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マティウス伯爵夫人の日常・休日編(1)

 ロックとエベルが劇場を出ると、外には午後の陽射しがさんさんと降り注いでいた。

 暗がりで舞台を眺めていた目に晴天の日光は眩しすぎる。思わずロックが手をかざすと、エベルがそっと傍に立ち、強い陽射しを遮ってくれた。

 夫の気配りに微笑で応え、ロックは口を開く。

「素敵なお芝居でしたね」

 その言葉に、エベルも満足気に頷いた。

「ああ、楽しめた。軽妙で、滑稽な筋書きだったな」

 それから多少気まずそうに続ける。

「あのヨハンナの薦めだからと、身構えてしまったのは失礼だったようだ」

「彼女の好みに合いそうな、賑やかなお話でした」

「全くだ。お蔭でよい時間を過ごせた」


 休日を迎え、二人は帝都の商業地区にある劇場を訪ねていた。

 帝都には宿屋と同じ数だけ劇場があると言われており、その規模も街の聖堂のように大きく立派なものから、十人も入ればいっぱいになる掘っ立て小屋まで様々だ。本日ロックたちが訪れたのはやや大衆的な類の劇場で、元は公衆浴場だったという円形の場内には、その壁沿いにぐるりと弧を描く石の客席が据えられていた。場内中央の舞台はどの席からも見えるようにやはり丸く作られており、壇上で繰り広げられる芝居を心ゆくまで見守ることができる。

 以前ヨハンナが語っていた通り、芝居の題材は男性同士の恋、そしてそれを熱烈に応援する婦人の物語でもあった。この婦人という者が実に厄介で、恋に悩む二人を導きたいという意思はあれど、片方を叱咤しすぎてこてんぱんに打ちのめしてしまったり、偶然の出会いを演出しようとして逆にすれ違わせてしまったり、挙句の果てには横恋慕をしていると勘違いされて二人の不和を招いたりと、なかなかの厄災ぶりを発揮していた。

 もちろん筋書きの軽妙さに違わず、最後はなぜか上手いこと転がって彼女の願いが通じ、二人は無事結ばれるのだが――。


「『壁になりたい』か……」

 鑑賞してきた芝居の題名を口にしたエベルが、そこで眉を顰めた。

「現実にああいう人物が恋路に横槍を入れてきたら、さぞかし厄介だろうな」

 彼は芝居の世界に相当どっぷりと浸ったようだ。もし現実だったら、などと想像し始めたのが何よりの証左だろう。

 ロックも初めての観劇で、喉がからからになるほどのめり込んでいた。劇場前に出ていた露店で水で薄めた果汁を買い、近くの公園の木陰に二人並んで腰を下ろす。そうして喉を潤した後、ロックは深く息をついた。

「エベルがそんなふうに考えるなんて意外ですね」

 そう言われて、エベルが怪訝そうに金色の目を見開く。

 その表情に小さく笑い、ロックは続けた。

「あなたならお芝居はお芝居、現実とは違うものだって考えるんじゃないかって思ってました。もし本当になったら、なんて想像を膨らませることもあるんですね」

「……他ならぬ、恋の話だからかもな」

 指摘を受けたエベルの顔に面映ゆそうな苦笑が浮かぶ。

「見ていて、全く他人事のような気がしなかった。もし私があのように、『協力』と称して横槍ばかり入れられたらと思うとさぞかし歯がゆいだろうなと」

 実感のこもったその言葉の後、彼はそっと首を振った。

「やはり恋とは二人きりでするものだ。第三者の介入など、善し悪しに関わらず歓迎するものではない。そう思わないか、ロクシー」

「そうですね……」

 頷けるところはある。ロックとてあの芝居のように、始終お節介を焼かれ続ける恋をしたいとは思わない。芝居としてはとても愉快で楽しかったが、だからといって自分がああいう目に遭いたいわけではなかった。

 恋とは二人きりでするもの、その言葉も間違ってはいまい。

 だが一方で、自らの来た道を振り返えれば、そうではなかったとも思うのだ。

「少なくとも僕の恋は、とても賑々しいものでしたよ」

 ロックはそう答えて、目を瞬かせるエベルを見やる。

「あなたと出会ってから、糸がより合わさるように多くの人達とも出会いました。リーナス卿やミカエラとはあなた越しでなければお話しすることもなかったでしょうし、伯母と伯父に辿り着いたのもあなたとのご縁あってこそです。皇女殿下とだって――」

 思い返せばロックの恋は、いつでも孤独ではなかった。

 伯爵閣下との身分違いの恋も、たった一人でなら思いつめたり、悩むこともあったのかもしれない。だが次から次へとやってくる出会いのお蔭で、あいにく悩む暇すらなかった。グイド・リーナスから手荒な妨害を受けたこと、その妹ミカエラとは温かい交流を育めたこともいい思い出だ。ラウレッタやプラチドとの対面は決して喜ばしいものではなかったが、その後は不思議と平和な付き合いができている。皇女リウィアを友と呼べる仲になれたのも、エベルの介在あってのことだろう。

 他にもヨハンナやイニエルといったマティウス家の使用人たちとは、当然エベルと出会えなければ縁もゆかりもなかっただろうし、あの仕立て屋クリスターと妙に仲良くなってしまったのも、元をただせば人狼の呪いあってのことだ。

「案外、現実はあのお芝居と大差ないのかもしれません」

 ロックは肩を揺らして笑う。

「もちろん、二人きりでする穏やかな恋は理想的です。でも実際はそう閉じたものでもなくて、いろんな人がいて、出会った人と気の合うことも合わないこともあって、その中であなたが今、僕の隣にいる。それが素敵なことだって思います」

 お芝居の世界ほど滑稽ではなくとも、ロックの周りもずっと賑やかだ。

 そのことを、こうしてエベルと過ごす今こそ幸いだと思う。

「確かにな」

 ロックの言葉を聞いたエベルは、いとおしげに目を細めてみせた。

「思えば我々の恋も、二人きりで穏やかに、というものではなかった」

「ええ。だからこそ思い出深いというのも事実でしょう」

「全く同意だ」

 深々と顎を引くエベルが、さらに続ける。

「現実が芝居よりもいっそう騒がしいのであれば、こうしてあなたと二人で過ごすひと時はいよいよ貴重だ。堪能しなければもったいないな……」

 木陰には柔らかな風が吹き込んで、彼の鳶色の髪をさらさらと揺らした。幹にもたれながらロックを見つめるエベルの表情はこの上なく満ち足りた、とろけるような笑顔だ。

 それをただ見つめ返していられる休日の午後を、ロックも幸福だと思っている。


 その後も二人は公園で芝居の感想を語りあっていたが、そこに不意の来訪者があった。

「伯爵閣下とあろうものが、奥方ともども地べたに座ってお喋りか。呆れたものだ」

 冷ややかさを装うからかいの言葉を投げかけてきたのは、グイドだ。

 隣にはミカエラの姿もあり、彼女は兄の発言にいち早く笑い声を立てる。

「お兄様ったらあれだけエベルとロクシーを探し回っておいて、最初に掛けるのが憎まれ口だなんて」

「グイド、私たちを探していたのか?」

 貴族特区ならともかく、商業地区の公園で会うとは思わなかったのだろう。目を丸くするエベルに、グイドは肩を竦めて応じた。

「ああ。屋敷を訪ねていったが留守で、あの帝都一やかましい小間使いにここいらの劇場へ行ったと聞いたからな。あとは声を頼りに探し歩いたまでだ」

「お兄様は近頃、格別に耳がいいんですもの」

 ミカエラが優しく微笑むと、それを見たグイドもまた相好を崩す。

「呪いを受けて、数少ないよかったことの一つだな」

 気がつけばグイドもすっかり人狼としての暮らしに慣れていたようだ。密かに安堵したロックをよそに、エベルは苦笑いで応じる。

「で、そうまでして私たちを探していた理由はなんだ?」

「何、大した理由ではない。お茶でもどうかと誘いに来たまでだ」

「それだけのためにわざわざここまで?」

 エベルは訝しそうだったが、グイドは平然と首を竦めた。

「そうとも。近頃、お前とはゆっくり話す機会もなかっただろう」

「まあ、それはそうだが……」

「それにお前はともかく、奥方とはまだ知り合って日も浅い」

 グイドの、エベルよりも鋭い金色の目がロックを見据える。その眼差しは以前より、幾分かは柔らかい。

「これから長い付き合いになるのだろうし、交友を深めておく必要があると思っている」

「お兄様はロクシーと仲良くなりたいんですって」

 まるで通訳のように、ミカエラが言い添えた。

 グイドとロックの関係は長らく、エベルを間に挟んでいても友好的であるとは言いがたかった。出会ったばかりの頃のグイドは明らかにロックを邪魔者扱いしていたし、ロックもそれで大きな仕事を一つふいにしている。その後は和解もし、時には同じ障害に対して協力関係を結んだこともあった。だがそれでもグイドの態度が目に見えて軟化することはなかったし、正直に言えばロックも彼とどう話していいのか未だに掴めていなかった。

 しかし彼との関係は、ロックとエベルの結婚を契機にようやく雪解けの時を迎えたようだ。

「仕立て屋はエベルの奥方というだけでなく、ミカエラにとっても大事な友人だからな」

 まだ名前を呼ばれる機会はほぼないのだが、それでも進展には違いないだろう。無論、ロックとしても大切な人の旧友と仲良くありたいという気持ちは強くある。

「お茶か……」

 エベルはちらりと妻の顔を見た。

 本日の予定は観劇だけで、この後に何か用事があるわけでもない。あとは家に帰るだけというところだったため、ロックとしては誘いに異存はなかった。

「伺いましょうか、エベル。僕もリーナス卿とはもう少し打ち解けておきたいと考えていたんです。あなたの大切なお友達ですから」

 そう切り出せば、エベルは得心した様子で微笑む。

「あなたがそう言ってくれるなら」

 それから、助言するように続けた。

「グイドは皮肉屋だが、言葉の裏を読めば存外付き合いやすい男だ」

「そうそう。お兄様はご婦人に接するのが苦手だから、つい言葉が鋭くなってしまうの」

 ミカエラが同調すると、たちまちグイドは唇を曲げる。

「苦手などということはない。私は婦人相手に美辞麗句を振りまかないだけだ」

「そういうことにしておきましょうか」

 くすくすとミカエラは笑い、その愛らしい表情を見たグイドが、困ったように頬を掻いた。

 兄妹の仲睦まじさは相変わらずだ。ロックも密かに微笑んで、それからエベルと共に立ち上がった。

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