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夜が明けたらくちづけを(5)

 眠れるはずがないと思っていたロックだが、疲労には打ち勝てなかった。

 伯爵家の客室に置かれた寝台は非常に寝心地がよく、いつの間にか泥のように眠り込んでいた。


 そして目が覚めた時、室内には蝋燭の炎のような陽光が差し込んでいた。

 見慣れぬ天井に一瞬戸惑い、身じろぎしようとすれば節々が軋むように痛んだ。それでゆっくりと思い出す――ここは自分の部屋ではない。貴族特区のマティウス邸だ。

「起きたか」

 傍らで、十分に聞き慣れた声がした。

 ロックがそちらに目をやると、フィービが顔を覗き込んでいる。寝台の横に椅子を引き、どうやら傍についていてくれたようだ。

「僕、ずっと寝てた……?」

 そう問いかけてはみたが、答えを聞くよりも先に喉の渇きで実感した。随分と長い間眠りこけていたようだ。

「もう夕方だ」

 フィービが窓を顎でしゃくる。


 帝都の空はこっくりと深い夕映えに染まっていた。日の終わりを知らせる橙色の陽光が、二人のいる室内にも鋭角的に差し込んでいる。

 少し眩しくて、ロックは視線をフィービに戻す。


 改めて見てみれば、フィービは栗色の髪を下ろしていた。身に着けているのもあの革鎧ではなく、見覚えのないシャツと吊りズボンだ。

「ああこれ、閣下に貸してもらった」

 ロックの視線を受けて、フィービが答える。

「ドレスがいいって言ったのに、俺に合うのはないってよ」

「そりゃそうだよ」

 マティウス邸にいる婦人はヨハンナだけだ。長身のフィービが着られるドレスなどあるはずもない。

 羽織ったシャツはボタンが閉まらないのか、上から三番目までが開いていた。ズボンの裾からは逞しいふくらはぎが覗いており、全体的にとても窮屈そうだ。服自体の仕立てはいいので、恐らくはエベルの持ち物だろう。

 彼のことを考えると胸の奥がむずむずしてくる。ロックは寝台に身を起こし、それとなくフィービに尋ねた。

「僕が寝てる間に何かあった?」

 フィービは眉を顰めて答える。

「グイド・リーナスが元に戻ってた」

「元に? 人間の姿にってこと?」

「ああ。さっき気がついて、今は閣下が傍にいる」

 だがそれも、恐らくは姿が戻ったというだけだ。人狼の呪いが解けたわけではないのだろう。

 ロックが難しい顔をしたからか、フィービも複雑な面持ちになる。

「それとな、ミカエラ嬢の到着は今夜遅くになるそうだ」


 兄妹が顔を合わせる時、どんな会話がなされるのか。ミカエラは呪われたグイドにどんな言葉をかけ、それを目の当たりにするエベルは何を思うだろうか。ロックは密かに胸を痛めた。

 ただ、エベルと約束をした。

 その時には自分が傍にいる。


「なら、そろそろ起きないとね」

 ロックは気持ちを切り替え、寝台の上で伸びをする。

 節々の痛みは残っていたが、たっぷり寝たお蔭で疲れは取れたようだ。すると今度は空腹を覚え、照れながら言い添える。

「ミカエラ嬢がいらっしゃる前に、軽く何か食べときたいな」

「そう言うと思って、いい物を用意しといた」

 フィービが得意げに笑んで、寝台側の小卓に置かれていた遮光瓶を取り上げる。

 見る限り、酒瓶のようだ。

「閣下がいいって言うから貰ってきた。値打ちものの葡萄酒だ」

 どうやら飲むつもりでいるらしい。

 そういう約束も確かにしていた。

「フィービが取っておいてるやつよりも?」

 ロックが聞き返すと、彼はにやりとしてみせる。

「どうだろうな。飲み比べてみようぜ」

 それから少し照れくさそうに、こう付け足した。

「聞きたいことあるんだろ。俺も、話したいことがある」

「……うん」

 ロックは深く頷いた。


 三階の客室には大きな張り出し窓がある。

 フィービはその窓を開け、小卓を窓辺に引き寄せ、その上に酒瓶と杯、それにいくつかの食べ物を並べた。

「小間使いがまだぐうぐう寝てるからな」

 ということで、食べ物は全て作り置きか生のものだ。硬いパンと山羊のチーズ、干した木の実、それにリンゴなどだが、空腹のロックの目にはどれもごちそうに見えた。


 二人は窓辺に寄りかかり、葡萄酒を注いだ杯を掲げ合う。

 フィービはそのままためらいなく口をつけたが、ロックはまず匂いから確かめた。自分の髪色によく似た酒は、生の葡萄とはまた違う香りがする。

 試しに口に含んでみると、やはり葡萄の果汁とは少し違う味がした。舌にちりっと焼きつくような、深い、芳醇な酒の味だった。

「思ってたより美味しい」

 ロックが素直な感想を述べると、フィービはおかしそうに笑った。

「いい酒だからな。ま、うちにあるやつほどじゃないが」

 そして、杯を傾けるロックを慈しむ眼差しで見つめる。

「それはまた、もっと大事な記念の時に開けるか」

「大事な記念ってどんな時?」

「いろいろあるだろ、この先」

 返答を濁したフィービの髪を、夕風がそっと撫でていく。

 窓辺からはマティウス邸の庭と、暮れなずむ街並みがよく見えた。星がちらつき始めた空の下、残照を浴びる貴族特区と皇帝の居城はひときわ美しかった。初めて来た時は物珍しいばかりだった風景を、今は不思議な感慨と共に眺めている。

 初めての葡萄酒をちびちびと、舐めるように味わいながら。

「お酒なんか飲んじゃって、酔っ払ったりしないかな」

 ロックが冗談交じりに懸念を示せば、フィービは澄まして答える。

「それはないな。どっちに似ても酒には強い」

「へえ」

「特にベイルは相当強かった」

「嘘っ」

 母の意外な逸話にロックは声を裏返らせた。


 思えば母が酒を飲む姿は一度も見たことがない。

 父とはよく飲んでいたのだろうか――ロックはまだ信じがたい想いでフィービを見上げる。


 フィービはもう一度杯を傾けてから、薄く笑った。

「何から話すかな……。何から聞きたい?」

 ロックも聞きたいことは山ほどある。

 だが、一番聞きたいのはやはり、

「母さんとの馴れ初め!」

「……そんな大した話じゃねえぞ」

 恥ずかしさからか、フィービは気まずげに髪をかき上げた。

 もう一口、葡萄酒を飲んでから話し始める。

「ベイルとは、傭兵時代に仕事で知り合った」

 そうだと思った。

 パンをかじりながら頷くロックに、ふとフィービは意外なことを尋ねてきた。

「あいつの本名聞いたことあるか?」

「本名? ベイル・フロリアじゃなくて?」

 それが母の生まれ持った名前だと思っていた。

 だがそうではないらしい。

「フロリアは母方の姓だそうだ。あいつの本名はベイリット・アレクタス。帝都の下級貴族の娘だった」

 とんでもない情報がフィービの口から飛び出して、ロックは危うくパンを取り落とすところだった。

 慌てて全部頬張り、飲み込んでから聞き返す。

「嘘……だよね?」

「こんな時に嘘なんてつくか」

 フィービはたしなめるように苦笑した。

「もっとも、いろいろあって出奔したからな。あいつはもうアレクタス家の娘じゃないことになってる。お前にややこしい話が降りかかってくることもない」

 だとしてもロックにとっては衝撃の事実だ。

 母が帝都出身で、しかも貴族の娘だったとは。自分にそういう血が流れているとはとても思えない。

「駆け落ちでもした?」

 出奔と言えばそういうことだろう。当たりをつけて追及するロックに、しかしフィービはかぶりを振る。

「そんな危なっかしいことできるか。俺だって追い駆けてくるとは思わなかった」

「母さんが自分で家を出てきたの?」

 言葉尻を捕まえて、ロックは尚も突っ込んだ。

「それって当然、好きになったからだよね?」

 フィービは答えにくそうに目を逸らす。

「まあ……そういうことだろうな」

「ふうん」

「にやにやすんな、ロクシー」

 骨張った大きな手が、葡萄酒色の髪をくしゃくしゃ掻き混ぜる。くすぐったさにロックが笑うと、フィービも少しだけ笑った。

「でもな、こっちの事情はそれほど単純じゃなかった」


 それから少しの間、フィービは黙り込んでいた。

 髪を下ろし口を閉ざせば美女と見まごうほどの、非の打ちどころのない美貌の持ち主だった。次第に消えていく残照の下、その横顔にロックもしばし見入る。

 母がどんな思いで彼を見つめていたのか、知りたいと思った。


 夕風が夜風に変わり始めた頃、

「……俺はな」

 最も言いにくいことを口にするように、フィービが重々しく切り出した。

 気を紛わす為だろうか。リンゴを一つ手に取って、きれいに二つに割ってみせる。

「物心ついた頃からずっと、自分が男か女か、わからないと思ってた」

 その告白を、ロックはリンゴの片割れと共に受け取った。

「そうなの?」

「ああ。髪を伸ばしたいと思ってたし、ドレスを着てみたいと思ってた。品のない男のガキとつるむのは嫌だったし、でも女にべたべたされるのも嫌だった。故郷を出た理由も、そういうのに囚われない生き方をしたかったからだ」

 フィービにとって、それらはあまりいい思い出ではないらしい。人種の坩堝のような帝都ですら、フィービを笑う者もいるほどだ。他の街ではどんな扱いを受けたかわかったものではない。

 リンゴを三口でぺろりと食べてから、彼は首を傾げる。

「だからな、ベイルと出会った時もまさかと思ったんだよ。相手はどう見ても女らしい女ってやつだし、まさか惚れるはずがないってな」

「でも惚れちゃったんだね」

 同じくリンゴをかじりつつ、ロックは追及の手を緩めない。

 それでフィービが恨めしげに睨む。

「仕方ないだろ。追っ駆けてこられて、帰れって言っても帰らなくて、女みたいな俺でもいいって言い張るんだからな」

「押し切られちゃったんだ」

「そういうことになる」

 その時の両親のやり取りを、直に見てみたかった。

 ロックはそこでふと、フィービが過去に言っていたことに思い至る。

「でもさ、前に言ってなかった? 結婚前に手を出す男はろくなもんじゃないって」

 あれはエベルを部屋に泊めた時のことだ。

「僕にはそう言っといて自分は、ってことないよね?」

 鎌をかけてみただけだったのだが効果は覿面、フィービはしてやられたという顔でロックの頬を拳でぐりぐりした。ひゃあ、とロックは声を上げ、フィービは笑って頬を優しく撫でてくれる。

「……ろくでもなかったのは事実だけどな」

 それからぽつりと言った。

「最期には、一緒にいてやれなかった。最低だろ」


 ロックとしても、一番気になっているのはそこだ。

 ずっと、自分と母は捨てられたのだと思っていた。

 だが父は母を、そして娘のロックを愛してくれていた。そして母も、父を最後まで愛していた。

 そんな二人がなぜ、別れなくてはいけなかったのだろう。


「どうして一緒に暮らさなかったの?」

 ロックが核心に触れると、フィービは杯の中身を一気に空けた。

 深く息をついてから答える。

「簡潔に言えば、俺が振られたんだ」

「え!?」

「ベイルには貧民街での暮らしは合わなかった」

 更に溜息。

「家を出てきたあいつは、貧民街で仕立て屋の店を出した。俺は一緒に暮らしながらその仕事を手伝ってた。だがあんな治安の悪いところで商売をするのに、ベイルはちょっと人が好すぎた」

 母に貧民街が合わなかったのはわかる気がする。

 田舎娘のロックですら、たった数年で立派な守銭奴に成長したほどだ。ロックよりもおっとりしていた母が馴染めたとは思えなかった。

「だから俺は市民権を買うつもりでいたんだ」

 フィービが、少し苦々しげに語る。

「そうすれば帝都の中、商業地区に店が出せる。だがその為には多額の金がいる。だから俺は傭兵稼業に戻り、手っ取り早く金を貯めようとした」

 そこまで聞けば、ロックにも両親の別離の理由に察しがついてきた。

「母さんはそれが嫌だったんだね」

「ああ。俺が帰って来なくなるんじゃないかと思ったらしい」

「きっと怖かったんだよ。何かあったらって、心配で」

 今ならロックにもその気持ちがわかる。

 だがその頃、フィービにはわからなかったのかもしれない。

「俺はいつでも、帰ってこないつもりなんてなかったのにな」

 寂しそうに呟いて、窓の外に浮かぶ遠くの星に目を馳せた。

「お前が生まれて、ベイルは遂に決心したようだった。俺に傭兵を辞めさせるには、自分が帝都を離れるしかないって。一緒に行くと言っても断られた。俺には自由に生きて欲しい、そう言って――出ていった」

 家族がいる限り、フィービは稼ぎのいい傭兵の仕事を続ける。

 きっと母はそう思って、彼の元を離れたのだろう。

「追い駆けようって思わなかった?」

 ロックの問いに、少しためらった後でフィービは答えた。

「思った……というより、何度か会いに行った」

「嘘!? あの村に来てたの?」

「ああ。人目につかないように、こっそりな」

 今度の溜息はどこか切なげに響いた。

「俺に気づくとベイルはいつでも笑いかけてくれたが、でもどうしてか、傭兵辞めてないことは見抜くんだよ。会えば会うほど心配かけた。本当にろくでもねえな」

 空いた杯に二杯目の葡萄酒を注ぎながら、自嘲気味に続ける。

「でも俺は辞められなかった。市民権が買えるほど金が貯まったら、迎えに行こうと思ってた。ここ何年かは大きい戦争もなくて、なかなか稼げなくなってたけどな」


 その頃に請け負った仕事がマティウス伯の依頼した遺跡探索だったのだろうし、そこで貯めた金こそが『遺産』としてロックに譲られたものだったのだろう。

 真実を知れば知るほど、ロックももどかしいような、切ないような思いに囚われた。

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