼ同時に断言した。二人とも自分が、そして相方が長期戦に耐え得ると確信していた。

 どちらも戦闘に関してはエキスパートだ。たった一時間や二時間程度の戦闘に耐えきれぬようなら、少なくともディオスはヴァイナーの民であると胸を張れない――――そう考えていた。

 あのダゴンが、オーナーが言っていた通りの?天災?そのものであるならば、ディオスとカイトスは成す術もなく(じゅう)(りん)されるだろう。

 しかしカイトスの予想通り、ただのモンスターであるならば――――充分に勝機はある。


        *


 ――――敵が増えたことで、ダゴンの勢いも戻ろうとしていた。

「……作戦、成功してるのか失敗してるのかよく分からねぇな」

「どう見ても成功してる最中でしょ」

「片足引き摺りながら何言ってんだ馬鹿たれ」

 軽口を叩く余裕はある。――――少なくとも、カイトスには。

 ディオスの方は逆に限界が近かった。冗談でも絶えず口にしていなければ……一瞬でも気を抜くとあっという間に意識が闇の中に引っ張られそうになる。

 対するダゴンもほぼ本能で動いている有様だ。()(あい)(がしら)に笑みまで見せていた、あの余裕はもうどこにも見当たらない。

 残された右目が怒りに燃えている。牙のない口が大きく開かれて、

 雄叫びが上がった。

「――――オォオオオオォオオオォオッ!!」

 雨粒を弾き飛ばす咆哮。片手、片足を庇いながら突進してくる。

 スピードには乗れていない。ディオスが万全の状態ながら避けるのも容易だったはずだ。残念ながら、万全でない今は一人では避けられそうにないが――――

「掴まれるか!?」

 ――――幸い、助けてくれる即席の相棒がいる。

「はいッ!」と大きく返事をする。途端口の中に入ってきた雨を飲みながら、カイトスの肩を借りて立ち上がった。

 ダゴンが激突する直前、ディオスの片足とカイトスの両足がほぼ同時に地面を蹴る。間一髪、すぐ横を駆け抜けた暴風がディオスの髪を掻き乱す。

 ダゴンに余裕があったのなら、避けられたことにも危機感は覚えず、更に鋭い爪なり長い尾なりを使って追撃を仕掛けてきただろう。実際、ディオスが片目を潰す前、カイトスと一対一で対峙していた時はそのようにしていた。

 しかし今のダゴンには一寸たりとも余裕がない。このままでは殺される、その焦りが(かえ)ってダゴンの動きを制限している。

 小さい生物を殺すために、最も確実な方法――――『全体重を使って踏み潰す』以外の選択肢を奪っていた。

 ダゴンの突進が止まった瞬間、カイトスはディオスの腕を自分の肩から外した。ディオスもそれに従い、大人しく地面に膝をつく。

 そしてスコップを振り上げ、

「おぉおおおらぁああああぁああアアアアアアッ!」

 声が裏返るほど全力で雄叫びを上げ、ダゴンの尾にスコップを振り下ろす。さすがに切断とまではいかないが、鱗を叩き割り肉を引き裂き、体液と血が混じった液体が噴き出して雨の中を流れていく。

 そしてダゴンが暴れるのも予想済み。大きく振られた尾をスコップでいなし、一歩後退。更にディオスの体をいとも簡単に右肩に担いでダゴンから距離を取る。

「……このまま、何とか止めは刺せそうだが……」

 再びディオスを下ろしながら呟く。その呟きをディオスは(いさ)めた。

「油断は禁物……自分の腕には自信がありますけど、豚に真珠を与えたら木から落ちるって言いますからね」

「全然違う意味の言葉混ぜんな! 豚に真珠と猿も木から落ちるで滅茶苦茶じゃねーか!」

 意外に教養の高いカイトスがわざわざそれぞれの言葉の意味を解説し始めたが、ディオスとしてはそれどころではなかった。何せ、暴れるのをやめたダゴンがこちらを振り向いたのだから。

「カイトスさん……!」

「あー分かってるよクソが!」

 気付け、と言わんばかりにダゴンを指差したが、カイトスも話しつつ気は張っていたようだ。ダゴンの方を振り返る前にディオスに一つ()(くば)せした。

「……初めから長期戦のつもりだったが、こっちも(しょう)(もう)が激しい。そろそろ決めるぞ。いけるな?」

「任せて下さい……!」

 声を絞り出して頷いた。その必死の回答を聞いたカイトスもディオスへ頷き返し、両手でスコップを持って立ち上がる。ディオスの方も、スコップではないもう一つを握って備えた。

 ダゴンはこちらの出方を(うかが)っている――――この隙を、逃す手はない。

「――――そろそろ()(まい)だ! 覚悟しろデカブツ!」

 カイトスが駆け出す。それを頭から丸呑みにしようとダゴンが大きく口を開けるが、カイトスが振り回すスコップに恐れを()して首を引いた。あれに目玉を片方割られているのだ。

 続いて無事な右手でカイトスを叩き潰そうとする。普通なら躱すのが最善――――だがカイトスは、逃げなかった。

 スコップの刃を天に向け、そのまま頭上へ突き上げる。その先端が振り下ろされたダゴンの手の平へ突き刺さり、甲まで貫通した。

「ギャァアアアァアアアアア!?」

 再び上がる悲鳴。ダゴンが反射的に手の平を引き、スコップが持って行かれる。これでカイトスの武器はなくなってしまった。

 これで片目、片足、両手、尻尾――――随分と敵の手札を削り取った。

 もはやダゴンは地面を転がり回って(もだ)え苦しむのみ。このまま放っておけば、この大雨の中、大量出血で死に至ることだろう。

 しかし――――「油断は禁物」である。

 カイトスがディオスの方を振り向いたのが視界の隅に見えた。既にディオスは視線をダゴンに固定していたため、そちらに意識を向けるつもりはなかったが。

 左手に握り込んだもう一つで、ダゴンに(ねら)いを定める。

 狙いは――――頭部。眉間に一撃入れれば――――


「――――これで、終わりだ」


 銃声が雨を切り裂いた。


        *


「ディオス、これも持っていけ」

 ダゴンへの対抗策を講じ、いざ戦場へ赴かんとしたところで、カイトスはディオスを呼び止めた。

 片手でくるくると農具(スコップ)を回して具合を確かめていたディオスに、カイトスが正真正銘の武器を手渡してくる――――それは、鈍い銀色の光を放つ拳銃だった。

「え、でも……」

 それを受け取ってしまえばカイトスの武器がなくなる。そう思って断ろうとしたが、カイトスは「いいから」とディオスに無理矢理押し付けたり

「いいから使え。二発しか弾入ってねぇから、俺よりもお前が持ってた方が役に立つ」

「……銃、苦手なんですか?」

「ああ。『ディスペル』対策で一応持ってはいるが、慣れてねぇ。俺なら二発外すが、お前なら二発当てられる」

「でぃすぺる……?」

「魔法を無効化する魔法だね。カイトスの銃は魔法銃じゃない、ただの拳銃だから、無効化魔法(ディスペル)には相性がいいんだよ」

 スピカの解説を挟み、カイトスは「今回は必要ない」と言い切った。

「まさかダゴンがディスペル使いだとは思えねぇしな。効くかどうかはともかくとして、俺の魔法が無効化されることはねぇだろ。万が一ディスペルかましてきやがったら、その時はそっちのスコップの方貸せ。そっちの方が動きやすい」

 そこまで言われたところで、やっとディオスはカイトスの銃を受け取った。不安が全て消えたわけではないが、意外と頭の良いカイトスの言うことを信じようと思ったのだ。

「二人とも、気を付けてね」

 小屋のドアを開けたところでスピカが二人に声をかけてきた。ディオスは「任せて下さい!」と拳を作り、カイトスは対象的に神妙な面持ちで「ああ」と頷く。

「お前も、ここから動くなよ。絶対にこっちには寄せ付けねぇから」

「うん、信じてる。だからちゃんと、自分の足で歩いて迎えに来てね」

「ああ、約束する」

 目を合わせて誓い合う二人。

 しかしそれもほんの数秒のこと。一瞬の別れを惜しむように、カイトスがスピカから視線を外し、向けた先はスルガーだった。

「スピカのこと、頼んだぞ」

「おう、頼まれたぜ」

「それから――――」

 平常でさえ低音のカイトスの声が、より一層低くなる。よほど深刻なことを言うのだろうと、ディオスは身を固くした。

「――――俺の嫁に指一本でも触れたら殺す」

「全然深刻じゃなかった!!」

 ディオスの叫び声は、雨降り注ぐ轟音の中でも掻き消されることなく大きく響いた。


        *


 ――――そしてダゴンを倒してから三日。大地はまだぬかるんでいるが、街は平穏を取り戻しつつあった。

 最初の二日は「凶悪とはいえ、神を殺して只で済むのだろうか」と不安がる人間も多かった。しかし人間の記憶力とは儚いもので、たったの二日、街中で何も事件が起きなかっただけで、人々は早くも普段の生活に戻っていた。

 ――――もっとも、今後も何も起こらないはずだと信じているのは、街の住民だけではなかったが。


「あんな(たん)()切っておいて倒れるなんて情けない!」


 アヴェルスの領主の館――――その一室で呆れた声を上げたのは、他でもないディオスだった。

 街で唯一の宿屋が崩壊した後、事もあらましを知ったアヴェルス領主が、自分の屋敷の部屋を貸し出したのだ。そのためディオスだけではなく、ダゴンから運良く逃げ()びた宿泊客達がこの屋敷に集まっている。スルガーも何処(どこ)かの部屋にいるはずだ。

 そして彼等の中でもディオスとカイトスは特別待遇を受けている。他の旅人達が相部屋を余儀なくされている中、カイトスはスピカと二人部屋、そしてディオスは何と一人部屋だ。しかも片足が見事に折れているディオスや、訳あって現在は戦闘不能になっているカイトスのために、部屋の外には交代で警備員が立ってくれている。至れり尽くせりだ。

 ――――というのはディオスの勘違いであり、個々で部屋が与えられているのは身内で悪巧みをさせないため。廊下の警備員は妙な行動を起こさせないための見張り――――つまり、監視役だ。

 ダゴンという名の疫病神が退治されたことは喜ばしい。しかしそれはそれとして、たった二人で神を倒してみせたディオスとカイトスを危険視する意見も多い。そのためしばらくは二人を監視し、もしも(ダゴン)を倒したことによる(たた)りが起きればその責任をディオス達に押し付ける――――そういった都合で、ディオス、カイトス、そして同伴者であるスピカも巻き込まれる形で隔離されているのだが――――

「熱出して寝込むってどういうことですか!」

 ダゴンを倒した日の夜、カイトスは高熱のため起き上がることもままならなくなったのだ。

 心当たりは多々ある。長時間雨に打たれて体が冷え切っていたことダゴンと戦って()(へい)したこと、それによる心労。

 ――――しかし、それ等の条件はディオスとて同じこと。むしろディオスの方が瀕死に近い状態であったのだから、ほぼ無傷であったカイトスの方が倒れる方がおかしい……と主張するディオスに対してカイトスは、

「馬鹿は風邪引かない……」

「うるさい!!」

「ディオスもうるさい」

「ごめんなさい!!」

 スピカからも冷たくあしらわれ、納得がいかないながらもディオスは口を噤んだ。一瞬だったが。

「……まぁ、そういうのはどうでもいいとして、あのダゴンって結局何だったんだろうね?

 この二日、カイトスの看病以外の時間は退屈そうにしていたスピカが呟いた。

 カイトスの予想を()()みにしていたディオスは、ダゴンは神などではなくモンスターであると信じ切っていた。――――が、いまいち確信できる要素がない。そうやって頭を使うことが苦手なディオスですら悩む理由が?雨?だった。

 三日三晩降り続いた雨。その雨が、ダゴンが死んだ瞬間に止んだことだ。ディオスはダゴンが撃たれて倒れ伏したところで気絶してしまったので知らなかったが、あれほど重々しく広がっていた雨雲が、あっという間に霧散していったという。

 ダゴンと共に雨がやってくるのか。雨と共にダゴンがやってくるのか――――おそらく前者なのだろうが、だとすれば「ダゴンがモンスターである」とは断言できない。ただの一匹のモンスターに雨を降らせる能力があるとは思えない。

「モンスター博士としてはどう思います?」

 カイトスにも話を振ってみたが、熱に(うな)されるばかりで答えは返ってこない。結局、予測すら立てることはできなかった。


 ――――と、当分は動けないと思われていたのだが。


        *


「――――逃げたぁ!?」

 カイトスとスピカが行方を眩ませた――――と聞いたのは、何と次の日の朝だった。

 宿のものとは比べ物にならないほどふかふかのベッドで快眠の沼に(うず)もれていたというのに、日が出る頃に監視役によって叩き起こされた。それでもまだ寝ぼけていたため記憶はおぼろげだが、ディオスよりも年下の?兵隊員見習い?の少年が何やら怒鳴っていたのはぼんやりと憶えている。

 少年の先輩らしき人物が見かけて止めに入ったところで、やっとディオスの意識が覚醒し始めた。そのタイミングでディオスに差し出されたのは、カイトスからの一通の手紙。

『後は任せた     カイトス』

「……あのー、これどういうこと……」

 理解が追い付かず、回らない舌を使って問う。ディオスはそこで初めて、自分が警備してもらっていたのではなく監視されていたのだと知った。

 自分達が監視されていたこと。そのことにカイトスとスピカは気付いていたこと。昨晩窓から外へ出て逃げ出したこと。――――そしてディオスに後始末を押し付けていったこと。

 全て先輩監視員から説明された。ディオスのあまりの鈍感さに呆れている様子を匂わせつつ。

「……というわけで、色々大変だろうけど頑張れよ」

 最後に労いを込めて肩を叩かれた。――――が、もちろんそれしきのことで面倒事を押し付けられたディオスの怒りは治まらない。

「……あの蛇男……」

 口の中だけで呟いたはずの(じゅ)()は、思ったよりも低く部屋の中に響いた。少年が「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、先輩監視員が「……おぉ」と冷や汗を掻くくらいに。

「次に会ったら、スコップで脳天かち割ってやる……!」

 ――――それからしばらく、ディオスは片時ともスコップを傍から離さなかった。


        *


 ディオスが領主の屋敷で毒づいている頃、逃げ出したカイトスとスピカは()()についていた。

 夜中に屋敷から抜け出し、夜が明けてしばらく。森に入る手前で運良く行商人の馬車に出会い、一番近い街まで乗せて行ってもらえることとなった。

 荷台にはカイトスとスピカの他に馬車の所有者である行商人が乗っているが、カイトスの体調を気にしているのか、必要以上には話しかけてこない。「毛布をどうぞ」「水は飲めますか」と気遣ってくれるだけだ。


「――――悪いことしちゃったね」


 その荷馬車の中でスピカが呟く。

 何が、誰に、とは言わない。言われなくても分かっていた。

「いいんだよ、押し付けて。社会勉強だ。あいつはもっと人を疑うことを知った方がいい」

 しかし、脱走を計画したカイトスは何も悪いとは思っていなかった。

 ディオスが悪いわけではない。ただカイトス達には決まった日までに故郷へ帰らねばならない事情があり、ディオスにはそれがなかった……いわゆる適材適所だ。状況が逆ならディオスとスピカを逃がしてカイトスが残っていたことだろう。

「……それ、暴論だよね」

「あいつも俺に散々暴言吐きやがったからお互い様だ。それに万が一のことがあったとしても、あいつなら力ずくで何とかするだろ」

 皮肉と言って、分けてもらった水を一口。馬車に魔法具でも積んでいるのだろうか、真夏だというのに氷のような冷たさを保っていた。

 ――――その時、御者が馬を走らせつつ馬車の窓を叩いた。行商人が窓を開けて御者と言葉を交わし、カイトス達へ通告する。

「雨が降ってきました。アヴェルスのモンスターが――――ダゴンが襲ってくるかもしれません。荒っぽいですが、スピードを上げて森を抜けます」

「ああ、それなら大丈夫です」

 スピカの言葉を聞いて()(げん)な顔をする行商人。まだダゴンが倒れた情報が行き渡っていないのだろう。スピカは倒れ伏しているカイトスを横目で見ながら言った。

「勇敢な旅人達が退治してくれましたから、もう心配しなくて大丈夫です」

 雨の中、モンスターが近付けばカイトスが気付いてくれる。何も忠告しないということは、危険性がないということだ。

?勇敢な旅人達?の片割れが、領主の屋敷から脱走し、今は風邪を引いて馬車の中で苦しんでいる――――そんなことに気付きようもない行商人と御者は、窓越しに顔を見合わせて首を傾げていた。

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