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深い眠りから覚めた後(2)

 その日、ロックとフィービは早朝に起床していた。

 エベルと共に、アレクタス夫妻の家を訪ねる約束をしていたからだ。

 伯母夫妻の元へ足を運ぶのは誘拐騒ぎ以来のことで、ロックはもちろん緊張していたが、フィービの落ち着かなさはそれ以上だった。前夜のうちからそわそわした様子で靴を磨いたり、着ていく予定の一張羅の皴を気にしたりしていた。

「大昔にもひと悶着あった相手だからな」

 と、フィービはまるで言い訳のように語った。

「年月が経ったとはいえ、和やかにおしゃべりなんてできるかどうか……」

 しかしロックはそうぼやく父の表情が柔らかいことに気づいていたし、父と伯母夫妻が今さら諍いを起こすこともないと信じていた。むしろ、自分の知らない母の思い出を聞かせてもらえるまたとない機会になるのではないかと、期待すら寄せていたほどだ。


 ふたりが早めの朝食を囲んでいた時、ふと家のドアが遠慮がちに叩かれた。

 ようやく日が昇り始めた時分の来客に、ロックとフィービは顔を見合わせる。

「こんな早くに誰だろ?」

「こういうのはたいてい、よくない知らせだ」

 フィービがいつもの化粧をしていなかったのでロックが出ようとしたが、父はそれを制止した。そしてブーツに差したナイフの具合を確かめながら戸口へ近づく。

「どちらさま?」

 問いかけに対し、帰ってきたのは安堵まじりの女の声だった。

「朝早くにごめんね。あたしだよ、ジャスティアだ」

 それでフィービとロックはもう一度顔を見合わせ、眉根を寄せた。たしかにパン屋は早起きだろうが、それにしてもジャスティアがこんな時分に訪ねてくるのは珍しい。

 フィービがドアを開けると、外にはジャスティアの他にカルガスもいた。

「あら、ご夫婦おそろいで。どうかしたの?」

 化粧をしていないフィービがしなを作ると、パン屋の夫婦はお互いに困ったような顔をした。いつものように、口火を切るのはジャスティアだ。

「あんたに頼みがあって来たんだよ、フィービ」

「頼み? 何かしら」

「実は昨夜、うちの店に変な客が来てさ……」

 ジャスティアの店を訪れたのは屈強そうな男たちが四、五人で、伸びた髭に薄汚れた旅装の見慣れない顔ばかりだったという。パン屋のすぐ上には公衆浴場があるが、そちらには見向きもせず食堂の一角を陣取ったそうだ。

 食事を人数分頼みはしたが、食べ終えた後も数時間は店に居座ったとジャスティアは言う。

「単に疲れてて座ってたかったってんなら文句もないさ、商売にはよくないけどね。でもそいつらは明らかに違った。店の中から誰かを探していたんだよ」

 彼らが座ったのは入り口近くの席で、扉が開く度に振り返っては客の顔を確かめていたようだった。時々席を立っては外の通りを見に行く者もいて、誰かを待ち構えていたのは明白に見えた。

 一度だけ彼らが慌ただしくなった瞬間があったそうだ。その時たまたまニーシャが店の外を通りかかっていたそうで、後でジャスティアに教えてくれた。

『女の子を見かけたとたん様子がおかしくなってさ、その顔を確かめようとしてたよ。あたしよりずっと若い子。髪の色は赤だったかなあ』

 結局それは探していた相手ではなかったようで、男たちはまた店に戻ってきたそうだが。

「赤い髪……」

 フィービが低くつぶやいて、ロックの方を振り返る。

 ロックも嫌な予感を覚えたが、ジャスティアはそれを一笑に付した。

「いやだ、ロックは男の子じゃないの。たしかにひょろひょろしてるし見間違うかもしれないけど、ちゃんと見りゃわかるってもんだよ」

「そうだといいんだけど」

 冗談でもなくフィービが応じる。

 ちゃんと見られたらむしろ困るロックとしては、なんとも言えず黙り込むしかなかった。

 自分を探している連中でもいるのだろうか。今さら伯母夫妻ではないだろうし、他に思い当たる節は――。

「ただね、とにかく柄の悪い連中だったんだよ。あんまり長居するもんだから『せめて追加で注文してくれ』って頼んだら、皿を投げつけられてね」

「えっ、大丈夫だったのジャスティア!?」

 それにはロックも黙っていられず、思わず口を挟んだ。

 ジャスティアは少しだけうれしそうにしつつも、肩をすくめる。

「目元をかすめただけで当たりはしなかったよ」

 それでも危険な行為だ。そもそも金にもならない客を店においてやる義理はないし、あまつさえ暴力を振るってくるなど、もはや客とも呼べはしない。ロックは思いきり顔をしかめた。

「なんて奴らだ……」

「脅しだけで、当てるつもりはなかったんだろう」

 とは、今の今まで無言でいたカルガスの意見だ。

 妻の落ち着きぶりとは対照的に、夫は珍しく怒りの色を見せている。

「女ひとりの店だとでも思っていたのか、俺が出ていったら連中は舌打ちしながら去っていったよ。だがまた来ないとも限らない――いや、探し人が見つかるまではこの辺をうろつくはずだ。市場通りでもうろついているのを見たって話もあるし、きな臭い話だ」

「……で、あたしに頼みって?」

 話の本質が見えたようで、フィービが尋ねた。

 それにカルガスが低い声で答える。

「次に連中が来た時のために、しばらくうちの店や市場通りを見回るのを手伝ってほしい。俺を含めてすでに何人かは集めたが素人ばかりだし、帝都兵は当てにならないからな。それでもジャスティアに手を出された以上、黙ってはおけない」

「怪我もしてないんだけどね」

 ジャスティアは照れた様子だったが、カルガスはにこりともしない。

「この辺で一番腕が立つのはフィービ、あんただ。ぜひあんたにも力を貸してほしい」

 真剣な口調で頼み込んできたからか、フィービも即答した。

「構わないわよ、あたしたちにとっても他人事じゃなさそうだしね」

「いいのか? ありがたい」

「もちろんよ。ここ最近、この辺りがどうもざわついてると思ってたのよ」

 フィービの言ったことはロックも感じている。

 貧民街に見慣れぬ顔が増えた。ひそひそと密談する、いかにも後ろ暗そうな連中が路地裏にいるのを何度か見かけた。何をするかは明記されていない、ただ『危険、高給』という仕事の募集が増えているとも聞いた。

 それも皇女リウィアの結婚が決まってからの話だった。


 ふと、そこでロックは記憶に焼きついた皇女の顔を思い出す。

 彼女の髪色も木苺色――まさに赤だ。

 まさか、昨夜の連中が探しているというのは。


「……今日は店を開けない予定だから、あんたたちの店に行くわ」

 胸騒ぎを覚えるロックをよそに、フィービとカルガスたちの話はまとまりつつあったようだ。

「悪いな、休むってことは用事があったんだろう?」

「危ない目に遭ったあんたたちを放ってはおけないわよ」

 フィービが紅を引いていない唇で微笑めば、カルガスとジャスティアはそろって安堵の表情を浮かべる。そして何度もお礼を言った後、ふたりは寄り添いあいながら帰っていった。

 閉めたドアに錠をかけてから、フィービは溜息まじりに言った。

「悪いな、ロクシー。今日は閣下とふたりで行ってきてくれ」

 アレクタス夫妻からはフィービも招待されていたのだが、ジャスティアたちとは長い付き合いだ。助けを求められて無下にはできないとロックにもわかっている。

 正直に言えば、ロックだって彼女らが心配だった。あくどい連中は得てして根に持つ質だからだ。

「僕も残ろうか? 手伝うよ」

 黙っていられず聞き返せば、すかさず父には吹き出された。

「だめだ、危ないだろ」

「そりゃ僕は非力だけど……見回りくらいならできる!」

「お前は行って、アレクタス夫妻に俺の非礼を詫びてもらわないと困るんだ」

 そう言われてもどこか飲み込みきれないロックの肩を、フィービはそっと包むように抱いた。

 限りなく優しい声が耳元でささやく。

「頼む。俺の分まで、ベイルの思い出話をしてやってくれ」

 懇願するその言葉にロックは反論できず、うなづくしかなかった。

 それでもこれだけは言っておこうと思い、急いで言い添える。

「父さん、昨夜の連中が探しているのはユリアかもしれない」

「ああ」

 娘から身を離したフィービが、険しい横顔を見せた。

「俺もそう思う。だからこそ見回りが必要だ」

 それもロックに向き直った時には、柔らかい笑顔に変わった。

「お前の友達がまた来た時のために、厄介な連中は遠ざけておかないとな」

「……うん」

 ロックは再び、今度は大きくうなづいた。

 いつも『ひとりで平気だ』と語るユリアだが、それがどういう理屈によるものなのか、ロックは知らない。悪辣な連中が徒党を組めば彼女とて逃げられないかもしれないのだ。危険はないに越したことはない。

 ――また会いましょう。

 彼女も、そう言ってくれたのだから。


 結局、ロックはひとりで家を出て、マティウス家の迎えの馬車に乗った。

 車内にいたエベルにもひと通りの事情を話し、フィービが来られないことを打ち明ける。

「そういう事情であればやむを得まい」

 エベルはすんなり納得してくれたが、同時に眉をひそめて懸念を示した。

「しかし、ジャスティアが危ない目に遭ったというのは気がかりだ」

「ええ……昨夜はカルガスが追い払ったそうなんですけど」

「それですんなり引き下がる輩ならいいのだがな」

 彼にとってもジャスティアは見知らぬ相手ではなく、何度となくジャガイモパンを味わった店でもある。それだけに放っておけないのだろう。

「近頃、貧民街も見ない顔が増えました」

 ロックの言葉に、エベルも心当たりがある様子で目を伏せる。

「ああ、明らかに遠方から来た者が増えたな。皇女殿下のご結婚が決まって以来だ」

 貧民街の住人ではない彼にもわかるものらしい。

 もっともエベルは人狼閣下。耳だけではなく鼻も目もいいからこそ、かもしれない。

「帝都の中はどうなんです? やっぱり雰囲気が違いますか?」

 ロックは尋ねた。

 するとエベルは馬車の窓にかかる帳を引き開ける。

「そうだな。人々の浮つき具合もさることながら、帝都兵の数が増えている」

 それでロックの車窓から外を覗いてみた。馬車はちょうど商業地区を抜けようとしているところで、人でにぎわう栄えた通りはいつものことながら、街路の至るところで警邏する帝都兵の数は確かに平時より多く見て取れた。

「それだけ物騒になっているということでしょうか」

「残念ながらな。慶事の時に気がゆるむ者もいれば、それを狙う者もいる」

 エベルは言葉どおり、残念そうに嘆息する。

「そして、もっと大それたことを思いつく不逞の輩もいるかもしれない」

 赤い髪の婦人を探している連中のことも、ロックはきちんとエベルに話した。

 彼らの狙いがユリア――皇女である可能性についても。

「ユリアのこと、心配です」

 ロックが座席の上で膝を抱えると、エベルはかすかに苦笑する。

「そう話したところで、あの方なら『平気です』と言い張られるだけだろうな」

「僕も同意見です、エベル」

「では私も時間のある時に見回りをしようか。あの方のこともジャスティアのことも、それにあなたのことも心配だからな」

 彼が温かい眼差しを向けてくる。

 揺れる馬車の中でもその気づかいは読み取れて、思わずロックも微笑み返した。

「ありがとうございます。でも無理はしないでくださいね、僕はあなたも心配してます」

「もちろんだ、あなたを泣かせるような真似はしない」

 エベルが力強く誓ってくれる。

 彼の言葉を疑いようもなく信じられるようになったのはいつからだっただろう。もうずいぶんと前から、ロックはエベルの揺るぎなさに絶対的な信頼と頼もしさを覚えていた。そしてそのことを、とても心地よく思っている。

「信じてます」

 だからためらいもなく応じれば、エベルは金色の目を細めてからロックの頬に軽く口づけた。

「あっ……だめです、馬車の中ですよ!」

「馬車の中ならいいだろう、外じゃないのだし」

「恥ずかしいですから! もう……」

 もう一度とねだるように顔を寄せるエベルを軽くだけ押しやり、ロックは幸せな溜息をついた。


 やがて馬車は貴族特区に入り、一軒の邸宅の前で速度を落とす。

 車窓から覗いたのはロックにとって見覚えのない豪邸だ。以前来た時には人狼に抱えられ、かどわかされてのことだったから記憶がないのも仕方ない。

 ただ三階の、露台がある窓辺を見た時には胸がざわめいた。あの珊瑚色をした部屋はまだこの家に存在するのだろうか。あの部屋で過ごした日々のことは、今でもいい思い出とは言いがたい。

 だが屋敷の前庭に歩み出てきたアレクタス夫妻の姿を見た瞬間、ロックの胸をよぎったのは優しく、穏やかな感情だった。

 マティウス家の馬車を迎えるプラチドとラウレッタも、同じように穏やかに微笑んでいた。

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