忘れがたい一夜(5)
三人は樹上で日が落ちるのを待った。
ゆっくりと暗くなっていく山の中で、遠くに見える村にはぽつりぽつりと明かりがともる。それが生活のための灯なのか、それとも人探しのための灯なのか、この距離からは把握できない。ただ彼らはまだそこにいるという事実だけはわかるから、ロックは緊張を解けずにいた。
しばらくの間、三人は息をひそめるように黙っていた。
だが夕闇の中の沈黙が怖かったのか、やがてカートが誰に語るでもなく話し始めた。
「僕の両親が死んだのは、もう六年も前のことでした」
その話は以前にも聞いたことがある。身寄りのないカートが村長オルサスに引き取られた経緯も、そして人狼教団の司祭として君臨することになったきっかけも。
「それでも、あの頃の村長は優しくていい人でした。僕が村に残るために働かなくちゃいけないことをちゃんと教えてくれて、僕も働くことが嫌じゃなかった……」
「今は、いい人じゃないってこと?」
ロックはそっと口を挟んだ。
もちろんロックやエベルにとってオルサスは善人でも無害でもない。ただ彼の主張が純粋に村人のためというなら、その心情が全く理解できないというわけでもなかった。
この辺りの農村がどこも貧しいのは事実だ。
だがその状況を打破するために人狼の呪いの力を借り、革命を起こすという主張は到底看過できるものではない。帝国軍に垂れ込まれれば反逆を企てた罪として、生涯牢屋暮らしにもなりかねない言い分だ。
「今は、よくわかりません」
カートが物憂げにかぶりを振る。
「昔の村長ならあんなことは言わなかったと思います。みんなで一生懸命働いて、つつましくも暮らしていけたらいいと言ってましたから……すべてが狂ったのは、僕が畑であの仮面を掘り起こしてからです」
彼自身がかつて身に着けていた、恐ろしくおぞましい仮面のことだろう。
あの奇妙な造形を思い起こしつつ、ロックはさらに尋ねる。
「仮面をかぶった時のこと、なんでそうしたのかは思い出せないの?」
「はい……」
カートはうなづいたが、迷いながらも続けた。
「ただ、なんとなく思うんです。村長が望んだから、僕はそうしたんじゃないかって。畑仕事をして食い扶持を稼ぐのと同じ理由で、僕は僕を育ててくれる村長のために、この村にいさせてもらうために仮面を手にしたんじゃないかって」
「そんなの……!」
間違ってる、ロックは思う。あの仮面をかぶったカートが司祭としてアレクタス夫妻にしたことを思うと、怒りと恐れが未だに込み上げてくる。
だが、まだあどけない少年にまともな判断力があるはずもない。育ての親ともいえる存在に望まれれば従うのも仕方のないことだろう。まして彼らは、『ささやく』何者かによって操られているようなものなのだから――。
「一つ、気になっていることがある」
ふたりの傍らでずっと黙り込んでいたエベルが、ふと口を開いた。
ロックとカートが同時に見やると、夕闇の中で金色の瞳を光らせながら彼は言った。
「オルサスが先ほど言ったことだ。皇帝陛下の施政が『圧政』だと――そのために革命が必要なのだと、彼は言ったな」
「ええ」
ロックが肯定すると、エベルは難しげに眉をひそめる。
「しかし今の帝国は圧政と呼ぶほどの状況にあるだろうか。たしかに身分や貧富の差はあるが、言論の自由が許され、商売も好きなようにできる。帝都の中に住めるのは市民権のある者だけだが、往来自体は野放図とも言えるほど気軽に行われている。何より貧民街をつぶさずに手入れをし、管理までしようとしている皇帝陛下が暴君であるようには、私には思えない」
そこまで言ってから、意見を求めるようにロックに目を向けた。
「無論、これは貴族として帝都で暮らしてきた私の意見だ。あなたからすればまた異なるものになるのかもしれないが……」
実際、ロックにも少なからず違和感があった。
貧民街暮らしのロックはけっして裕福でもないが、圧政にあえぐような暮らしもしていない。外からふらりとやってきたロックが、店を出して生計を立てられるだけの自由が帝都にはある。父が女装をしていてもとがめられることはないし――無用の騒動を呼び込むことはあるが――、外での食事中に皇帝や皇女やその他の国内情勢について語りあっても帝都兵がすっ飛んでくることもない。
エベルの言うように、圧政と呼ばれるほどの生きづらさを感じてはいなかった。
生きづらいというなら、今の帝国ができる前のほうがさぞかし生きづらかったことだろう。遥か大昔、建国以前に存在していた国家では一部の人々が公然と迫害され、彼らは生き延びるために人狼の力にすがらずを得なかったいう。当時のことはほとんど文献にも残っておらず口伝として知られるのみだが、ヨハンナの先祖は人狼を狩る者だったというし、実際にあった話には違いない。
「……今、の話じゃないのかもしれないですね」
ロックはそんなふうに、エベルの問いに応じた。
すぐにエベルが目をしばたたかせる。
「今じゃない、とは?」
「村長が語ったことです。帝国の圧政に革命で立ち向かう――あれが彼本来の意思ではないとするなら、彼にそう言わせている存在は、今の話をしてないんじゃないでしょうか。はるか昔、人狼教団が活動していた頃の話を、彼の口を通じて言わせているのではないかと……」
確証はないが、違和感だけはあった。
そもそも命がけの革命を起こすのに、この村はまるで支度ができていないのだ。エベルを捕えようとして持ち出してくるのは農具ばかり、そして人狼ひとりを取り逃すような戦い慣れない人々ばかりだ。村の様子もつい先ほどまで農作業をしていたというのどかさで、目に見えるところに革命の予兆はうかがえなかった。
あるとすれば、件の神殿とやらに隠されているのかもしれない。
「時代錯誤の『ささやき』というわけか」
エベルが目をすがめた。
「たしかに、革命をしようというには覚悟も何も感じられない。武器や防衛の備えがあるようでもない。これでは私ひとり与したところでひっくり返るものもないだろう」
「だとすると、首謀者の狙いはなんでしょうね」
首謀者と呼んでいいかはわからないが、エベルの言葉どおりになったとするなら、劣勢が目に見えている革命を仕掛けさせようとする者の狙いは何か。まさか向こう見ずに勝利を信じているというわけではあるまい。これまで人狼の呪いに触れてきた人々のように、その人生に不幸をもたらすことだけが狙いなのだろうか。
「狙いなんて、そんなものすら存在しないのかもしれないな」
エベルは溜息と共につぶやく。
「呪いを生む異能の存在が、我々と同じ考え方をするとも限るまい。もしここにそいつがいるなら、覚悟してかかるべきだろう」
彼の言葉に、ロックはちらりとカートを見た。
カートは自信なさそうにうなだれかけたが、すぐに面を上げて言った。
「神殿までご案内します。僕もこの村がどうしてこんなことになったか知りたい……そしてみんなを正気に戻したいです」
覚悟ができたようだ。
残照も消えかけた空の下、エベルがかすかに笑むのがロックには見えた。
日が落ちてしばらく経ったころ、三人は木から下りて村へと戻った。
家々の窓辺には明かりがともっていたものの、帝都とは違って街灯がなく、息をひそめて田舎道を歩くのは少々難儀した。夜目が利くエベルと土地勘のあるカートに、ロックはついていくのがやっとだ。
「神殿への入り口はひとつだけなんです」
カートは言い、ふたりをとある民家の裏手へと導いた。そこには不自然に真新しい納屋があり、そっと中に入れば床に落とし戸があるのがわかった。
「ここです。鍵がかかってるから、中には誰もいません」
慣れた手つきで落とし戸を開けたカートは、勇敢にも真っ先に飛び込んだ。
次にエベルが続き、最後に彼の手を借りてロックが下りる。落とし戸の先はそれほど深くはなく、エベルの頭がぎりぎりぶつからない程度の坑道が続いていた。人の手で削られた岩壁はごつごつしていて、壁のくぼみに置かれたランタンがはかない光で照らしている。
「人の気配はないな」
耳を澄ませたエベルが言うと、カートはほっとした様子で壁のランタンを手に取った。
「行きましょう、そんなに歩きません」
坑道はゆるやかな下り坂だった。中の空気はやや埃っぽく、ランタンの光の中でちらちらと輝くものが見える。
人ひとりが余裕で通れるほどの通路をしばらく進むと、やがてぽっかり開けた空間に出た。
「ここです」
カートがランタンを高々と掲げる。
と同時に、エベルがうめくような声を上げた。
「彫像の顔だ……!」
遅れてロックも、ランタンの光を頼りに辺りを見回す。
そこは、明らかに坑道とは違う岩盤でできていた。
天井は高く、見上げると首が痛くなるほどだ。そして奥行きも広く、ランタンひとつきりでは到底照らしきれる面積ではない。だがカートが掲げた光が奥の岩壁をかすめると、その白っぽい岩に刻まれた何かの紋様が見えた。
見覚えのある、人狼の貌が彫り込まれていた。
これまでに何度も見てきた呪われた彫像と、そしてかつてアレクタス夫妻に連れられていった遺跡にあったものとも、そっくり同じ貌をしていた。
「こいつ、ここにもあったのか!」
ロックは精いっぱいの憎しみを込めて吐き捨てる。
「ここが神殿です」
一方、カートは少し声を震わせながらランタンをゆっくりと動かした。そうすることでこの場所の全貌が少しずつ明らかになってきた。
ここまで歩いてきた坑道と異なり、石灰石の岩壁はずいぶんきれいに削られていた。人の手によるものかはわからないが、ごく短期間でできたものではないだろう。壁に彫り込まれた大きな彫像の前には粗末な祭壇があり、その上には燭台と香炉もあって、ここが神殿であるのは間違いなさそうだった。
もっとも、崇められていたものは人狼の力――人が望むべきではない呪いの力だ。
「エベル、大丈夫ですか?」
ロックは立ち尽くすエベルに声をかけた。
すると彼は、彫像を睨みつけながら応じる。
「……声がする」
「えっ、まさか」
村長たちが来たのだろうか。ロックはあわてて坑道を振り返ったが、それを制するようにエベルが続けた。
「私を待っていたと……祝福を受けた者として歓迎すると、そう言われた」
ロックの耳にそんな声は聞こえなかった。神殿には三人以外に誰もおらず、カートはランタンを手にしたまますくみ上がっている。彫像は当たり前だがぴくりとも動かない。
だが、肌で感じる。
ここには何かがいて、自分たちを見ているような気がする。
気のせいかもしれない。薄暗さと空気の悪さと彫像の不気味さが、悪い予感を抱かせているだけかもしれない。だがロックはエベルの言葉を信じていたし、そういえば前にも――彼が彫像の言葉を聞いたことが、たしかにあった。
にわかに背筋がぞわっとしたが、今のエベルは動じていないようだ。金色の瞳に怒りを燃やし、彫像に向けて声を上げた。
「祝福ではない! 人狼の力は呪いだ、ここで絶やさねばならないものだ!」
彼の声は石灰の壁や床や天井を打ち、辺りに大きく響き渡った。
ロックはそれを頼もしく感じたが、次の瞬間、エベルは険しい表情で振り向いた。
「――誰か来る」
人狼の耳が、今度は本物の人の気配を捉えたようだ。彼はロックとカートを引き寄せて自らの背中に隠す。カートがいっそう怯えた顔をしているから、ロックは彼の手からランタンを受け取り、坑道へと向けた。
するとあわただしい足音と共にいくつかの光が近づいてくるのが見え、ロックがごくりと喉を鳴らす間に、神殿には数人の人影が駆け込んできた。
当然ながら村長のオルサス、および農具を手にした村人たちだ。
「自らお越しくださるとはありがたいことでございます、閣下」
オルサスがエベルをじっと見る。その瞳にはどこか生気がなく、けれどやはり金色ではない。
対して金色の瞳のエベルは、先程まで彫像へ向けていた怒りをオルサスへと向ける。
「あなたがたの言いなりになるためにここへ来たのではない」
「言いなりとは心外な。あなたは人の道理を果たされればよいのです」
「私が思う道理とは違うな。私はこの力を反逆のためには使わない!」
エベルが言い放つと、オルサスはうっすら笑った。唇の片側を引きつらせたような、どこか不自然な笑みだった。
後ろに控えた村人たちは身構えたまま、微動だにしない。その構えもフィービのように慣れたものではなく、腰の引けた素人のものだ。
出口は彼らの後ろにひとつだけ。逃げるなら彼らをどうにかしなくてはならない。いくらかの流血を覚悟したロックをよそに、オルサスはエベルだけを見つめている。
「では、そのお力を何のために使うとおっしゃいますか?」
馬鹿にしたような物言いだったが、エベルは間髪入れず答えた。
「ここを破壊してあなたがたの目を覚まさせる、それだけだ!」
そう叫んだとたん、ロックの目の前でエベルのシャツが背中から裂けた。
裂け目から覗くのは人の肌ではなく、黒々とした狼の毛皮だ。同時に彼の腕が、脚が、中から膨れ上がるように太くなる。鳶色の髪はぶわっと逆立ち、やがて尖った二つの耳を形作る。そうして彼の着衣がぼろぼろにちぎれて弾け飛んだ時、ロックの目の前には大きな人狼の、毛むくじゃらのたくましい背中があった。
「ロクシー、カートを頼む!」
牙の生えそろった口でエベルは叫ぶと、身をひるがえして跳び上がり、背後にあった人狼の貌の彫像に思いっきり拳を叩きつけた。




