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祝福された人々(5)

 夕食は緊張をはらみつつ、それでもつつがなく終了した。

 ロックが食後にリンゴを剥き始めた頃、ユリアは少しそわそわし始めた。何か言いたいことを切り出しかねているように視線をさまよわせている。

「どうかしたの、ユリア」

 見かねてロックが尋ねれば、おずおずと答えた。

「わたくし、そろそろ帰らなくては……その、つまり、『家』が遠いものですから」

 彼女の住まいは帝都の中心に位置するあの城のはずだった。遠いと言えば確かに遠い。徒歩なら今から貧民街を出ても、到着する頃には真夜中だろう。

「道わかる? 送ってかなくて大丈夫?」

 ロックのさらなる問いに、ユリアより早くフィービが答えた。

「途中まで送ってあげるべきだろうな。この辺は物騒だし、道も入り組んでる」

 無秩序に建つ掘立小屋のせいで、数日で地図が書き換わると評判の貧民街だ。父がそう言うのも無理はない。

「いえ、わたくしは……」

 ユリアは断ろうとしたようだったが、あたかもそれを制するようにエベルが席を立つ。

「では私もお暇しよう。こんな夜更けだ、同道する者は多い方がいい」

 そう切り出した彼に、ユリアは一瞬疎ましげな眼を向けた。

 だが退ける言葉は思い浮かばなかったようで、短く息をついてから言った。

「いいでしょう」

 口調には不満がありありとにじんでいたが、エベルは気にしたそぶりもなく帰り支度を始める。

 そんなふたりの様子をうかがいつつ、ロックは皮を剥いたリンゴを急いで口に押し込んだ。


「気をつけてな」

 フィービの警告を背に、ロック、エベル、ユリアの三人は外へ出た。

 貧民街でも大きな通りにはそこかしこに街灯がともっている。ひとつひとつに火を入れて回るのは楽な仕事でもなさそうだが、こうして毎晩照らされているおかげでいくらかは歩きやすい。

 ロックは帝都以外の街を知らない。生まれ育った農村は街と呼べるような規模ではなく、だから貧民街の環境が故郷よりも整って見えることすらある。明かりに照らされた街路や集合住宅、整備された下水道もあり、公衆浴場も飲食店も市場すら揃っている街並みは『貧民街』と呼ぶのが恐れ多く思えるほどだ。

 もっとも全ての街路が照らされているわけではなく、市警隊の仕事も壁の外ではおざなりだ。一本向こうの路地に目をやれば、しみ出すような薄闇の中にたむろする人影がある。それがただの酔漢や宿無しの場合も、獲物を持った追いはぎの場合もあるのが貧民街だ。

 やはり若い娘――それもただの娘ではない、皇女殿下がうろついていい場所ではないと思うのだが。

「歩きで、ちゃんと帰れるの?」

 並んで道を行きながら、ロックはユリアに尋ねた。

 暗に『どこかに迎えが来ているのではないか』と確かめたつもりだったが、ユリアは真面目にうなづいた。

「ええ。休み休み行きますから」

「でもけっこうな距離じゃない? あ、えっと、どこまでってわけでもないけど……」

 ロックがもごもごとごまかせば、少しだけ笑われた。

「距離はあるけど、平気です。わたくしはどこでも休めますので」

「そうなの? 道端に座り込んだりとか?」

「ええ」

 冗談のつもりで聞き返したのだが、またもあっさりとうなづかれてしまった。

 皇女様も道端にお座りになるというのだから、身分違いであっても人間の本質とは、そう大差ないものなのかもしれない。

 ロックはそんなふうに思いかけて、すぐに苦笑した。昔、父が似たような、ずいぶん不敬なことを言っていた気がする。

「エベルは、今夜はずいぶん無口ですね?」

 彼はふたりより一歩遅れて歩いていた。ロックが振り返ると、すかさず肩をすくめてくる。

「腹がくちくなったからか、少し眠いのかもしれないな」

 しかし口調も、辺りに目を配るそぶりも全く眠そうではない。

 それをどう思ったか、ユリアがつんと顎をそらした。

「でしたらマティウス伯は同道しなくてもよかったのですよ」

「おや、あなたは私がいるとご都合が悪いとおっしゃいますか?」

 すかさず切り返したエベルに、ためらいもなくユリアが首肯する。

「ええ。最後までついてこられては困ります」

 最後まで、というのは――推測するに、貴族特区までということだろうか。

 皇帝の居城は特区の中央にある。エベルとユリアが家路に着くなら、当然同じ道を行くことになるのだろうが、それは彼女にとって都合が悪いらしい。

「壁の入り口まで、あなたと同道するのはそこまでです。わたくしの身辺について余計な心配は無用です。いいですね、マティウス伯」

 言い聞かせるような、強い口調でユリアが言う。

「あなたがそうおっしゃるなら」

 エベルが呆れた様子で応じれば、彼女は声を潜めて念を押した。

「わたくしに従わなかったら、父上にあることないこと吹き込みますからね!」

「無論従いますとも」

 喧嘩を買う気はないとばかりに、エベルは唯々諾々と応じる。

 ユリアはエベルのことをずいぶんと警戒しているようだ。それは彼が多少なりとも皇女について知りえているからなのだろうが、暗い夜道を共に歩かせることすら拒むとは――かたくなな態度は何かを隠そうとしているようにも思える。

 それが何かは、ロックにもわからないのだが。

 城を抜け出し、こんな夜更けに貧民街を出入りする皇女に秘密がなかろうはずもない。そう結論づけて、ロックは自分を納得させた。


 三人は市場通りを抜け、貧民街から帝都に通じる門へと向かう。

 帝都の周りは堅牢な城壁にぐるりと囲まれている。城郭都市として作られたこの街が実際に他国との戦乱の舞台になったことはないらしく、帝国の歴史において帝都を揺るがしてきたのは常に内乱ばかりだった。今となってはこの壁も、貧民街のごろつきどもから帝都市民を守る役目しか果たしていない、とまで言われている。

 無秩序な貧民街の建物の奥に城壁が見えてきたところで、ユリアがふと足を止めた。

 高いその壁と、向こうに広がる夜空を見上げてぽつりとつぶやく。

「ここからでは、城は見えないのですね……」

 ロックもそちらを目で追い、それから答える。

「うん、遠すぎるからね。壁の中に入らないと」

 エベルにマティウス邸へ招かれた時、ロックは初めてこの壁をくぐった。そして遠くに霞む白亜の城を見て、フィービが呆れるほどはしゃいだものだった。マティウス邸からはもっと近くに城が見え、その美しさを目に焼きつけたのも記憶に新しい。

 だが貧民街からは、どうしても皇帝の城は見えないのだった。

「向こうの門をくぐって少し行けば、すぐ見えるようになるよ」

 ロックはそう告げたが、ユリアの返事はなかった。

 まるで聞こえていないかのようにぼんやり壁を見上げている。

 フードをかぶっているせいで、彼女の横顔には暗い影が落ちていた。唇を薄く開け、灰色の瞳を遠くに向けながら、彼女はしばらく黙った。黙ったまま、道の途中に立ち尽くしていた。

 ロックも、そしてエベルも、そんなユリアには声をかけられなかった。お互いに目を交わしたものの、どこか寂しそうなその姿にかける言葉が見当たらない。

 彼女は、もうじき帝都を離れてしまう。

「城が見えない、そのことがこんなにも切ないだなんて……」

 しばらくしてから、ユリアはそうつぶやいた。

 そして見守るしかなかったロックとエベルを振り返る。表情はやはり暗く、伏し目がちだ。

「知っているでしょう。わたくしは近く帝都を去らなくてはなりません」

「……ええ」

 ロックは慎重に顎を引く。

 当たり前だと思っていたその事実を、初めて寂しいと思う。

「行き先は、知らない土地です。ずっと遠くです。城どころか帝都の壁すら見えないような――見上げた空に同じ星があるかもわからぬような遠くです。生まれ育った帝都から離れたこともないわたくしが……」

 か細い吐息を震わせ、ユリアは肩を落とした。

「それがわたくしの務め。理解はしているのですが、今はまだこの切なさをどう呑み込めばよいのかがわからないのです」

 切々と告げられたのは、おそらく彼女の本音だろう。

 婚礼への不安や抵抗感よりも、嫁ぐ北方への印象よりも、帝都を離れることに胸を痛めている。

 彼女の心中に触れ、ロックもまた心がきしむのを感じた。仕立て屋として、悲しい花嫁の姿は見たくない。そして友人として――別れが避けがたいものなら、せめて帝都にいる間は彼女を笑顔にしたいと思う。

 だから、尋ねた。

「ユリア、また会える?」

 また、というより『まだ』と言った方が正しかったのかもしれない。

 ロックの問いはユリアにとっても意外なものだったようだ。虚を突かれた表情の後、わずかにだけ唇をほころばせた。

「ええ、機会を作ります。だからまた会いましょう、ロック」

「もちろん!」

 うなづくロックに今度はしっかりと微笑んだ後、ユリアはエベルに目を向ける。

 そして同じように笑いかけた。

「マティウス伯も。――ただし今夜はここでお別れです、決してついてきてはだめですからね」

「心得ております」

 エベルが答え、金色の瞳を細める。

 ユリアはそんな彼とロックを代わる代わる、しばし名残惜しそうに見つめた。それから黙って踵を返し、帝都に通じる門のある方向へと歩いていく。

 ロックたちがそれを見送ろうとすると、一度振り向いて言った。

「見送りも結構です」

 それでふたりはユリアに背を向け――彼女の足音が聞こえなくなるまで、そちらはけっして見なかった。


 十分すぎるほど待ってから視線を戻せば、当然ながらユリアの姿は消えていた。

「無事に帰れるんでしょうか、彼女」

 ロックが懸念を示すと、エベルは即座に言った。

「心配はいらない。彼女からは、たしかに不思議な力を感じた」

「え? わかるんですか?」

 思わず見上げた先、人狼閣下は険しい顔でユリアが消えた方角を睨みつけている。

「ああ、わかる。口に出さずとも皮膚で感じる。呪いを受けた者の気配がした――私やグイド、アレクタス卿と同じだ。彼女には、何かある」

 ユリアもかつて言っていた。

 自分とエベルは同じだと。

 そして呪いは、祝福でもあるのだと。

 彼女にもなんらかの力があり、もしかするとそれが彼女の身の安全を守っているのかもしれない。

「僕にもそれがわかればよかったんですけど」

 ロックは、少し寂しい気持ちでぼやいた。

 残念ながらロックには、エベルはもちろんグイドからもアレクタス卿からも、そしてユリアからも何かを感じるということはなかった。呪いとも祝福とも無縁だからだろう。

「僕にもわかれば……もう少し、あなたやユリア、あるいは他の人たちの気持ちに寄り添えるんじゃないかって思うことがあります」

 そう言ってから、配慮に欠けた発言のように思えて付け加える。

「あなたがたの苦しみを思えば、安易に望んじゃいけないことだってわかってるんですけど」

「その気持ちだけでうれしいよ、ロック」

 エベルは優しく微笑んだ。

 そしてロックの肩にそっと手を置く。

「あなたがいてくれるからこそ、私もくじけずにいられる。たとえこの呪いが生涯解けぬものであろうとも、あなたも共にいてくれれば恐れることなどない」

 もちろん、そのつもりだ。

 ロックが見上げてうなづけば、エベルが満ち足りた顔になる。

「今夜もあなたと共に過ごせたから幸せだ。まあ、予想外の増員もあったが」

 金色の瞳がちらりと壁を見やった。

「彼女については最後のわがままと思えば……このまま見守るべきなのだろうな」

「ええ」


 別れの時が近づきつつある。

 それはユリアとロックたちだけではなく、彼女の近しい人たちとの、そして思い出深い帝都との別れでもあった。

 寂しそうな彼女のために、ロックは何ができるだろう。

 無力な自分に、しかし友人として、そして花嫁衣裳を手がけんとする仕立て屋として――。


 夜空を区切るようにそびえたつ壁を見上げた時、ふとひらめいた。

「……これだ」

 声に出してつぶやくロックに、エベルが不思議そうにする。

「ロック、どうした?」

「思いついたんです、ドレスの意匠を!」

 ユリアに贈りたい、着てもらいたい花嫁衣裳。それが今、まるで天啓のように思い浮かんだのだ。

「エベル、ごめんなさい。今夜はこれで失礼します!」

 ロックは挨拶もそこそこに駆けだそうとする。

 思いついた意匠を早く図面にしたくて仕方がなかった。急がないと頭からこぼれて消えてしまいそうな気さえした。

「どこへ行くんだ?」

 エベルが呼び止めるから、ロックは駆け足の姿勢で応じる。

「店です! 今のうちに図案を描き留めておきたくて!」

「そ、そうか……」

「すみません。でも必ず、いいものをお見せしますから!」

 勢いに圧倒されているエベルに告げて、今度こそロックは走り出した。

 いくらか行ったところで、

「がんばれ、ロック!」

 彼の声援が背中に届き、ロックは思わず笑顔になる。

 そしてますます張り切って、店までの道を風のような速さで走った。


 閉店後のフロリア衣料品店は真っ暗だった。

 鍵を開けて中に転がり込んだロックは、息を切らせつつ明かりをつける。手が震えているせいで灯をともすまでにずいぶんかかったが、どうにか終えてカウンターに帳面を引っ張り出す。

 まだ何も描かれていないまっさらな紙を前に、一度静かに深呼吸をした。

 それから石筆を握り、頭に浮かんだ全てを描き残すべく、思うがままに線を引き始めた――。

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