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忘れがたい一夜(2)

 やがて馬車は街道を外れ、森の中を通る踏み分け道を進みはじめる。

 この辺りの村々はどこも同じで、森を切り拓いた土地に家を建て、畑を作って暮らしている。それゆえに農村の多くは閉鎖的で、よその村との交流も乏しいのが常だ。

 村単位では対処できない事態――例えば山犬の群れが出た、熊が出たというときは、帝都まで出向いて帝都兵あたりに討伐を頼む。それ以外で村を出るのは収穫した作物を売りに行く場合くらいで、ロックも母を亡くすまでは生まれ育った村の外にどんな世界が広がっているのか、ちっとも知らなかった。


 だからロックは、自分が生まれ育った村以外を訪ねていくのは初めてだった。

 馬車の窓から見る森の風景はどこか懐かしく、高い梢から降り注ぐ薄絹のような木漏れ日と、光を透かして新緑の色に輝く木々の葉が無性に胸を締めつける。

 母が生きていたころに村で過ごした甘酸っぱい日々の思い出と、母の死後、まだ見ぬ父を訪ねるために帝都を目指して単身森を抜けたときの心細さがいっぺんによみがえるようだった。

「あなたにとっては見慣れた光景だと思っていたが」

 窓にかぶりつくロックに対し、エベルは驚き半分、興味半分でそう言った。こうも森の景色に見入るとは思ってもみなかったようだ。

「ええ、そうなんですけど」

 ロックは窓から身を離し、彼に向き直って答える。

「見慣れていたからこそ、なんだかすごく懐かしくて……切ない気持ちになるんです」

「そういうものか」

 エベルはゆっくりとまばたきをした。

「私は帝都から離れたことがないからな。懐かしさを覚える景色というものがあまりない」

「ずっと貴族特区にお住まいなんですね」

「ああ、ずっとあの家で暮らしている」

 それはそれで、どんなふうなのだろうとロックは思う。生まれたときから大人になるまでずっと同じ家で過ごすのは、そこが居心地のよい場所ならこの上なく幸せなことだろう。マティウス邸はエベルにとってどこよりも住みよい家であることは間違いなく、だからこそロックはエベルの幸福を喜ぶ気になれた。

「ずっと同じところに住むというのもいいですね。あの家はあなたにぴったりですし」

 ロックの言葉に、エベルが微笑む。

「そう言ってもらえるとうれしいな。いつかあなたの家にもなる」

 そして揺れる馬車の中で、ロックの肩にそっと腕を回した。

「私としては、それが近い未来であればと思う」

 肩を抱かれたロックは照れ笑いを浮かべた。

「そうなるんでしょうか。僕、まだ想像もつきませんけど」

 あの家に、自分が住むようになる未来はまだ想像もできない。だが彼を想い、離れがたさが募るうちに共に暮らすことを望むようになるのは容易に察しがついた。きっと自分も、近いうちにそれを強く願うようになるだろう。そしてその願いを叶えるため、ロックは皇女殿下の婚礼衣装を仕立てると決めたのだ。

 エベルと共に暮らすようになれば、次に会う時までに話したいことを覚えておく必要もなくなる。

 打ち明けるべき大切な話を、忘れてしまうことだって――。

「……ロクシー?」

 エベルに名前を呼ばれるまで、ロックはまばたきもせずに固まっていた。

 まただ。あの妙な感覚。

 自分は何を思い出せないのだろう。

 考えないと決めたのに、どうしてこんなにも気になってしまうのだろう。

「すみません、ええと、なんでもなくて……」

 ざわざわと肌を這い上がる奇妙さにロックが口ごもったとき、馬車がゆっくりと停止した。


 イニエルが馬車の扉を開け、エベルが先に大地に降り立つ。

 彼の手を借りてロックが馬車を降りると、目の前にはひなびた農村の姿が広がっていた。帝都よりも背の低い家々と、建物よりも広々とした畑の間に、踏み固められただけの道が続いている。まだ日が高い時分だからか、畑にはぽつぽつと人がいた。汚れの目立たないくすんだ色の服を着た人々は、しかし突然の訪問者に気づくと一様に動きを止めた。

「カート」

 エベルは先に降りていた少年を呼ぶ。

「君の生まれ故郷はここで間違いないな?」

 そう尋ねられても、カートは黙っていた。エベルの傍らで彼にすがるように、微動だにせず村の景色を見つめている。

 ちょうど村人たちがこちらを注視したまま、まったく歩み寄ってこないのと同じように。

「カート、大丈夫?」

 ロックは少年の顔が蒼白なのに気づき、思わず眉をひそめた。

 それでカートはびくりとし、血の気の引いた顔を隠すようにうつむく。

「だ、大丈夫です……ここで、間違いないです」

 先程のエベルの問いにもようやく答えたが、か細い声は今にも消え入りそうだ。

 やはり彼はここに帰ってきたくなかったのだろうか。それにしても怯えきった反応に見える。ロックはエベルと顔を見合わせ、エベルはイニエルに目配せを送る。

 目礼したイニエルが馬車を守るように一歩下がった後、エベルはカートの小さな背中に手を添えた。

「では、村長の元へ案内してもらえるか? 君の今後について話し合う必要がある」

「は、はい……」

 カートがこわごわ応じると、聞き耳を立てていたのだろう。村人たちは一斉に顔を背け、農作業に戻り始めた。まるで何事もなかったかのような態度だった。


 村長の家は、小さな家屋が多い農村の中では最も広く、大きな建物だった。帝都とは違って全てが木で造られており、近づくだけで森とよく似た匂いが漂ってくる。

「どうぞ」

 カートは自ら扉を開け、エベルとロックを中に招き入れた。そして自分も立ち入ると、屋内に向かって声をかける。

「カート……カートラスです。ただいま戻りました」

 その間、ロックは慣れない目で室内を見回した。家の中は簡素ながらも掃除が行き届いており、一見するにいたって普通の住居という趣だ。戸棚や円卓、椅子といった必要最低限の調度があるくらいで、おかしなものがある様子もない。

 カートがかぶっていたあの仮面や、あるいは例の人狼の彫像があったらどうしようかと思っていたのだが、特に見当たらなかった。

 あえて不審な点を挙げるとするなら、村長の家にしては飾り気がなく、簡素すぎるように見えることだろうか。暖炉の上に壁飾りなどもなく、戸棚の中身も皿ばかりだ。裕福ではない村にしても、村長の家くらいはもう少し飾り立てておくものだとロックは思う。

「おお、カートか」

 家の奥から、初老の男性が姿を現した。たっぷりと髭をたくわえた砂色の髪の男性は、カートを認めるとにっこりと愛想よく笑った。

「無事に戻ったようだな。お前が急にいなくなって、村のみんなも心配していたよ」

「ごめんなさい」

 カートはぺこりと頭を下げる。

 だがその詫び方には感情がこもっていない。ロックにはわかる、ヨハンナと相対する時とはまるで態度が違ったからだ。

 そして村長のほうも、急に姿を消した養子と再会したにしては淡々としている。事前にエベルが使いをやってカートの無事を知らせていたとはいえ、久々に顔を合わせたことには違いないのに。


 ロックは黙って、エベルのシャツの袖を軽く握った。

 それだけで伝わるだろうと確信していたし、事実、エベルは微かに顎を引いてみせた。


 村長はオルサスと名乗り、エベルに向かって問いかける。

「あなたが、マティウス伯爵閣下ですね」

「ああ。先日は使いの者を温かく迎えてくれ、とても感謝している」

 普段は身分違いの者にも柔和に接するエベルだが、オルサスに対してはやや威圧的に応じた。ロックはそれを警戒の現れと見たが、オルサスは特に動じず一礼した。

「こちらこそ、カートを保護してくださったことをたいへんありがたく思っております。放っておけばひどいことになっていたでしょうに、ご温情痛み入ります」

 村長はカートが帝都で何をしていたかを知らないはずだ。少なくとも使いの者には知らせていないとエベルは言っていた。

 ロックがちらりと目をやると、当のカートはうなだれながらオルサスの背後に隠れてしまう。何かあることを態度で知らせている、とロックは読み取った。

「当然のことをしたまでだ」

 エベルは短く言い切ると、オルサスのこれ以上の感謝を制するように語を継いだ。

「早速だが本題に入らせてもらいたい。カートを、私の屋敷で引き取りたいと考えているのだが」

「ええ、伺っておりますとも」

 オルサスはうなづき、背後にいるカートを振り返る。

「閣下がこの子を高く評価してくださっているのは存じております。養父としても、それほど優秀な子を持てたことは誠に鼻が高いです」

 カートは何も言わない。照れたり、恥ずかしがったりもせず、ひたすらロックとエベルの視線から逃れている。

 そんな彼の前で、オルサスはぺらぺらと慣れた様子でしゃべり続ける。

「しかし、もちろんカート本人の意思が最も寛容でございまして、その点に関しては申し訳ないながら、閣下にもご理解いただきたく存じます」

「無論、そのつもりだ」

 エベルはそう言うと、顔を見せないカートに向かって声をかけた。

「カート、君は私の屋敷で働きたいと言ったな。このまま共に帝都へ帰ってくれるだろう?」

 わずかな沈黙があり、

「あの……」

 言いにくそうに、カートが答える。

「僕、最初はそのつもりだったんです。でも、その、ここに戻ってきたら、なぜだか離れがたい気持ちになってしまって……」

「カート?」

 つい、ロックは尖った声を上げてしまった。

 里心が出たとはとても思えぬ態度だ。むしろこれは――。

「ごめんなさい! もう少しだけ考えさせてください」

 カートが大声で詫びると、村長はなだめるようにその頭に手を置き、エベルとロックに告げる。

「こう申しておりますし、一晩だけこの子に時間をくださいませんか? もしよろしければお二方にもこの村に留まっていただいて……この子を守ってくださったお礼もしたいですし、心を込めておもてなしさせていただきますとも」


 はっきり言って、見え見えの罠だ。

 それはもうロックの目にも明らかなくらいの怪しさだったし、それではぜひと乗る気にはまったくならない。先程からの態度を見るに、間違いなくエベルも同じ気持ちだろう。

 だが、だからといってカートを置いていくわけにはいかないのも事実だ。

 そしてこれが罠だとするなら、誰が何のために仕掛けたものか、解き明かしたくなるのもまた事実だった。

 もしかすればそこに、あの仮面の謎が潜んでいるのかもしれない……。

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