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祝福された人々(1)

 フロリア衣料品店は小さな店だ。

 ロックが聞いた話では、元の家主は落ちぶれた画家だったらしい。何らかの理由で帝都から追い出された彼が工房として使っていたが、ある日何も言わずに姿を消したという。

 工房には描きかけの絵画が何枚も残されており、そこに描かれていた絵は炎噴き出す荒野に世にも恐ろしい悪魔が跋扈する地獄のようだった。当然買い手がつくこともなくひっそりと処分され、残された工房も市場通り近くという立地ながら長らく空き家だったが――ロックとフィービは悪魔も神も信じぬ性分、何のためらいもなくその工房を買い、仕立て屋に改装してしまった。

 店の奥の壁には工房の名残として絵の具や松精油の飛び散った痕が残っている。だが壁際に置いた姿見と布の間仕切りのおかげで目立つこともなく、その場所は更衣室として見事に変貌を遂げていた。

 店内も狭さを感じさせないよう、壁際にずらりと棚を取りつけそこに商品を収めている。店のカウンターは端が折りたためるようになっていて、客がいない時にはそのまま作業台として使用する。創意工夫を凝らせば元が狭くてもどうにかなるもので、ロックはこの小さな店をいたく気に入っていた。


 しかし、大きな店に憧れる気持ちだってなくはない。

「フォーティス服飾店は本当に大きな店だったよ」

 カウンター内に座るロックは、縫いものをしながら興奮気味に語る。

「店内はすごく広かったし、品物もたくさんあった。あれが商業地区のお店なんだってつくづく実感させられたよ」

「そりゃ流行の店ですもの」

 店内を掃除中のフィービが肩をすくめても、構わずロックは話し続けた。

「でも流行の店になるにはそれだけの資本が必要なんだと思うな。広い店、豊富な品数、着飾ってにこにこしてる店員さん――」

「あら、あたしに何か不満でも?」

 そこでフィービは拗ねたように口を挟んだ。

 ロックは思わず笑ってしまう。

「ちっとも。フィービはうちの最高の店員だよ、僕の仕立てたドレスも着こなしてくれるしね」

 最も効果的な服の宣伝方法とは実際に人に着てもらうことだ。人目を引く者なら尚のこと効果的で、多くの仕立て屋がこのやり方を試している。

 ロックも本人の希望と少ない給金の補填を兼ねて、店を始めた頃からずっとフィービのドレスを仕立て続けている。男の体型を隠す上品なドレスはフィービをより一層見目麗しく見せてくれるのだが、残念ながら貧民街ではドレスの需要はさほど多くない。せいぜい詐欺師か酒場の女が注文に来る程度だ。

 だが同じことを商業地区で試せば、フィービの美しさは素晴らしい宣伝効果に結びつくことだろう。

「もっといろんな人に見せたいくらいだよ、あの店みたいにね」

 ロックは一時手を止めて、数日前の記憶に思いをはせた。


 先日、ロックはエベルに手を引かれて商業地区のフォーティス服飾店を訪ねた。

 待ち構えていたのはフロリア衣料店の数倍はある大きな店で、華やかに着飾った店員たちがあふれんばかりの笑顔で出迎えてくれた。エベルが試しに『彼女に合う帽子を』と言うと、ロックは姿見の前に通され、五つ六つの帽子を次から次へとかぶらせられた。フォーティス服飾店の流行、技術を盗むつもりでいたロックだったが、正直なところ七つめ以降の帽子がどのような型だったかはもう覚えていないのだった。

 代わりに記憶しているのは店内の華やかさ、賑わいだ。シャンデリアが照らす店の中は晴天の日の真昼のように眩しく、よく磨かれた姿見や店員たちが身に着けた装身具をきらきらと輝かせていた。客ひとりに対し店員が必ず傍につき、丁寧に商品を勧める接客ぶりも目を引いた。あれでは買わずに店を出てくるのもなかなか困難なことだろう。

 だがエベルはロックにたっぷりと帽子をかぶらせた後、『また来るからもっと仕入れておいてくれ』と告げ、何も買わずにロックを連れて店を出た。店員たちも再度の来訪を乞うのみで、怒りもせず表向きはにこやかにふたりを見送ってくれた――。


「きっと儲かってるからだろうね」

 というのが実際に見てきたロックの感想だ。

「空振りの客がいても気にならないのは余裕がある証拠だよ。僕だったら時間をかけて接客したのに何も買わない客がいたらちょっと嫌な顔しちゃうもんな」

 貧民街にも暇人はいるもので、フロリア衣料品店にも冷やかしの客はやってくる。ロックが貧弱そうな男のふりをしているからか、その細腕を馬鹿にしに来る傭兵崩れの男たちがいれば、色恋に縁がないだろうとからかい半分で粉をかけてくる商売女もいる。どちらにせよ侮辱が過ぎる客はフィービが目力と腕力に物を言わせてお引き取りいただくのだが。

「単に伯爵閣下が相手だからでしょ」

 そのフィービの見解はこうだ。

「伯爵相手に嫌な顔なんてできるわけないじゃない。それに、店に貴族様が来たってだけで十分宣伝になるものよ。閣下のお顔なら尚更ね」

「うちの店にだって来てるよ、閣下は」

 来ているどころかすっかりお得意様なのだが、どうも貧民街では宣伝になっていると言いがたい。せいぜいパン屋のジャスティアが『そりゃうちだって贔屓にしてるお店だもの』と我が事のように喜んでくれた程度だ。

「商業地区にお店を出せたらいい看板になるかもね。『マティウス伯御用達の店!』って」

 フィービが企むような笑みを浮かべたので、ロックも作業を再開しながら深く頷いた。

「その時は足しげくお越しいただこうね」

「ま、こっちが頼まなくたって来てくださるでしょうね」

 いつか貧民街を出て、商業地区に店を出したい。

 それはロックとフィービの共通の夢だ。

 もちろん今の小さな店も気に入っている。ロックが父と共に手に入れた初めての、大切なお城だからだ。だがここで満足して終わりにするつもりはなく、自分が手がけた服をもっと多くの人に着てもらいたいという願いがある。

 その願いを叶えるために、皇女殿下の嫁入りはまたとない好機だった。

 だが今のロックは花嫁衣裳用に仕入れた上等の生地には手をつけず、別の注文に追われているところだ。男性用の革手袋を仕上げているところなのだが注文書によれば急ぎらしく、三日で取りに来ると記されている。それで他の仕事も用事も放り出す羽目になっていた。

「ところであんた、さっきから何縫ってるの?」

 フィービがそんなロックを見とがめて尋ねてきた。

「手袋だよ、もうじき縫製も終わるけど」

「ずいぶんと急いでるのねぇ、かかりっきりじゃない」

「急ぎの注文らしいからね」

 ロックはそう答えると、ようやく縫い終えた手袋の指先を軽く揉んだり、引き伸ばしたりして検める。急いだ割に仕上がりには問題もなく、手首の位置につけたボタン飾りもきっちり留まっている。あとは客に見せて了承をいただくだけだ。

「ふうん。そんな急ぎの客、いつ請け負ったの?」

 何気ない調子で、フィービが首をかしげた。

 思わずロックは面を上げ、聞き返す。

「父さん――フィービが受けたんだろ? 注文書にあったよ」

「あたしは知らないわよ」

「嘘、僕だってお客の顔は見てないよ」

 店主のロックも食事や休憩などで店を離れることはある。

 そういう時に店番をするのはもちろんフィービの仕事だが、口伝えではお互いうっかり忘れてしまうこともあるので、ロックは手が空いた時や店じまいの後などに彼女が受けた注文を確認するようにしていた。

 この度の手袋の客も注文書にあったもので、『急ぎの注文、三日で仕上げる』と記されていたのには驚かされたが、生地やボタンはクリスターに融通してもらい、他の仕事を放り出してまで急ぐことでロックは期日どおり三日目に間に合わせることができた。客の顔にも注文にも覚えはないから、フィービが承ったものだと思っていた。

「でもこの注文書、あんたの字じゃない」

 フィービが注文を記した帳面を確かめて、そう言った。

 あわててロックが覗き込むと、見慣れた自分の字がそこには並んでいる。ずいぶんと急いでいたのか走り書きのような筆致だが、確かにロックの字に相違なかった。

「僕……覚えてないけど」

 ロックは戸惑い、自分で記した注文書をまじまじと眺めた。

 客の名前は『ヴァリ』、さすがに姿かたちや人相までは記されていないが贈答用と付記していないあたり本人用の品だろう。だがその人物の顔や年齢はもちろん、注文を受けた日のことさえロックは思い出せない。

「おかしいな、客の顔は覚えてる方なんだけど」

「最近何かと気ぜわしいもの、そういうこともあるんじゃないの」

 こめかみを揉むロックに、フィービが労わりの言葉をかけた時だった。


 ドアベルの音が響き、フロリア衣料品店に来客があったことを知らせた。

「失礼する」

 若い男の声がいやに厳かに発せられ、ロックとフィービは同時にそちらを向く。

 店の戸口に立っていたのはフードを目深にかぶった外套の男だった。顔は見えない上に線が細いものの、背はロックよりも高く、外套の袖から覗く筋ばった手の甲は明らかに男のものだ。そして妙に堂々たる歩き方も。

「いらっしゃいませ……」

 ただ者ならぬ雰囲気を察し、ロックは慎重に声をかけた。傍らのフィービも密かに身構えている。

 客の方も警戒するように足を止め、カウンターから離れた位置でこう言った。

「先日革手袋を注文した者だ。品物はできているだろうか?」

 まさに噂の人物、ヴァリと名乗る男がやってきたようだ。

 ロックは安堵半分、納得のいかなさ半分ながらも応じる。

「ええ、仕上がっております。こちらでご確認いただけますか?」

 壁を背にしたフィービが見守る中、外套の男はゆったりとした足取りでカウンターに歩み寄る。そしてロックが差し出した革手袋を受け取ると、仕上がりをためつすがめつ確かめた。間近で見ればその手は傷ひとつなくなめらかで、貧民街の男にしてはきれいすぎるほどだった。

 ニーシャなら、この手を見て男の素性まで当てられるのだろうか――ロックはそんなことを思いつつ、男がかぶるフードの奥にちらりと目をやる。だがそこに覗くのは整えられた顎髭と薄い唇だけで、その唇もひび割れなどなく健康的なものだとわかる程度だった。

「なるほど、いい仕上がりだ」

 男の口調はどことなく偉そうだった。

「腕は確かなようだな」

 そう言われて、ロックは苦笑した。

「ご期待以上のものを用意できて何よりです」

「いや、――すまなかった。こんなところに建つ店が、確かなものを作れるとは思っていなかったのだ」

 男は一瞬言葉を詰まらせたものの、すらすらと詫びてみせた。

 そして受け取った手袋ははめずに外套にしまい込むと、代わりに財布から金貨を取り出した。代金を告げた覚えもないが、注文書に記した額から五割も上乗せしてくれた。

「ありがとうございます」

 嬉々としてロックが礼を告げると、男は静かに顎を引く。

「こちらこそ無理を言ったな」

 その一瞬、フードの奥に男の顔が見えた――高い鼻と鋭い瞳。その目の色は、どこか見覚えのある静かな灰色だ。

 ロックがはっとした時には、男は外套の裾をひるがえして戸口に向かっていた。

「では失礼する」

 急ぎ足と共にそう言い残し、まるで逃げるように男は店から出ていく。


 火にかけた湯も沸かないほどの、あっという間の出来事だった。

「風変わりな客ねえ」

 客の足音が聞こえなくなったのを確認してから、フィービは不審そうにつぶやく。

「でも、払いはよかったよ」

 ロックは仕事に見合う報酬をもらえて満足していたが、どこか奇妙さを感じていたのも事実だ。

 明らかに貧民街とは場違いな男だった。口ぶりから察するにロックの腕を見込んで注文をくれたわけでもないようだが、なぜわざわざこの店までやってきたのだろう。

「この辺りで払いのいい客なんて、怪しい素性かとんだ世間知らずかでしょうね」

 フィービはあの客の来訪をあまり歓迎していないようだ。彼女なりの第六感で面倒事の予兆を察知したのだろう。

「ロック、顔は見たの?」

 そう聞かれて、ロックは眉をひそめた。

「ううん、全然見えなかったよ。目の色すらわからなかった」

 見たような気はしたのだが――フードの陰になっていたからだろうか。その瞳の色はもちろん、フードの中身が男だったかどうかさえ、今では曖昧になっている。

 何も、思い出せなかった。

「フードかぶってあからさまに素性隠してますってふうだったけど、かえって目立ちそうなものよね」

 フィービがせせら笑うのを聞いて、ロックはふと先日出会った皇女のことを思い出す。

 そういえば彼女もフードをかぶって出歩いていた。おかげでその顔を目にするまでに時間もかかったし、彼女が皇女だという事実に気づいたのもだいぶ経ってからだ。

「流行ってるのかな、フードつき外套」

 思わず口にすると、フィービが怪訝そうに聞き返してくる。

「あら、そうなの? フォーティス服飾店で並んでた?」

「あ、いや、そうじゃないよ。最近見たんだ、似た格好の人を」

 ロックはあわててごまかした。

 帝都兵の詰め所で皇女リウィアに会ったという話を、ロックはエベル以外にしていない。いかにフィービとはいえ、こんな途方もない話を信じてもらうのには骨が折れそうな気がしたからだ。

 それに、まだ本人に確かめたわけではないから。

 次に会うことがあれば、尋ねてみようかどうか。ロックは密かに迷っていた。

「ふうん」

 フィービは目をしばたたかせた後、気分を変えるように明るく笑った。

「まあいいわ、それよりぼちぼちお昼の時間じゃない? 儲けた分だけいいもの食べてやりましょうよ、ロック」

「いいね、そうしようか」

 素性の怪しい客からの金は、さっさと使ってしまうに限る。


 ロックとフィービはその日、少しだけ豪勢な昼食を取り――そしていつしか、手袋を注文した男のことはきれいさっぱり忘れてしまった。

 残っているのは帳面に記した注文書だけだった。

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