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深い眠りから覚めた後(6)

 次にロックが目を開いた時、まず見えたのは記憶にない天井だった。

 まだ目覚めたてで曖昧な意識が、ぼんやりと思う――ここはどこだろう。

 もっともその疑問を鮮明にするより早く、おいしそうなパンのいい匂いが漂ってきた。もしかしなくても、ここは。


「……あ、起きた?」

 まばたきを繰り返すロックに、聞き覚えのある声が降ってきた。

 顔を覗き込んできたのはニーシャだ。目が合うと、彼女は優しく微笑んだ。

「よかった、先にお医者を呼んどこうかって話してたんだよね。気分はどう? お水飲む?」

「え……?」

 彼女の問いの意味がわからず、ロックは声を上げようとした。だが喉が引きつったように痛んで、かすれた声しか出せなかった。

「ほら、お水。起きて飲める?」

 ニーシャは水差しから水を注いで、寝ているロックに差し出した。

 それでロックは身を起こし、自分が寝台の上に横たえられていたことに、その時初めて気づいた。少しぬるい水を飲み干せば、ニーシャもほっとした様子で後ろを振り返る。

「ジャスティア! ロックが起きたよ!」

 やはりここはジャスティアのパン屋なのだろうか。店には何度も訪れていたが、さすがに家の中に上がり込んだことはなかった。


 ロックたちがいるのは夫妻の寝室のようだ。

 ざらざらした石壁の部屋は簡素なものだったが、小さな花かごが飾られていたり、人形の家のような飾り棚が吊るされていたりと全体的に愛らしい。ロックが寝ている寝台もふたり用の大きなもので、色とりどりの端切れを縫いあわせた上掛けがかけられていた。

 それにしても、自分はどうしてここにいるのだろう。


 ロックがこの状況にはっきりとした疑問を持ち始めた時、あわただしく駆け込んでくる足音が聞こえた。

「ロック! 起きてて大丈夫なの!?」

 現れたのはジャスティアだ。エプロン姿なのは仕事中だからなのだろうが、ロックの姿を見るなり床にへたり込んでしまった。

「はあ……よかったよ、あんたにもしものことがあったらどうしようかと……」

 その気の抜けた様子を見て、ニーシャがきょとんとする。

「ジャスティア、『ロックが起きたらお説教してやるんだから!』って言ってたじゃない」

「そうは言ってもね、やっぱり顔見たら安心しちゃってね……」

「まあそうだよね。あたしも倒れてるとこ見た時はびっくりしたもん」

 ――倒れてた?

 ニーシャの言葉と、ふたりのただならぬやり取りにロックは眉をひそめた。

 考えてみればこんなところに寝かされているのもおかしいし、ずっと眠っていたように頭が重い。喉もずいぶん渇いているし、パンの匂いをかいだらお腹も空いてきた。窓の外では日が傾き始めているようで、蜜色の陽光が斜めに射し込んでいるのがまぶしい。

「僕は……どうしてここに?」

 ようやくまともに言葉が発せた。

 とたんにジャスティアが肩を落とす。

「あんたは店の外に倒れてたんだよ」

「倒れてた?」

「そうだよ、あたしが見つけたの」

 ニーシャがさっと手を挙げた。

「仕事行こうと歩いてたら、パン屋の前に人が倒れてるんだもん。で、顔見たらロックじゃない。あわててジャスティアたち呼んで、ここまで運び込んだってわけ」

「そうだったのか……ありがとう」

 正直、ちっとも覚えがない。

 釈然としないながらも頭を下げたロックに、ジャスティアが手鏡を差し出す。

「ほら、顔見なさいよ。頬のところ擦りむいてる」

 言われたとおりに鏡を覗くと、たしかに頬にうっすら傷がついていた。

 それに左肩もずきずき痛んでいる。倒れたというのが事実なら、その時に打ったのかもしれない。

「この様子だとそれほど心配なさそうだね、意外と顔色もいいし」

 ニーシャは安堵の笑みを浮かべて手を振った。

「じゃ、あたしは店に出なきゃいけないから。ちゃんと休みなよ、ロック」

「ああ、うん。世話をかけたね、ニーシャ」

「気にしないで。けど仕事が忙しくって倒れたっていうんなら、少しはクリスターにも回してよ。脚悪くしてからあんまりお客取れてないんだ」

 そう言い残し、ニーシャは寝室を出ていく。

 それを見送ってから、ジャスティアは深々と息をついた。

「本当にねえ……最近忙しかったの? 無理するんじゃないよ」

「それほどでもないけど……」

 忙しくないわけではない。仕立てはいくつか抱えていたし、昨日もアレクタス夫妻の招きで貴族特区まで出かけていったばかりだ。無理がたたったと言えばそうなのかもしれない。

 だが、倒れるほど疲れていた自覚がロックにはない。

「フィービから聞いたよ、この間も家に帰らず夜通し仕事してたらしいじゃない」

「あ……まあね」

 店で寝落ちてしまって、明け方店へやってきたフィービに叱られたことは記憶に新しい。

 ついに倒れたことを知られたらもっと叱られるだろうか。その可能性に気づいたロックが身を固くすれば、ジャスティアはようやく少し笑った。

「今、カルガスがフィービを呼びに行ってるよ。ちょっとは叱られて、反省なさい」

 それから彼女も寝室を離れ、ロックはひとりきりになる。


 ニーシャとジャスティアの話を聞く限り、ロックは本当に倒れていたようだ。

 しかし、覚えがない。頬の擦り傷や肩の痛みは自覚しているが、倒れてしまうほど体調が悪かったとはどうしても思えなかった。

 たしかに昨日は遠出をしたし、そのせいで多少疲れてもいた。だが無理を押して店に出たというほどでもなかったし、むしろ朝はすっきり目覚めていたはずだ。

 釈然としないまま、記憶をたぐり寄せてみる。朝食はちゃんと取り、街の見回りをするというフィービに挨拶をして家を出た。まだひと気のない市場通りを歩き、店の前までたどり着いたことは覚えている。

 それから――。


 がたっと、大きな物音がした。

 考えるのをやめたロックが振り向けば、寝室の戸口にフィービが立っていた。自慢の栗色の髪は風で乱れ、紅を引いた唇からは珍しく乱れた呼吸が漏れている。その表情は硬く、戦場にいる時のように張りつめていて、さしものロックも寝台の上で縮こまる。

「あ……あの、ごめんなさい――」

 だが謝罪の言葉が終わるより早く、駆け寄ってきたフィービは無言でロックを抱き締めた。

 ドレスの下に隠れた、鍛え上げた腕がロックの身体をつぶさんばかりに力を込めてくる。息苦しさに何か言おうと思ったロックだったが、フィービが震えていることに気づいて、口をつぐんだ。

 心配をかけてしまった。

 今はお互い、唯一の家族だ。ロックにもしものことがあれば、フィービはひとりぼっちになってしまうかもしれない。今さらのように罪悪感を覚え、ロックは改めて詫びた。

「ごめんなさい……」

 するとようやく腕の力がゆるみ、フィービが顔を覗き込んでくる。

 自分とよく似た青い目がかすかに潤んで、ロックを見ていた。

「無事ならいい」

 フィービはそう言って、大きく息をつく。

「倒れたって聞かされた時は、胸がつぶれるかと思ったけど……思ったより元気そうじゃない。ほっとしたわ」

「うん」

 ロックはうなづいた。

 喉の渇きや空腹はさておき、具合はさほど悪くない。今すぐ起き上がっても家まで歩いて帰れそうなほどだ。

「僕も倒れたって聞いてびっくりしたよ、そんな自覚なかったし」

 正直に打ち明ければ、さすがにフィービも眉根を寄せた。

「他人事みたいな言い方ね」

「だけど本当にそうなんだ、いつ倒れたのかも記憶にない」

「そういうもんでしょう」

 フィービがロックに指を突きつけて咎める。

「疲れなんてのは知らず知らず溜まっていくものなのよ。特にあんたなんてこの間も店に泊まり込んでたし、自分でも気づかないところで無理してたんじゃないの? 気をつけないとだめよ」

「はあい……」

 正論をぶつけられ、ロックは返す言葉もない。

 だが心の片隅では納得いかない思いもあった。フィービに対してではない。自分自身の――いうなれば記憶に対してだ。

 倒れた時のことは仕方ないにしても、その直前の記憶までないのは不思議だ。それに今はどう見ても午後、店に立ち寄ったのは朝のはずで、自分はその間ずっと寝入っていたのだろうか。そんなに眠たかった覚えもないのに。

「カルガスやジャスティア、それにニーシャにも心配かけちゃったわね」

 ようやく人心地ついたか、フィービはいつもの妖艶な笑みを浮かべる。

「落ち着いたらふたりでお詫びに回るからね、ロック」

「うん、わかってる」

 納得いかなさがあったとしても、自分が倒れ、そしてみんなに心配をかけたことは事実だ。まずは寝室を貸してくれたジャスティアたちに謝らなくてはいけない。ニーシャに言われたとおり、クリスターに少し仕事を回してやるのもいいかもしれない。

 その次に気にすべきことは、

「フィービ、今日は店に行った?」

 ふと思い出して、ロックは尋ねた。

「いいえ。あたしはずっと街を見回ってたからね」

 フィービは首をすくめて答える。

「本当はお昼頃に顔出そうと思ってたんだけど、怪しい連中を見かけてね。ちょっと後をつけてたのよ。それがなけりゃ、あんたを見つけたのはあたしだったかもしれないわね」

「怪しい連中? 例の、柄の悪い奴ら?」

「まあ、身なりはそんな感じだったわね。薄汚れた旅装の男が六人ほどよ」

 目当ての相手ではなかったのか、フィービの答えはどこか素っ気なかった。

「でも変な連中だったわ。心ここにあらずって感じで、宙を見ながらふらふら歩いてるの。そのまま貧民街を出てくとこまで尾行したけど、あれは別の意味で危ない感じだったわね」

「ふうん……」

 揃いも揃って怪しい薬でもやっていたのだろうか。気にはなったが、出ていったというなら安心だろう。

 ひとまずは目の前の心配事を片づけなくては。

「実はさ、店の鍵を開けた記憶があるんだ」

 ロックは寝台から下りながらフィービに告げた。差し出された手を借りることもなくすんなりと床に下り立つ。特にふらつくということもなければ、気分もさして悪くない。

「だから店に戻って、泥棒が入ってないか確かめないと」


 ロックとフィービは、パン屋の夫婦に謝罪と感謝を告げた。

 ジャスティアは取り乱していたのも忘れたように『もう二度と心配させるんじゃないよ!』と笑っていたし、カルガスは『無理するな』と一言くれただけだった。ふたりには改めてお礼をしに来ると伝えた後、大急ぎで店へと向かった。

 実を言えばロックはひとりで行くつもりだったのだが――なぜかはわからないが、無性に嫌な予感がしたのだ。しかしフィービはついていくと言い張り譲らなかったので、結局ふたりで急行した。


 記憶のとおり、『フロリア衣料品店』のドアの鍵は開いていた。

 だが営業中の札を出していなかったからか、誰も入った形跡はないようだ。棚に並べた商品も金庫も幸いにして無事だった。

「泥棒がいなくてよかったわねえ」

 苦笑するフィービに、ロックも気まずい思いで店内を見回る。

「僕、本当にパン屋の前で倒れたのかな……」

「まだ言ってるの? カルガスもジャスティアも、ニーシャだって見てるんでしょう?」

「そうなんだけど……店の鍵を開けてから、意識もないのにパン屋まで歩けるかなって」

 ロックの店からパン屋まではそれなりの距離がある。市場通りを抜けてさらに歩く必要があるため、意識が混濁した状態でそこまでたどり着けるとは思えない。

「記憶なんて曖昧なものよ、覚えてないだけじゃない?」

「そうなのかなあ」

 フィービの言いたいこともわかるが、やはり腑に落ちない。

 ロックは首をかしげつつも店内を検めて回った。そして盗まれたものがないことにいちいち安堵しつつ、最後にカウンターの引き出しにしまっていた図案を取り出す。


 皇女殿下のために仕上げた、花嫁衣裳の図案も無事だった。

 これは以前、店に泊まり込んでフィービに叱られた、まさにその晩に仕上げたものだ。生地の色は薄い灰青、胸元から腰にかけては小さな宝石と金糸の刺繍で一面の星空を描く。スカートの上には白い無地の紗を幾重にも重ね、うっすらかかる雲のように見せる。

 そして長いドレスの裾、ここにはあえて紗がかからないようにして、金糸で刺繍を施す予定だ。刺繍の柄は帝都の城壁、そして皇女が今日まで暮らしているあの城に決めていた。

 だが――。


「あれ……?」

 ロックは小声でつぶやいた。

 その図案を仕上げた夜、そして迎えた朝のことは覚えている。

 だがどうしてその意匠にしたのか、それがさっぱり思い出せない。

 ドレスに星空を描くのも悪くはないが、花嫁衣裳としては少々暗く見えはしないだろうか。それ以上に裾の刺繍、自分はどうしてここに帝都の城壁や皇帝の居城を描こうと思ったのだろう。改めて見ると突飛な意匠に感じてしまうのだが。

「どうして僕、この意匠を描いたんだろう……」

 ぽかんとして図案を見つめるロックは、どうしてもその理由を思い出せずにいた。

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