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未来への契り(2)

 ただでさえ入り組んだ路地を、エベルを追いながら歩くのは一苦労だ。

 エベルもその困難さを察し、ゆっくりと進んではくれた。しかし遮るものの少ない屋根の上と違い、地上は障害物が多すぎる。路地にまではみ出した掘っ建て小屋に、誰かが運んできて放置したままのガラクタの山、無秩序に張り巡らされた板塀もそうだ。

 おまけに辺りは薄暗く、無秩序に生えた建造物が街灯の光を阻んでしまう。


 ロックとフィービもこの道中、何度か袋小路にぶち当たった。

 その度にエベルから迂回路を指示してもらい、無駄に距離を歩く羽目になった。

「全く、羨ましいくらいに身軽ね」

 路地から夜空を見上げたフィービがぼやく。

 ちょうどその時、ふたりの頭上をエベルが飛び越えていった。鳶色の髪をふわりと浮かせ、苦もなく大跳躍を見せた彼の姿は、惚れ惚れするほどしなやかだ。

「フィービもあのくらいならできるんじゃない?」

 リーナス邸に助けに来てくれた時のことを思い出し、ロックはそう言った。

 途端にフィービが苦笑する。

「立て続けには無理よ。閣下はまさに人間離れしてるわ」

 それから少し奇妙そうに呟いた。

「でも不思議よね。あのお姿のままでもあれほど敏捷だなんて」

 ロックも同じように思う。

 エベルは人狼にならなくても、常人とは比べものにならない身体能力を有している。体躯はあくまで中肉中背、フィービの方がよほど逞しい体格をしているのにもかかわらずだ。


 そしてふと、違う記憶も蘇る。

 古代帝国時代、圧政に苦しむ人々が人狼の力に縋った話を、ロックはフィービから聞いていた。

 たとえ対抗し得る力だとしても、姿かたちを変えてしまう呪いに頼るのは愚策だと、その時は思ったのだが――もしも人狼の力が、人の姿のままでも発揮されるものだとすればどうだろう。

 人狼教団なるものが本当に追い求めたのは、人の姿のままでも発揮される力の方だったのかもしれない。

 建物を渡り歩くエベルを追い駆けつつ、ロックは漠然とそんなことを考えていた。


 とりとめもない考えは、やがてエベルの声で打ち切られた。

「……ここのようだ」

 屋根の上から見下ろす彼が言う。

 そこはいかにも貧民街らしい、雑然と路地裏だった。エベルが指差す先に二軒の掘っ建て小屋があり、ロックたちが辿ってきた道に斜めにはみ出して建っている。

 道から見て手前側が平屋建て、奥にあるのが二階建てだ。

 平屋建てのすぐ真裏には街灯が立っていて、その光が遮られるので小屋の前はどうにも薄暗い。

「ここにクリスターが入っていくのを二週間前に見た」

 エベルが平屋建ての方を指差した。


 それでロックは建物を観察してみる。

 工房として使っているわけではないのか、看板も何も出ていない。窓はひとつだけあったが鎧戸が下りていて、中を覗くことはできなかった。

 もちろん入口の扉も閉まっていて、耳を当てても物音ひとつ聞こえない。


「失礼ですけど、ご記憶に確信はおありで?」

 フィービが慎重に尋ねると、エベルは深く頷いた。

「彼の家は平屋建てで、入っていったその後にそこの窓に明かりが点るのを見た。隣家は二階建てで、屋根にその影が落ちていた。真後ろには街灯が立ち、恐らくはもともと道だった場所に小屋を建てたのだと推測できた」

 その詳細な説明にフィービも納得がいったようだ。

「素晴らしい記憶力ですこと」

「ありがとう、フィービ」

 称賛を贈られたエベルは嬉しそうに屋根から飛び降りた。

 全く危なげなく着地した後、ロックたちに向き直る。

「さて、主人は不在のようだがどうする?」

「一応、ドアを叩いてみましょうか」

 ロックはそう言って、小屋のドアを拳で三度叩いた。

 それからしばらく待ってはみたが、案の定反応はない。

「仕方ないわね、ドアを破りましょうか」

 フィービがドレスの袖をまくり上げると、筋骨隆々とした腕が覗いた。

 それを頼もしく思いつつ、ロックは口を挟む。

「待って、先に火を起こそう。留守なら明かりもないだろうし」

 窓に下りた鎧戸は粗雑な造りで隙間がある。

 だがそこから光が漏れていないことから、室内は真っ暗だとわかる。

「それなら、あれを借りればいい」

 エベルが街灯を目で指し示した。

 帝都の街角に立つ街灯は、油を燃やすランタンを針金で括ったものだ。当然、針金を解いてしまえばランタンを外すことができる。一般人なら梯子でもなければ届かぬ高さだが、エベルにそんなものは必要ないだろう。

「そんなことして市警隊に怒られないかな……」

「あとで返す。少し借りるだけだ」

「そうそう。見つかる前に返せばいいのよ」

 ロックは懸念を示したが、エベルの言葉にフィービもあっさりと同意を示す。

 この二人、意外と気が合うのかもしれない――ロックは苦笑しつつ、二人に従うことに決めた。


 エベルは難なく街灯からランタンを外し、持ち帰ってきた。

 暖かな色の光が三人の周りと入口の扉を照らす。無性にほっとするロックとは対照的に、ふとフィービの顔がこわばった。

「見て」

 彼がブーツの爪先で示した先、扉の前の石畳に何かが落ちている。

 初めはボタンか何かかと思った。

 だが灯の下に晒されて、それが小さな血痕だとわかった。

「……まさか」

 ロックは言葉に詰まる。

 血の痕は既に乾いて変色しており、少なくとも昨日今日のものではないようだ。

「急いでドアを破ろう」

 エベルの要請にフィービが頷き、力の限りドアノブを捻じり上げた。

 掘っ建て小屋のドアが歴戦の傭兵に敵うはずもなく、悲鳴のような軋みを立てて外れる。傾いだドアの隙間から、三人は中になだれ込む。


 だが想像に反して、小屋の中はきれいなものだった。

 床には血痕どころか何も落ちてはおらず、誰かが掃き清めていった後のようだ。

 室内の調度は簡素な寝台と木炭のかけらが転がる作業台、それにいくつかの戸棚と机がある程度だった。ずっと閉ざされていた割には黴や埃の匂いはせず、どこかで嗅いだような甘い香りが充満している。

「誰もいないね」

 小屋の中を見渡した後、ロックはごくりと息を呑む。

 クリスターはあんな痕を残して、一体どこへ消えたのだろう。無論、あれが彼のものだと決まったわけではないが――。

「誘拐か夜逃げか、どっちかしらね」

 フィービが片眉を上げる。

「多分、前者だよ」

「どうしてそう思うの?」

 問われたロックは、恐る恐る作業台に歩み寄った。

「これ、なんだけど」

 そこに残されていた木炭のかけらを取り上げる。

 ロックが持っている炭筆と同じように、印を描きやすいよう切っ先を細く削ってあった。

「それは炭筆か?」

 エベルもランタンを手についてきて、怪訝そうに尋ねてくる。

「ええ、そうです。布に印をつけるために用いる裁縫道具です」

 答えたロックは確信を持って続けた。

「仕立て屋なら、逃げる時でも裁縫道具は置いていかない」

 同業者だからわかる。仕立て屋は身ひとつだけで食い扶持を稼ぐことはできない。

 クリスターも使い慣れた道具がなくては商売にもならないだろう。

「なるほどね……」

 唸るフィービの表情が険しくなる。

 夜逃げよりも誘拐の方が事態は深刻だ。もしかすれば今、この時でさえクリスターは生命の危機に瀕しているかもしれない。

「だが他の道具は見当たらないな」

 エベルは顔を顰め、作業台をつぶさに眺める。

「炭ならどこでも手に入るから、あえて持っていかなかったのか。あるいはこれを裁縫道具と知らずに置いていった者がいるのか……」

 彼の言葉通り、木炭の他には裁縫道具が見当たらない。

 針山や巻尺、鋏や目打ちなどは作業場にあって当然だし、クリスターは端切れやボタンも売り物にしていたはずだ。それらの品々が見当たらない。

「他の道具もしまってあるのかもしれません。確認しましょう」

 ロックはふたりを促し、家捜しを開始した。


 たったひとつしかないランタンの灯を頼りに、三人は室内を捜し回った。

 だが他の道具は見当たらず、端切れやボタン、売り物の服なども出てこなかった。

 見つかったのは戸棚の中で萎びていたリンゴと古びたパン、それに机の下に雑然と詰まれた本くらいだ。水瓶に張られた水には埃が落ちていて、長い間使われていないことも窺えた。

「あいつ、本なんか読むのね」

 フィービが屈み込み、机の下から本の山を引っ張り出した。

 そこにもうっすらと埃が積もっていたが、丁寧に払って一冊一冊確かめていく。

「南方の歴史書、風土や文化についての本、それに古い子守唄の本……」

「ニーシャの為に揃えたのかな?」

 ロックが声を明るくすると、フィービは反応に困ったようだ。

 娘の顔をちらりと見てから微笑む。

「かもしれないわね」

 それから本をぱらぱらとめくり、見返しに記された一文に眉を顰めた。

「これ貸本じゃない。早く返さないと高くつくのに」

 帝都では書物は貴重な品だった。一冊一冊写本をして、手間を費やし作り上げるものだからだ。

 庶民が気軽に購入できるはずはなく、その代わりに帝都のあちこちで貸本屋が営まれている。ロックは本を読まない質だが、フィービはよく足を運ぶそうだ。

「全部そうかな。返しといてあげる?」

「やめときなさい、あんたが払うことになるわよ」

 ロックとフィービは全ての本を検めたが、どうやらほとんどが貸本だった。

 そして貸本ではないものが、本と本の間から床に滑り落ちた。

「……これは?」

 エベルがそれを拾い上げ、ランタンを掲げて表紙を眺める。

「『売上台帳』……彼の帳簿のようだ」

 明らかに本とは違う、紙を紐で閉じた簡素な帳面だ。

「これはあなたの専門だろう、ロクシー」

 エベルが差し出してきた帳簿を、ロックは張り切って開いた。


 あの仕事ぶりとは裏腹に、クリスターは帳簿をまめまめしくつけていたようだ。

 売上も必要経費も事細かに記されており、仕立て屋としてそこそこの利益を上げていたことが窺える。単純に客数だけ見れば『フロリア衣料店』よりもよほど多く、ロックは若干の嫉妬を覚えた。

 だが今は些末なことだ。

 問題の大口の仕事とやらは約一ヶ月前、ちょうどニーシャがクリスターと会わなくなった頃に記載があった。

 青地のローブを三十着。素材は朱子織の毛。特殊な刺繍を入れるよう注文があったらしいが、具体的にどんな刺繍かは記されていない。

 そしてその顧客については名前こそないが、かなり金払いのいい客だとわかる。


「注文を受けたその日に、代金を全額支払ってる」

 ロックは帳簿から得た情報をフィービとエベルに説明した。

「しかも相場の十倍です。気前がいいどころの話じゃない」

 クリスターも多少吹っかけたところはあるのだろうが、これだけ支払われれば有頂天にもなるだろう。

 おまけに数日に一度、経費という名目で同じくらいの額の収入があった。これもクリスターが言い出したのか、客の方からかはわからないが、それだけ払えるほどの資産家が相手ということだ。

「並みの小金持ちではないわね。豪商か、貴族様か……」

 フィービが横目でエベルを見やる。

 エベルも頷き、答えた。

「私なら払えぬ額ではないが、やり口に品性がないな」

 それから彼はもう一言続けようとしたようだが、次の瞬間、貴族らしい上品なくしゃみをした。

 そして恥ずかしそうに詫びてくる。

「済まない。どうも先程から鼻につく匂いがしていて……」

「ああ、そうね。この匂い、妙に偉そうで苛々するわ」

 フィービも顔を顰めた通り、クリスターの部屋には甘い匂いが立ち込めていた。

 木を燻したような、ほのかだが独特の香りだ。

 ロックもその香りを、かなり昔に嗅いだことがあるような気がした。

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