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男装婦人の恋と憧憬(2)

 出てきた意外な名前に、ロックは当然、困惑した。

「ええと……フィービが、何か?」

 今の話題はロックの父フレデリクスについて、だったはずだ。

 フィービは無関係ではないとは言え、少々唐突な話題の転換に思える。

 だがエベルは尚も気遣わしげに、ゆっくりと切り出した。

「彼女は元傭兵で、あなたのお父上ともその時に出会ったとのことだったな」

「ええ、そう聞いております」

「だが調べたところ、フィービという名の傭兵を知る者が見つからない」

「見つからない……?」

 ロックが目を瞬かせると、エベルは言葉を選ぶように間を置いて、それから続ける。

「これまでに十数人の傭兵、及び元傭兵から話を聞く機会を得た。彼らの中にはあなたのお父上フレデリクス・ベリックのことを知る者が大勢いたが、一方でフィービのことは一様に『知らない』と答えた」

 まずエベルがそれほどの傭兵に当たっていたという事実に、ロックは驚いた。

「そんなに大勢の方に聞いてくださったのですか? お手数をおかけしました」

「他にも聞きたい話があったから、そのついでだ」

 エベルは一旦微笑んだが、しかしすぐに硬い表情に戻る。

「だが、フィービのことは予想外だった。以前見たあの身のこなし、体術の巧みさ、並みの傭兵ではああはなるまい。さぞかし名を馳せたはずだと思ったが――目下、フィービという名の傭兵を知る者には出会えていない」

 そこで言葉を区切ったエベルには、まだ何か言いたいことがあるようだ。

 しかし、それを言うには躊躇があるらしい。ロックを映す金色の瞳は何かの感情に揺れていた。


 ロックはその瞳を見つめ返しつつ、少々怪訝にも思っていた。

 なぜ彼は、それほどまでにフィービのことを気にしているのだろう。

 傭兵を生業にする者は帝都に大勢溢れているし、ろくに仕事もせずそう名乗っているだけの存在も含めれば、それこそ星の数ほどいる。たかだか十数人に尋ねて行き当たらなかった程度で、フィービが傭兵ではなかったという証拠にはなるまい。


「たまたま、フィービを知る人と出会えなかっただけでは?」

 だからロックはそう尋ねた。

「そうかもしれない」

 エベルもすんなりと認めたが、だが振り払えない疑念があるようだ。

「だが、あなたのお父上のことを知っている者がこれほどいたのに、彼と近しいフィービのことを知る者がいないのは引っかかる」

 確かに、妙と言えば妙な話だった。

 フィービから聞いた話によれば、父フレデリクスとは共に仕事に臨んだこともあったそうだ。それが恒常的なものだったかまでは定かではないが、話を聞いた時、ロックはフィービと父が仕事の上でも近しい相棒同士だったのだろうと思った。無論、事実が異なるものであったとしても、フィービが嘘をついたということにはならないが。

 もしもフィービが傭兵ではなかったとすれば話は別だが、そうなるとなぜ嘘をついたのか、そこがわからない。

「エベルは、フィービが傭兵ではなかったとお思いなのですか?」

 そこで追及してみれば、エベルは難しげな顔つきになる。

「いや……そうではないのだが」

「歯切れが悪いですね。それとも、僕が聞いた父との馴れ初めに嘘があるとでも?」

 次の問いには、彼は答えなかった。唇を軽く結んで、だが何か探るようにロックを見やる。

 どうやら、こちらの方が正解に近いようだ。となればエベルの口が重い理由も察しがつく。彼が先程前置きした『好ましくない情報』というのも、父のというよりフィービについての話だったのかもしれない。

「フィービが嘘をついていて、それを知ったら僕が傷つく。エベルはそうお思いなんですね」

 ロックは更に問いを重ねた。

 金色の瞳が微かに瞠られ、その後エベルは首肯した。

「私は……ロック、あなたを傷つけたくはない」

 そう訴える彼は酷く切実そうだったが、ロックにはそれが大げさに思えた。

「平気ですよ。僕は、父のことではとうにたくさん傷つきました」

 捨てられたと知ったその日から、既に傷は負っていた。

 フィービという恋人がいたという事実もまた然りだ。

 そのフィービはロックの為に父の遺産を預かり、そして全額手渡してくれた。そして今も日々ロックを気にかけてくれている。

「それにフィービが嘘をついていたって、僕は何も困りません。彼女は僕を労わってくれます。それだけで十分です」

 もしフィービが傭兵ではなかったとして、ロックの父との馴れ初めに嘘があったとして、一体何が困るというのか。ロックはそう思っている。

「……そうか」

 ロックの答えを聞き、エベルはふと表情を和らげた。

 眩しいものを見たように目を細め、微かな羨望を込めて言った。

「あなたは彼を信頼しているのだな」

「彼? フィービをそう呼んでは失礼ですよ」

 笑ってたしなめると、そこではエベルは笑わなかった。だが急いで頷いた。

「そうだな。『彼女』だ」

「ええ。フィービのことは、そっとしておいてあげてください」

 彼女はロックにも多くを語りたがらないが、男の身体を持ちつつ女として生きることの難しさは男装のロックにもわかる。貧民街でも幾度となく、柄の悪いのに下品な言葉で罵られているのを見かけていた。その度に相手をこてんぱんに打ちのめすのがフィービだったが、喧嘩には強くても、心が傷ついていないはずはない。

 ロックだって、その貧弱さを馬鹿にされればやはり傷つくからだ。

「あなたがそう言うのなら」

 エベルは頷いたが、すぐにまた真剣な面持ちになる。

「だがロック、あなたはあなたの父について、どんな情報でも欲しいと言ったな」

「ええ。父のことは、是非」

「ならば、一つ。これは冗談などではなく、あなたを惑わす意図もない。ただ事実として考えてみて欲しいのだが」

 そしてそう前置きした後、不意にロックへ顔を近づけた。

 衣擦れのような音を立てて、互いの前髪が触れて重なり合う。眼前に迫る端整な顔、そして琥珀の輝きにも似た瞳の美しさにロックは硬直した。だがエベルはあくまでも真剣に、そして慎重に唇を動かす。

「あなたのお父上は、もしかすると――」

 もしかすると?

 その続きを予想することは、ロックにはできなかった。だからエベルの言葉をただ受け止めようと彼を真摯に見つめ返して――。


 だがその瞬間、『フロリア衣料店』のドアベルが鳴り響いた。

「ちょっとロック、まだ開店の準備ができてないじゃな――あら」

 現れたフィービは、カウンター越しに見つめ合うロックとエベルを認めた途端にその声を低くした。

 二人をまとめて一睨みした後、

「朝からお熱いことねえ、お二人さん」

 言葉とは裏腹に、実に冷ややかに言い放つ。

「ち、違うよフィービ、これは!」

 ロックは二重の意味で慌てたが、エベルは堂々としたものだ。フィービに向き直って悠然と笑む。

「今朝は早くに目覚めてしまったので、ロックの顔を見に来ただけだ」

「あらそう。でも残念ですが閣下、そろそろ店を開ける時刻ですの」

「それでは私はお暇しようか」

 フィービの鋭い視線にも全く動じないエベルが、そこでロックの手を取った。

「ところでロック、また二人で夕食でもどうかな。まだ話したいこともある」

「え? ええ、是非……」

 父についての話が終わっていない。『もしかしたら』、その続きを聞かせてもらわなくてはならない。そう思って頷けば、エベルは先程の真剣さを忘れたように意味深長な笑みを浮かべた。

「それでは夜に迎えに来よう。逢瀬が楽しみだよ、ロック」

 そしてロックの手の甲に素早く口づけると、軽く目配せをくれた後で踵を返す。

 エベルが店の戸口をくぐり、貧民街へと消えていくまで、ロックはただただ硬直していた。

「……あんたたち、今、どういう仲なの?」

 フィービが深々と嘆息するのも無理はない。

 そこでようやく我に返り、ロックはぼそぼそと答える。

「ど、どうもこうもないよ。閣下はうちの大事なお客様だし――」

「あんたは上客になら口づけを許すわけ?」

「そもそも許してないよ!」

 間隙を突かれてしまっただけだ。決して許してはいない。

 だが今のが、先日言っていた宣誓と親愛の口づけに当たるのかもしれない。微かに触れた唇の柔らかさが、かろうじてわかるくらいの優しい口づけだった。

 エベルはロックに、今朝は何を誓おうとしているのだろう。


 フィービが物憂げに見守る中、ロックはしばらくの間、彼の言葉の続きに思いを馳せていた。

 いくら考えてもわかるはずのない『もしかしたら』の続きを、呆然と考え続けていた。


 その日、『フロリア衣料店』の朝は慌ただしいものになった。

 店を開ける支度が何もできていなかった上、フィービはロックとエベルのことを怪しみ、しきりに探りを入れてきたからだ。

 彼女の追及をかわしつつ、大急ぎで開店の準備をするのはたやすいことでもなく、ロックはあたふたと時間に追われた。

 それでも朝から訪ねてくる客は多くない仕立て屋のこと、昼を過ぎる頃にはいつものような穏やかな店内に戻っていた――かのように見えた。


 だが朝の騒動を引きずるかのように、昼過ぎ、突如として店の前に馬車が停まった。

「あら? 馬車だなんて珍しいわね」

 フィービが呟いたように、貧民街の通りを馬車が走ることは滅多にない。ごみごみとして狭く入り組んだこの界隈を、馬を走らせ通り抜けるのは至難の業だ。だから車輪の音を聞くことさえ、普段なら稀なのだが。

「しかも上等な馬車よ。閣下……ではないわよね」

 窓の外を覗くフィービに倣い、ロックも外の通りを眺めた。

 店の前の道を塞ぐように停まっているのは、以前乗せてもらったマティウス家の馬車ではない。

「閣下なら走って来るんじゃないかな」

 人の姿でもロックを抱えて貧民街を駆け抜けられるエベルだ。馬車に乗って現れる姿は想像がつかない――ロックがそんなことを思った時だった。

 馬車の扉が開き、まず一人の男が姿を現した。

 大柄な立ち姿の、黒髪の男だ。その顔には見覚えがある。

「グイド・リーナス……」

「公爵子息? あいつ、何しに来たの?」

 ロックとフィービが揃って顔を顰める中、窓の向こうではグイドが馬車の中に向かって手を差し出した。

 その手を白い繊手が握り返したかと思うと、続いて女が姿を見せる。

 グイドと同じ黒髪の、妙齢の婦人だった。

「……あれは?」

「公爵令嬢と見るのが筋じゃないかしら。つまり、ミカエラ・リーナス嬢」

 ロックの呟きに答えたフィービは、そこでちらりとロックの表情を窺い、

「伯爵閣下の元婚約者、だったわね」

 と言い添えた。


 やがて『フロリア衣料店』のドアベルが高らかに鳴ったかと思うと、二人の貴族が店に入ってきた。

「ねえ、本当にこのお店でお仕立てを……?」

 戸惑いがちに店内を見回す令嬢は、ロックと同い年くらいに見える。

 わずかにあどけなさを残しつつも、柔らかそうな頬と可憐な面立ち、艶やかな黒髪を波打たせた美しい婦人だった。グイドとは髪の色以外似ておらず、特に彼が持つ厳格さ、冷徹さはこちらの婦人からは窺えなかった。

「ここでいいのだよ。この店はエベルが贔屓にしている」

 グイドがそう囁くと、令嬢はたちまち表情を明るくした。

「まあ、エベルが? それなら安心ね、お兄様」

 やはり彼女こそがミカエラ・リーナス――エベルの元婚約者にして、グイドの妹であるらしい。

 だが何にせよ貧民街の仕立て屋にそぐわない客であるのは間違いない。何か言いたそうなフィービを押し留め、ロックは自ら二人に歩み寄った。

「いらっしゃいませ、グイド様。本日はどのようなご用向きで?」

 するとリーナス兄妹は揃ってロックに視線を向けた。

 ミカエラの眼差しはどちらかと言えば好奇心剥き出しで、初対面のロックのことをつぶさに観察しようとしているそぶりだった。

 片やグイドの目は以前と同じように冷たく、侮蔑的で、ロックを見る様子は忌々しげですらあった。

「妹の為のドレスを仕立てて欲しい」

 だというのに、グイドはロックにそう依頼をしてきた。

「美しい妹をより一層美しくしてくれるドレスをだ」

「まあ、お兄様ったら……」

 顔を赤らめたミカエラには柔らかい笑みをくれた後、グイドはすぐに表情を戻し、傲岸に言い放つ。

「できれば、どんな頭の固い男も魅了して、落としてしまえるようなドレスがいい。頼めるか、仕立て屋」


 胸騒ぎがするのは、決してロックの気のせいではないだろう。

「……かしこまりました」

 恭しく一礼してから面を上げれば、視界の隅でフィービが顔を顰めていた。

 この客はやめておけ、と言いたいのだろう。

 だが拒めば拒んだでややこしいことになるのは目に見えている。それならばいっそ引き受けて、一時の不快感と引き換えにたんまりふんだくってやるのがいい。ロックはそう考えた。

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