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未来への契り(3)

「これ、何の香り?」

 誰にともなく、ロックは尋ねた。

 するといち早くエベルが答える。

「これは香木だな」

「こうぼく……?」

「樹木から作られる香料だ。しかもかなり上質なものと見た」

 どうりで木を燻した匂いに似ていたわけだ。

 それでいて煙いというほどではなく、ほのかに甘く、確かに高級そうな香りに思える。

「この香りを好んで部屋で焚いたり、着衣に焚き染める者もいる」

 エベルは難しげな顔つきで続けた。

「こういうものは大概が輸入品だ。安価なものでは決してない」

「このくらいの大きさでも、金貨を山と積まなきゃいけないやつよ」

 フィービが自らの小指を指し示した。

 その指は骨太だが、それでも香りを楽しむのに十分とは言えない大きさだろう。

 ロックは思わず顔を顰めた。

「そんな高級品の匂いがここでする、ってことは……」

「恐らくは、ここへ来た客人の匂いだろう」

 エベルの言葉に、フィービもすかさず同意を示す。

「あいつに大金を渡してローブを作らせた、当の顧客でしょうね」


 例の顧客に金があることはクリスターの帳簿からも窺える。

 ローブ三十着という大量の注文を前金で済ませ、途中でたびたび経費も払い、さらには香を焚き染めて楽しむだけの余裕がある人物――それこそ貴族のように裕福な相手に違いない。

 問題はその人物とクリスターの失踪にどんな関わりがあるかということだが、こればかりは未だ判然としなかった。


 そしてロックには、気になることがもうひとつある。

「帳簿には、納品した旨が記載されてないんだ」

 古いページを遡ってみればわかる。どんな取引であっても、クリスターは売上台帳に納品までしっかりと書き残していた。

 だが件の顧客に対してだけは、納品したという記述がない。

 それどころか帳簿自体の記載が、二週間前でぱったり途切れている。

「奴が僕の部屋の前に来た日以来、何も書かれてない」

 市場通りでの目撃証言があったのは、その翌日の昼前までだ。

 クリスターが行方をくらますきっかけとなった何かが、その日に起きたのかもしれない。

「だから僕には、クリスターが逃げたとは思えない」

 ロックはふたりに考えを述べた。

 そうであって欲しいという願望もあるが、何より仕立て屋としての経験から思う。

「三十着分のローブ、あるいはその材料の布地は今、この部屋にはない。でもそれ全部を抱えてひとりで逃げるなんて無理だよ。大荷物になる」

 例えばエベルのように特別な力がある人間ならともかく、クリスターは見るからに優男だった。

 あの腕が三十着分を抱えて、誰にも見られず逃げおおせたとは考えにくい。

「納品はしたけど、帳簿に書く暇がなかったって可能性は?」

 フィービは用心深く、そう口にする。

「よっぽど急いでいて、書けなかっただけかもしれないわ」

「それならあの日――クリスターが僕の部屋に来た次の日、露店を出す暇だってなかったはずだよ」

 短い時間ではあったが、あの日もクリスターは商売をしている。

 だからこそロックの店に面倒な客が押し寄せてきたのだ。

「それに貸本のこともある」

 根拠はさておき、ロックがクリスターを信じたい理由はこれだった。

「逃げようって考えてる人が、こういう本を借りるかな」

 南方について書かれた数冊の本を拾い上げる。

 歴史、文化と風土、更には子供向けの歌の本まで、彼が南方に興味を持っていたことは明らかだ。


 あのクリスターが貸本屋の商売をどう捉えていたかはわからない。彼のことだ、借りるだけ借りて放っておこうと思ったかもしれない。

 だがそうだとしても、この本を選んだ理由はニーシャの為に違いない。


「でも、逃げたんじゃないとすれば……」

 フィービは栗色の髪をかき上げ、息をついてから続けた。

「相手は複数よ。それも手慣れた連中だわ」

「フィービ、どうしてわかるの?」

「床を見なさい。外に血痕があったのに、中はきれいなものじゃない」

 つまりもし、クリスターが何者かに害されたのだとすれば――。

 相手は成人のクリスターを攫い、三十着分のローブと裁縫道具を持ち出し、さらには汚れたかもしれない床をきれいにしていくだけの余裕があったということだ。

「だとしたら、不気味なくらい手際がいいね」

 ここで起きたかもしれない事態を想像し、ロックは身震いをした。

 その肩にエベルが優しく手を置く。

「納品がされたとしてもそうではなくても、顧客を突き止める必要はある。我々の知る限り、クリスターが最後に会った人物には違いないからな」

 それにはロックも、フィービも頷いた。

「そうですね。どうにかして見つけられたら……」

「手がかりは乏しいけどね。せめて刺繍の意匠でもわかれば……」

 親子が顔を見合わせ、互いに眉根を寄せた時だ。


 不意にエベルが金色の目を、傾いだドアが作る隙間へ向けた。

「――誰か来る」

 人狼閣下が捉えた音は、ロックの耳にはまだ聞こえない。

 フィービも同じだったようだが、次の行動は素早かった。ランタンの火を消して戸口から外を窺う。

「まだ見えない……けど、潮時かもね。どうする?」

「屋根へ逃げよう。誰であれ、ここにいるのを見られてはまずい」

 エベルはそう言うと、壊れたドアを軋ませないように押し開けた。

 それから後に続こうとするロックに対し、小声で告げる。

「声を立てないように」

 前もって注意をされたおかげで、ロックは腰を抱き寄せられてもすんでのところで声を上げなかった。エベルはされるがままのロックを片腕で抱え、易々とクリスターの小屋の屋根へ上る。

 それからもう片方の腕でフィービを引き上げ、三人は屋根の上に伏せて息を潜めた。


 足音と、ランタンの灯が近づいてくる。

 街灯の光が消え、星明かりも差さない路地の向こうに、ロックは黙って目を凝らした。

 すると程なくして現れたのは、鎧の上にサーコートを羽織った市警隊の警邏兵だった。

 恐らくは見回りをしているのだろう。辺りを照らしながらこちらへ歩いてくる。かと思うとクリスターの小屋の前で立ち止まり、ちらっと壊れたドアに目を向けた。

 感づかれるだろうか――ロックは息を呑んだが、市警隊の兵は戸口を一瞥しただけだった。

 壊れたドアを不審がることも、入口の前に残された血痕に気づくこともなく、すぐにその場を立ち去った。


 彼の気配が完全に消えてから、屋根の上の一行は揃って息をついた。

「やり過ごせたな」

「怪しみもしないなんて、たいした仕事ぶりだこと」

 エベルとフィービは安堵していたようだが、ロックの心中は複雑だ。

「……なんだか、切ないな」

 そうぼやいて、ふたりから怪訝な顔をされた。

「クリスターの家がここにあるって、まだ僕らしか知らないんだ。あいつがいなくなったのに、この家はさっきみたいに見向きもされないまま、ずっと放っておかれるのかなって思ったらさ……」

 ロックのつぶやきに、エベルもフィービも暗い表情になる。

 このままクリスターが戻ってこなければ、この家は空き家として放置されることになる。宿無しに乗っ取られるならまだいい方で、無秩序な貧民街の住人に取り壊され、新しい掘っ建て小屋の建材にされてしまうかもしれない。

「ニーシャにここのこと、知らせちゃだめかな?」

 そう問うと、真っ先にフィービが首を振る。

「あの血痕を見たらかえって心配させるだけよ」

「やっぱり、そうかな……」

「持っていくなら、もっといい情報じゃないとね」

 そしてロックの頭を、慰めるように撫でてくれた。その口元には絆された笑みが浮かんでいる。

「こうなったらとことん、足取りを追ってやりましょうか」

「賛成だ」

 エベルも真剣な面持ちで賛同した。

「顧客の件が妙に気になる。誰が何の為にローブを仕立てさせたのか、こちらでも探ってみることにしよう」

「お願いします、エベル」

 あれだけの金を出せる者が貧民街の住人であるはずがない。その点についてはエベルに任せる方が適当だろう。


 三人は屋根から下りると、今夜はひとまず立ち去ることにした。

 その際、ロックはクリスターの売上台帳を部屋から持ち出した。まだ何か手がかりが残っているかもしれないからだ。

「他人の帳簿覗くのも気が引けるけどね」

「今更じゃないの」

 フィービはロックの言葉を笑い飛ばすと、自ら抉じ開けたドアを睨む。

「ここは一旦封じておいた方がいいわね」

 それからロックとエベルに向き直った。

「あんたたちは先に帰って。後始末はやっておくから」

「フィービ、ひとりで大丈夫?」

 ロックは不安がったが、それすらフィービは一笑に付す。

「誰に言ってんの。それにほら、こいつも返さないといけないし」

 そう言って掲げたのは火が消えているランタンだ。街灯は今や柱だけになって、小屋の裏手に突っ立っていた。

「任せてもいいのか?」

 エベルが尋ねれば、ふんと鼻を鳴らしてみせる。

「ええ。閣下こそ、うちの娘を無事に送り届けてくださいな」

「その点は心配ご無用。必ずやり遂げよう」

 勢いよく顎を引いたかと思うと、エベルは再びロックの腰を抱き寄せた。

 そしてロックが反応するより早く、地面を蹴って高く跳ぶ。着地した先は再び屋根の上だ。

「では行こうか、ロック」

「えっ、や、屋根の上からですか!?」

 これには堪らず、ロックも声を張り上げる。

 だがエベルは頓着せず、駆け出しながら答えた。

「地上を行くより安全だからな」

「かもしれませんけど――わあああああっ!」

 ロックの反論は悲鳴に変わり、それすらすぐに風に呑まれた。

 エベルは彼女を小脇に抱え、恐ろしいほど身軽に夜空の下を駆け抜ける。


 唸る夜風を聞きながら運ばれるうち、ロックの頬に冷たい雫が当たった。

 はたと気づいて首を持ち上げれば、空には灰色の雲が張り出している。そうしている間にも一粒、また一粒と、雨はロックの頬を打つ。

「エベル、雨のようです!」

 声をかけるまでもなく、彼も気づいていたようだ。

 走る速度を落として空を見上げる。

「あなたの部屋までもう少しあるが……強くなるだろうか」

 二人は一旦屋根から下り、傍らに立つ建物の陰に身を潜めた。

 帝都では雨は珍しい。一年を通して降水量は少なく、傘はもっぱら日傘として貴婦人たちに用いられている。

 久し振りの雨はさあさあと静かな音を立て、貧民街にも降り注いだ。

「フィービ、大丈夫かな……」

 ロックは真っ先に父を気にかけ、次いで先程までいた小屋のことを思う。

「あの血の痕も消えてしまいますね」

 察したように、エベルが目を伏せた。

「結局、あれを見つけたのは我々だけかもしれないな」

「ええ……。どうにかして、クリスター自身を見つけないと」

 あの男の為というよりは、ニーシャの為に。

 ロックは彼女にいたく肩入れしていた。その理由は言うまでもない。

 そっと隣を窺えば、エベルは軒下から空模様を探っている。鳶色の髪はしっとりと湿り気を帯び、彼の端整な横顔に幾筋か張りついていた。憂鬱そうな面持ちが、ロックの眼差しに気づいてふと緩む。

「止みそうにないな。ここはひとつ、私を信じてくれないか」

「どういう意味でしょう?」

「私があなたを濡らさずに部屋まで運んでみせよう」

 言うなりエベルは、またも予告なしにロックの身体を抱き上げた。

 今度は両腕で、横抱きにして胸の前に抱える。そうして見下ろされれば、その抱き方と顔の近さにロックは一人でまごついた。

「あ、あの、ここまでしていただかなくても!」

「無事に送り届けるようお父上にも言われている」

「でも、こんなの恥ずかしくて……」

「動いてはだめだ。私の首にしがみついてくれ」

 乞われてロックはおずおずと、両腕をエベルの首に巻きつける。

「そうだ、いい子だ」

 エベルは嬉しそうに微笑んだ。

 それから勢いをつけて軒下を飛び出し、雨に濡れた屋根まで跳躍した。

 身体を前に傾けて、ロックを雨粒から庇いながら駆ける。


 庇われる側のロックは、申し訳なさと気恥ずかしさに苛まれていた。

 それでもひた走るエベルから目を逸らせず、その顔を見つめ続けていた。

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