この手を離さずに(3)
夕食の後、ロックは片づけをするヨハンナの手伝いを買って出た。
「そんな、ロック様のお手を煩わせるなんて……」
ヨハンナも口ではそう言いつつ、拒んだのも一度きりだった。その後はあっさりとロックを厨房に引き入れ、食器洗いを手伝わせてくれた。
厨房にはヨハンナとロックの他、御者のイニエルだけがいた。
イニエルはプラチドの襲撃で受けた傷も癒えつつあり、今は怪我に響かない軽い仕事から手伝い始めているそうだ。
「ロック様がご無事で何よりでした……」
そう言って、イニエルは胸を撫で下ろす。
「もしものことがあれば、私は一生閣下に顔向けができないと思っておりましたから」
するとヨハンナが即座に異を唱えた。
「そんなことはあり得ません! ロック様にはふたりの英雄がついていらっしゃるのですから!」
「英雄?」
誰の話かは察しがつくが、ロックは笑って聞き返す。
「ええ! 閣下とフィービ様、おふたりが手を組めば向かうところ敵なしです!」
ヨハンナは我が事のように胸を張ってみせた。
そしてロックも、実にその通りだと思う。
そのエベルとフィービは、それぞれ既に部屋へ戻っていた。
ふたりともロックと話したいと思っていたようで、夕食の後に声を掛けてきた。だがロックとしては、まずヨハンナに話を聞かねばという思いで誘いを断り、厨房へ来たのだ。
エベルにもフィービにも、尋ねたところで教えてはもらえないであろう話を。
井戸の水を汲み上げてたらいに張り、そこでヨハンナは食器を洗う。
イニエルはその食器をすすぐ役目で、ロックは布巾で水気を拭き取る役目だ。
作業をしながら尋ねてみた。
「ヨハンナ。うちの父は、僕がいない間どうしてた?」
たらいでじゃぶじゃぶ水音を立てるヨハンナが答える。
「それはもう……酷く焦っておいででしたし、苛立ってもおいででした」
「ええ」
イニエルが証言を裏づけるように頷いた。
「あの夜、私は傷を負い、フィービ様に担がれてここへ戻ってきたんです。フィービ様は馬を駆り私を屋敷へ運び込んだ後、血相を変えて事態を閣下にお話ししていました。閣下も大急ぎで飛び出していかれたのですが――」
そこで彼は目を伏せる。
「……見つけられたのは壊れた馬車の残骸と、おとなしく待っていたもう一頭の馬だけ。匂いを辿ろうにも跳んで逃げたのでは追い駆けようがなかったとのことです」
その点について、プラチドはまったく見事にやってのけた。
おかげでロックの存在はしばらくの間隠蔽され、リーナス兄妹がアレクタス邸を訪ねてくるまでは孤立無援の状況だった。
「閣下もフィービ様も、誘拐犯がアレクタス家の手の者であることはわかっていらっしゃったのですが……」
「無闇に突撃するわけには参りませんものね!」
イニエルの言葉を、ヨハンナが血気盛んに引き継ぐ。
「そこでおふたりは激しくぶつかり合うわけです!」
「は、激しく!?」
唐突な嵐の予感にロックはどきりとした。
エベルとフィービの間に、それほどの対立が生じていたというのだろうか。
だがヨハンナは大きく、むしろうれしげに頷いた。
「ええ! 相手の出方が読み切れない以上は足場固めに努め、機が熟すのを待つべきだと仰る閣下。ロック様の身の安全の為にも、形振り構わず突入し救い出すべきと訴えるフィービ様。お二人の意見は真っ向から対立し、幾度となく激しい口論となりました。激高したフィービ様が屋敷を飛び出そうとして、閣下がそれをお身体を張ってお止めになるのも一度や二度ではございませんでした!」
興奮気味のヨハンナとは対照的に、血の気が引く思いがするロックだった。
エベルとフィービがそれぞれに自分を想い、案じてくれていたのはわかる。
だが一歩間違えばふたりの間に、取り返しのつかない亀裂が生じていたのも確かだ。
ロック不在の間、マティウス邸もまた大きな火種を抱えていたということであれば、さすがに冷や汗も出る。
「父と閣下は、その、仲直りできたの?」
適切な形容であるかはわからなかったが、ともかくロックはそう尋ねた。
イニエルが笑いを堪えるような顔をした一方、ヨハンナは大真面目に答える。
「もちろんでございます! おふたりとも大人でいらっしゃいますから」
「そうなんだ……でも、けっこうやりあってたんじゃない?」
「はい!」
食器を洗う手も止まりがちのヨハンナはあっさりとうなづく。震え上がるロックをよそに目をきらきら輝かせていた。
「なんでそんなにうれしそうなんだよ」
イニエルが揶揄してもどこ吹く風だ。
「なぜならば! わたくしはその劇的な和解の目撃者となったからでございます!」
濡れた拳を掲げてなおも語る。
「御身を呈してもフィービ様を制止しようとなさる閣下、それを振りほどこうともがくフィービ様。やがてフィービ様がかっとなって腕を振り上げるのですが、閣下はそれをあえて避けず、手首で受け止められたのです!」
「な、殴り合いになった……?」
「いいえ! 閣下は語気を強めつつも、辛抱強くフィービ様を説き伏せようとなさいました!」
いよいよ興が乗ってきたか、ヨハンナの声が熱を帯びる。
「わたくしにはわかるのです。閣下はお若いうちにお父上を亡くされたお方。その思い出、あるいは面影を、フィービ様に重ねていらっしゃるのだと……閣下はフィービ様の想いをわかった上で、それでもフィービ様を信頼し、諭そうとなさったのです!」
「閣下が……」
ロックにもそれはわかる。
エベルは時々、ロックとフィービの関係を羨むようなことを言う。彼が失くしてきたものを考えれば容易に察しのつくことだ。
そしてそれはフィービ自身も理解しているはずだった。
「閣下の思いは、フィービ様に確かに伝わりました!」
ヨハンナはついに目を潤ませている。
「そしてフィービ様は仰ったのです。この件に関しては全面的に閣下を信頼すると……ロック様を救い出す為に、苦汁の思いで機が熟すのを待つと! おふたりが見つめ合い、しっかりと頷き合うさまを、わたくしもお傍でしかと拝見いたしました!」
「そっか……」
ロックはほっとしていた。
起きたことを思えば『よかった』とは到底言い切れないが、エベルとフィービの関係が改善されたことは素直に喜ぶべきだろう。
いや、改善というよりは――ヨハンナの言う通り、信頼関係の構築と明言してもいいかもしれない。
エベルの冷静さにも、父の度量にも、ロックは今こそ惚れ直していた。
「こんなこと言ったら不謹慎だろうけど」
ようやく洗われ出した食器を、一枚一枚拭きながらロックは言う。
「結果的に閣下と父さんが信じあえたのなら、それはいいことだったと思うな」
ロックは伯母や伯父と出会い、互いに傷つきつつも絆を繋ぐことができた。
エベルとフィービも不安に囚われ、時にぶつかりあいながらも、確かな信頼を築いた。
失ったものも少なくはない。解けない謎も、解決していない事柄だって山ほどある。
だが、確かに得たものもある。
「僕らは、ちゃんと前に進めているのかもしれない」
更にそう呟けば、ヨハンナも頷いた。
「ええ。この度のことは小さな勝利かもしれませんが、勝ちは勝ちでございます! 負けでは決してございません!」
「そうだね、ヨハンナ」
負けてはいない。
失ったものはあれど、自分はちゃんと大切な人の元へ帰ってきた。それ以上のものを得て。
いつか、もっと大きな幸いを持ち帰れるようになるかもしれない。
「だけど、伯爵閣下に手を上げるなんてね……」
ロックは少し笑ってしまった。
貧民街ではよく喧嘩を売られる父だが、自ら挑んでいくことは滅多にない。
その滅多にない機会の相手が、身分貴き伯爵というのも実に父らしいと思う。
「お言葉ですけどロック様、殿方の友情とはそうして築かれるものでございますから!」
ヨハンナが声を上げた。
「そうなの?」
聞き返すロックに、イニエルが溜息で訴える。
「ロック様、聞き流してやってください。いつものヨハンナの癖です」
だがそれもヨハンナの耳には届かなかったようだ。彼女は食器洗いも放棄して、うっとりと視線を彷徨わせる。
「不謹慎というならわたくしだって、正直に申し上げればあの光景は実に眼福でございました……。ぶつかり合いながらも育まれる信頼、変わりゆくふたりの関係、まさにわたくしの大好物でございます!」
「大好物?」
「聞き流してください! 是非とも!」
怪訝そうなロック、警句を発するイニエルをよそに、ヨハンナはしばらく恍惚としていた。
だが急にはっとして、慌てたようにロックに訴える。
「あの、もちろんわたくし、ロック様と閣下の恋路を全力応援しておりますので!」
「え、きゅ、急に何?」
「ああいう組み合わせもいいかなあ、などと一瞬思ってしまったのは事実ではございますが、さすがに不道徳でございましょう! 現実の閣下がロック様を愛していらっしゃるのは紛れもない事実でございますし、フィービ様も一番大切に思っていらっしゃるのはやはり愛娘。ならばわたくしは妄想の世界でのみ楽しむことにいたしますので、ロック様はどうぞご安心の上、閣下のお傍にいてくださいますようお願い申し上げます!」
ヨハンナが何を言っているのか、ロックには半分もわからない。
ただイニエルが頭を抱えてしまったので、とりあえず頷いておくことにする。
「うん……いいんじゃないかな、それで」
「ありがとうございます!」
威勢よく、ヨハンナは感謝を口にした。
厨房では、予定していたよりずいぶんと長い滞在となった。
その大半をお喋りに費やしたのは事実だが、食器洗いもどうにかこなした後、ロックは夜更けに客室へと引き上げた。
隣室で父が眠っているのを確かめた後、寝台にひとり潜り込んで目を閉じた。
やはりくたびれていたようで、程なくしてとろとろと眠りに落ち、そのまま寝入ってしまったのだが――。
翌朝、目を覚ましたロックの隣にエベルがいた。
なめらかな瞼を閉じ、鳶色の睫毛を微かに震わせた彼が、同じ寝台の中にいた。
「え……ええ!?」
確かに昨夜、『エベルの傍にいて欲しい』とヨハンナには言われていた。
だが目覚めてすぐ横に彼がいるのはさすがにうろたえる。そもそもロックは一人で眠りに就いたはずなのに、なぜ彼がここにいるのだろう。起きたてのぼやけた思考がいっぺんに晴れた。
「エベル……エベル!」
慌てて揺り起こせば、エベルは眩しそうに眉を顰めながら薄目を開ける。
そしてロックを見つけるなり、寝ぼけ眼で柔らかく笑んだ。
「ああ、おはようロクシー」
「おはようございます――じゃなくてです! どうしてこちらにいらっしゃるんですか!」
ロックの焦りとは対照的に、彼はのんびりしたものだ。まだ微睡むように目をつむり、唇だけを動かして答える。
「昨夜どうしても寝つけなくて、あなたの部屋を訪ねたのだ。あなたは既に寝入っていたから、せめて傍で寝顔を見ようと思って……そうしたら、いつの間にか眠ってしまったようだ」
堂々と、ロックが震え上がるようなことを言う。
いかに相手がエベルと言えど、疲れ果て前後不覚に眠っているところを訪ねてこられるのは困る。彼を信用していないのではなく、純粋に恥ずかしいからだ。見たいと言われた自分の寝顔が、どんなものかもわからないのだし。
加えて隣で眠られるとなれば、初心なロックがあわてふためくのも無理はない。
「だ、だからって寝台に入ってこなくても――」
抗議の声を上げかけたロックを、エベルは腕を伸ばし、抱き寄せることで制した。
ふたりで包まる暖かい毛布の中、彼はまだ眠そうに囁いてくる。
「あなたの無事を直に確かめたかった。ずいぶん長い間、分かたれていたからな」
抱きすくめられると、ロックは何も言えなくなった。
長い間離れていたのもまた事実で、彼の体温がひどく懐かしい。こんなふうに抱き合ったことが何度もあるわけではないのに、胸のときめきと同時に不思議な安心感も覚える。ずっとこうしていたいと思うくらいに。
「ご心配をおかけしました」
ロックは彼の胸に囁く。
返事はすぐにあった。
「心配はした、だがもういい」
「でも……」
「もういいんだ、ロクシー。あなたがここにいるなら、それだけで」
その言葉にロックが面を上げると、エベルも片目だけをどうにかこじ開けて微笑む。
そしてゆっくりと顔を近づけ、熱っぽい唇を押し当てられた後で――エベルの頭からがくりと力が抜けて、また穏やかな寝息を立て始めた。
「……エベル」
つぶやいたロックの唇は、彼の唇の温度を覚えていた。
激しくなった動悸を抑え込み、目をつむる。エベルの腕の中から出ていくつもりはなかった。彼がゆっくり眠れるように、もう少しだけここにいようと思う。
鎧戸を閉め忘れた窓を、朝日が撫でるように照らし始めている。
まだ微かな光から逃れるように、ふたりはしばらくの間、黙って寝台の中にいた。




