忘れがたい一夜(1)
ある朝、ロックとフィービは店の前の掃除をしていた。
普段から開店前には軽く掃き掃除などを行っていたが、今朝はせざるを得ない事情があった。
どうも昨夜ここで酔っ払いの乱痴気騒ぎがあったらしく、店の前は空の酒瓶とこぼされた酒、そして酔った勢いで破壊された樽や木箱の残骸でめちゃくちゃになっていたのだ。
さわやかに道照らす朝日を台無しにするような、むっとする酒の臭いが立ち込めていた。
「ったく、なんであたしたちがこんな目に……」
フィービはぶつくさ文句を言う。せっかく着てきたドレスの袖をまくり上げ、裾をブーツにしまって酒浸しの路上に水を撒いている。
「よっぽどひどい騒ぎだったんだろうね」
ロックも木片を集めつつ、さすがにうんざりしていた。
これから一仕事あるというのに、その前に金にもならない労働を強いられて体力を浪費する。まったくもって無駄の極みである。
「最近多いね、酔っ払い」
「そうねえ。前から少なくはなかったけど、近頃は特にね」
貧民街にはこのところ人が増えつつある。
帝都兵が警邏しているとはいえ、ここはもともと無法地帯だ。新顔が増えればそれだけ治安も悪くなる。道理も行儀も知らない連中が街に溢れていくのを止める手立てはない。
「どうも皇女殿下のご成婚で、懐が潤う連中もいるようだし」
フィービは紅を引いた唇を皮肉っぽくゆがませた。
「それっていいことなの?」
「物騒なことだってのは確かね」
「まあ、そうだろうね……」
貧民街に人が増えたということは、ここを訪れ留まるだけの利があるということだろう。黒い『仕事』のうわさはロックの耳にも入ってくるほどだ。この度の慶事を好機と見るのは善良な人々だけではない。当たり前の話だった。
「あんたも気をつけなさいよ、ロック」
心から案ずるように、フィービは声を潜めた。
「儲け話持ちかけられたって安易に乗ったりしないこと。うまい話には何かしら裏があるもんなんだから」
「わかってる。クリスターの例もあるしね」
高報酬の怪しい仕事がどれほど危険なものか、彼は身をもって示してくれた。同じ轍を踏むわけにはいかない。
それに今のロックには目先の利益に飛びつく暇もない。見据えているのはもっと高く果てしない目標だ。
「僕としては、ご婚礼が無事に行われてくれればそれでいいよ」
集めた木片を抱え上げ、ロックはフィービに言った。
「これ、向こうに捨ててくる」
「ええ、気をつけてね」
「すぐそこだよ、フィービ」
ロックは明るく笑ったが、フィービは念を押すように目を細めた。娘を案じる父親の目で、ごみを捨てに行くロックを見送っていた。
市場通りの片隅には廃品の集積所がある。
掘っ立て小屋の残骸であろう木材や使い古した家具、薄汚れてぼろぼろの毛布や衣類、貴重品であるはずの古本まで野ざらし雨ざらしのままで雑多に積まれているのがここだ。
おそらく元はただの空き地だったのだろうが、誰かがガラクタを置き始めると次々と右に倣う者が現れ、いつしか既成事実となる。この廃品置き場がかつて何もない空き地であったことを、今となっては貧民街の誰もが覚えていないだろう。
だがこうした廃品を漁って小銭を稼ぐ者も少なからず存在する。捨てる者がいれば拾う者もいるというわけで、貧民街においては必要不可欠の場所であるとも言えた。
すえた臭いのする廃品集積所に木片を捨てた後、ロックは店に戻ろうと踵を返す。
そこで、かすかな声を聴いた。
「……あ」
か細い女の声だった。
何気なくそちらに目をやると、捨てられていた古い戸棚の陰から誰かが立ち上がるのが見えた。
目深にフードをかぶった、外套を着た小柄な人影だ。線の細さからして女、それも年若い少女のように映る。こちらを警戒しているのか、ひどく驚いたように固まっていた。
「わ、人がいたんだ……」
ここにネズミがいても人がいるとは思わず、ロックは驚きを押し隠すように苦笑した。
「君、こんなとこで何してるの?」
そう声をかけると、少女は我に返ったように細い肩を震わせる。フードの中身を見られたくないのか、顔をそむけながら答えた。
「帰れなかったのです」
予想どおり、声も若く聞こえた。
「昨夜、すぐ近くでお酒を飲んでいる男の人たちがいて、絡まれそうになって……」
どうやら店の前で起きた出来事に、彼女も巻き込まれていたようだ。
「それは気の毒だったね」
ロックが同情よりも共感を込めると、少女も素直にうなづいた。
「ええ。それで一晩中、ここに身を潜めることにしました」
「ここに? よく見つからなかったね」
廃品だらけのここに隠れる場所がないわけではないが、『フロリア衣料店』からは目と鼻の先の距離だ。よほどの俊足でもない限り、少女の足では逃げ込む前に見つかってしまいそうなものだが。
「運がよかったみたいです」
「へえ、すごいな」
少女の豪運に感嘆した後、ロックは自らの不運を打ち明ける。
「実はあの場所、僕の店の真ん前でさ。今朝来たら誰か酔っ払いが騒いだ跡があったから、何事かと思ったよ。さっきまで掃除に明け暮れてたとこ」
「あなたの、お店?」
けげんそうに少女が聞き返してきた。
「そう。『フロリア衣料店』って店、知らない?」
「いえ、ちっとも」
にべもない返答にロックは少々傷ついた。もう三年以上も貧民街で店をやっているのだが、知名度の点ではまだまだのようだ。
あるいはこの少女が貧民街の住人ではない可能性もあるが――よく見れば着ている外套は仕立てのいい上等のものだし、話し方にもどことなく品があるような気がする。フードのせいで顔はよく見えないものの。
「あなたのお店には多大な迷惑をかけてしまったようですね」
少女が気づかわしげに言ったので、ロックは慌てて片手を振った。
「君のせいじゃないよ。君だって絡まれた被害者だろ?」
「ですが……」
「気にすることないって。それより、家は近く? ひとりで帰れないならうちの店員をつけるけど」
護衛にフィービをつけてあげようとロックは提案したが、少女はきっぱりと固辞した。
「いいえ、ひとりで大丈夫です」
「そう?」
「はい。地図もありますから」
そう言って彼女が微笑む表情が、フードの中でちらりと見えた。なめらかな木苺色の髪と深い灰色の瞳は――まったく見覚えのない顔だった。
その言葉に納得したわけではないが、どこか訳ありのようにも思える。あまり強く引き留めるのもよくないだろうとロックは引き下がることにした。地図があるなら迷わず帰れるのだろう、きっと。
「わかった。じゃ、気をつけてね」
「ええ。また会うことがありましたら」
少女はそう言うと、ロックの脇をすり抜けるようにして集積所を出て行った。
やはり相当の俊足の持ち主のようだ。ロックが振り返った時、彼女の姿は朝日に溶けるように見えなくなっていた。
数日後、ロックはマティウス家の馬車に揺られていた。
今日はかねてから約束していた旅行の日で、ロックはこの日をとても心待ちにしていたのだ。最近では珍しくもなくなった女物の服を着て、ほんの少しの面映ゆさを覚えながら座席に座っている。
隣には上機嫌のエベルがいて、何度もうれしそうにロックへ視線を向けてくる。その優しい眼差しがどうしてかくすぐったく、それでいて心地よい。
御者席に座るのはいつものようにイニエルだが、今日はなぜかカートもそこにいる。本人が志願したという話だったが、その理由についてはロックも知らない。ただ出発前に顔を合わせた時、彼の表情が緊張にこわばっていたのは見て取れた。故郷へ帰るのに黙って座席に座っていられないのだろう、とエベルは推測していた。
「まずは彼の故郷へ向かう。あなたの村へはその後で立ち寄る予定だ」
旅行の日程は一泊二日、あまり店を開けてもいられないので妥当な期間だろうが、少し短いのではないかとロックは密かに思う。帰り際には離れがたさが増してやいないか、そればかりが心配だった。
心配事はそれだけ、のはずだった。
だが――ともすると胸の奥に、なんとも言えない不安が沸き起こる。
不安というより、疑問というべきだろうか。何か大事なことを忘れているような気がしてならなかった。
「どうかしたのか?」
浮かないロックの顔を見て、エベルが目をしばたたかせる。
はっとして、ロックは苦笑した。
「すみません。実はこの間から、どうしても思い出せないことがあって」
「どういうことかな」
「僕、あなたに会ったら話そうと思っていたことがあったんです。あった、はずなんですけど……」
エベルとは毎日会えるわけではないから、会った時に話したいことをなるべく覚えているようにしてきた。それは店であった出来事や仕事で作った服のこと、あるいはフィービに言われたことなど、些細な話題ばかりだったりするのだが――今の『思い出せないこと』は、それらよりもずっと大切なことのように思えてならない。
彼に会ったら、言うべきだと思った出来事があったはずなのだが。
「それは重大な話なのか?」
エベルはロックの表情から何かを察したようだ。少し心配そうに眉尻を下げた。
だが彼にそんな顔をさせるのは、ロックの本意ではなかった。
「いえ、きっと違います」
だから笑って、かぶりを振った。
「思い出せないってことは、きっと大した話じゃないんですよ。父さんが何か面白いこと言ったとか、パン屋のジャスティアにからかわれたとか、たぶんそういうたぐいの話です」
例を口にすればするほど、それは違うという思いも強くなる。だがどうしても思い出せない以上、思案し続けるのも体力の浪費というやつだろう。
そう考え、ロックは思い出そうとするのをやめることにした。
「それはそれで楽しそうな話だが」
エベルはまだ興味を失っていないようだったが、無理強いしては来なかった。
「そういえば、パン屋にはしばらく行っていないな」
「クリスターたちの結婚式以来になりますか?」
「ああ。あの店のパンが恋しくなってきた、今度一緒に行こう」
「いいですよ。でも注意してください、ジャスティアは伯爵閣下にだって皿洗いをさせる人です」
結婚式での出来事はすんなりと思い出せて、ロックとエベルはその日の記憶に声を上げて笑いあった。
初めての旅行はふたりを少し浮かれさせているようだ。馬車の中では、いつもよりはしゃぐふたりの笑い声がしばらく続いた。
馬車は帝都を離れ、のどかな丘陵地帯をゆっくりと走る。
整備された街道は遥か遠くまで延びており、ここを辿るうちは平穏な旅路になる。だがカートの故郷は街道を外れた山林の向こうにあり、そこで何が待っているかはロックもエベルも知りようがないのだった。