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『彼』の最後の大仕事(6)

 ロックはヴァレッドの後を追い、城の中を進んでいた。

 エベルはロックひとりが連れていかれることに難色を示したが、ヴァレッドはそれを突っぱねた。

「連れていけるのはひとりだけだ。他の兵に見つかるとまずい」

 彼が衛兵の格好をしているところを見ても、この件は公にできる行動ではないようだ。不承不承ながらもエベルは馬車へ戻ると宣言し、ロックはヴァレッドに連れられて城の中を歩き出した。


 今はひと気のない廊下を進んでいるところだ。

 廊下に窓がないせいで、ここが城のどこなのか見当もつかない。ただ両側の壁はゆるやかに湾曲しており、城の丸い外壁に沿った造りであることは察することができた。先行して進むヴァレッドは徹頭徹尾無口だったし、ロックも彼と何を話していいのかわからず、とりあえず黙ってついていった。

 沈黙のうちに、いくつかの扉を通り過ぎた。

 そして突き当たりにこれまでとは違う扉が見えた時、ヴァレッドはようやく口を開いた。

「この先は本来なら立ち入りを許されぬ場所だ」

 彼の言葉どおり、目の前の扉は重厚な木製の両開きだ。長い時を経て黒ずんだ木目には建国史をかたどった彫刻がなされていて、この向こうにあるのが平凡な空間でないことは見て取れる。一方、扉の取っ手は光る真鍮でできており、曇りひとつない光沢から手入れが行き届いていることもよくわかった。

 ロックがヴァレッドを窺い見ると、彼は居丈高に命じた。

「いいか、特別に入れてやるのだ。私の言うことには従え」

「……はい」

「では目をつむれ」

 答えた途端に予想外の命令が飛んできた。

 唐突さに眉をひそめれば、ヴァレッドもまた苛立ちを見せる。

「早くしろ」

 どうやら従うしかないようだ。やむなくロックは目をつむる。

 にわかに不安がよぎった。彼は一度は自分たちを殺そうとした相手だ。まさかここまで来て彼に始末されるということは――恐怖を抑え込みつつ、瞼を下ろしていたのは三つ数えるほどの間だった。

「目を開けていいぞ」

 ヴァレッドの声がして、ロックは目を開けた。

 たちまち明るい陽の光が飛び込んできて、一瞬だけ視界が眩んだ。何度かまばたきをして目を慣らすと、周囲の景色が見えてくる。


 そこは上下に伸びる螺旋階段の途中だった。

 先程いた廊下よりも狭い円形の建物、その石壁に張りつくように階段が続いている。

 見上げれば少し先に天井があり、見下ろせばだいぶ遠くに床がある。ところどころに明かり取り用と思しき小さな窓が設けられていて、そこから射し込む陽射しは柔らかいのに吹き抜ける風は強く冷たい。


 山育ちのロックにはぴんと来るものがあった。

「ずいぶんと高い場所みたいだね」

「ここは城の尖塔だ」

 ヴァレッドは平然と答える。

「さっきまで、どこかの廊下にいたと思ったけど……」

「道を覚えられては困るからな。時を止め、お前をここまで運んだ」

「時を止めた?」

 にわかに信じがたいことを言われたようだが、ヴァレッドは甲冑の肩をすくめた。

「私には周りの時を止め、自分だけが動けるようにする力がある」

「それが祝福だって? でも、まさか……」

「その力がなければ、私ひとりでお前の父親とマティウス伯に勝つことはできなかった」

 言われてみれば『フロリア衣料品店』での襲撃、あの時のヴァレッドの動きはまるで妙だった。目で追うことができず、次の瞬間どこにいるのかさえ予測つかなかったほどだ。

「どうりで無闇に強いと思ったよ」

 本当にそんな真似ができるのならそれは強いに決まっている。ロックは今更のように憤慨した。

「そんな卑怯な力使ってたんだ」

「卑怯ではない、策を弄したまで」

「っていうか勝ってないでしょう殿下は。勝ったのは僕らだ」

「お前がしゃしゃり出てこなければ勝っていた」

 そこでヴァレッドは鼻を鳴らし、階段の先を顎でしゃくる。

「些末な言い争いをするつもりはない。この先にリウィアがいる」

 つられてロックも階上を見上げる。螺旋階段は天井近くまで伸びており、その先には扉があるのが見える。どこへ続いているのかはわからないが、向かうべき先がそこだということはわかる。

「私にできるのはここまでだ」

 ヴァレッドはそこで、深く嘆息した。

「妹はひどく消沈しているだろう。泣いているやもしれぬ。だが私にできたのは、お前をここへ連れてくることだけだった。他には何もできなかった……」

 そして再び面当てを押し上げると、妹とよく似た灰色の瞳でロックを見据えた。

「妹を、頼む」

「わかったよ」

 ロックはうなづき、螺旋階段をひとり上りはじめる。

 責任は重大だ。ここまで連れてきてもらって、何の成果も得られずには帰れない。リウィアに会い、話をしなくてはならない。


 階段の先の扉を軽く叩くと、すぐに中から声がした。

「ルチア? それとも兄上?」

 つい先程耳にしたばかりの、間違いなくリウィアの声だった。

 知らず知らず背筋が伸びるロックをよそに、彼女は悲しそうに続ける。

「どちらにしても入ってこないで! 誰とも会いたくないって言ったでしょう!」

 どうやら彼女はここに閉じこもっているようだ。ルチアというのは側仕えの名だろうか。

 ロックは一呼吸置いてから、扉の向こうへ名乗った。

「僕です。ロック・フロリアです、殿下」

 たちまち扉越しにがたりと物音がして、少しの間沈黙する。

「……ロック?」

 ややあってから、震える声が聞き返してきた。

「どうして、あなたがここに……?」

「ヴァレッド殿下に連れてきていただきました」

 正直に答えれば、扉の閂が外される音が聞こえた。

 そして扉が薄くだけ開いたかと思うと、リウィアが泣き腫らした目でこちらを覗き込む。その顔を見た瞬間、ロックの胸は痛んだ。

「あなただけならいいわ、入って」

 許しを得たロックは、お辞儀をして中に立ち入った。


 おそらく尖塔の最上部にあると思われるこの部屋は、意外と広くはなかった。

 天蓋つきの小さな寝台と書き物机、それにテーブルひとつに椅子が二脚ある他は目につくものもない。ただ天蓋から垂れ下がる紗は一目見てもわかるほど上等な生地でできていたし、寝具も肌触りのよさそうな絹で仕立てられている。椅子も美しい赤の天鵞絨張りで、そこに座ってと勧められたロックは恐れおののきつつ浅く腰かけた。

 リウィアは寝台の縁に腰を下ろすと、光沢ある絹の枕をぎゅっと抱きかかえた。そうして赤くなった瞳でロックを見つめる。表情はやや硬い。

「兄上に会ったということは……」

 先に口火を切ったのは彼女のほうだった。

「事の次第を全部聞いたということでしょう? あなたがわたくしのことを忘れてしまったのも、そうなるに至った経緯も、もう全て知っているのでしょうね?」

 ロックから目を背けながら、ひと息に尋ねてきた。

「ええ」

 すかさずロックはうなづく。

 もっとも今となっては、当のリウィアよりも事実を知っていると言っていいかもしれない。リウィアがロックの記憶を消すに至った事件は、全てヴァレッドが描いた絵だったこと――これだけは彼女も知らないはずだ。

「わたくしを恨んでいるでしょう?」

 続いてリウィアが問うと、ロックは大慌てでかぶりを振った。

「いいえ、まさか!」

「でも、あなたの記憶にはところどころ欠落が生じているはずです。覚えていたかったのに忘れてしまったことも、歯抜けのように覚束なくなった記憶だってあったことでしょう。それは恐ろしいことのはずなのに、それでもわたくしを恨んではいないというの?」

「殿下は僕を助けようとしてくださったのだと伺いました」

 ロックは少し微笑んで答える。

「おひとりでも逃げられたのにそうしようとはせず、僕を見捨てなかった。そのことには感謝しております」

「……だって、それは」

 リウィアは枕ごと自らの膝を抱えた。

 拗ねたようなその仕種の後で、溜息をつく。

「そんなのは当然のこと。でも、だからってあなたの記憶を消してしまったことへの罪が消えてしまうわけではないわ」

「罪だなんて思いませんよ」

 もう一度、ロックは首を横に振った。

 それでもリウィアの表情は悲しみに沈んだままだ。

「わたくしは、あなたに覚えていてほしかったの……」

 そう言って、目元を指で拭う。

「あなたが私の元を、友として訪ねてきてくれる日を密かに楽しみにしていたの。ふつうならあなたとここで会うことはできないけれど、あなたが仕立て屋なら話は別ですもの。いろんな思いはあっても、あなたが仕立てる花嫁衣裳を見てみたかった。それだけは確かだった」

 自分は仕立て屋として、彼女に会っていたのだろうか。

 花嫁衣裳について話を聞く機会もあったのだろうか。存在しない記憶に思いを馳せてもどうしようもなく、ロックは口を開く。

「今の僕は、殿下の友である僕と何か違いますか?」

「違うわ。残念だけど」

 リウィアはきっぱり答えた後でうつむいた。

「でも、違うけれど似ている。わたくしをそうやって真っ直ぐに見つめてくる目と、事実に向き合う時の落ち着き払った様子。あなたがロック・フロリアだってとてもよくわかる」

「僕は僕です。たとえ記憶を失くしたって……」

 何も変わりはしない。

 そう言い切れるだけの自信がロックにはなかった。なぜなら以前、どのようにリウィアに接していたかを覚えていないからだ。

 言いよどんだロックを見て、リウィアはまた溜息をつく。

「記憶を消す力なんてなければよかったのに。昔からそう、好きになった人たちはみんなわたくしのことを忘れてしまうの。覚えていてくれるのは国にとって大事な人ばかり――わたくしがその人をどう思っているかなんて関係ない。友を選んで持つことさえ許されなかった……」


『祝福とは呪いと同じだ。ひとたび受ければ、安寧は遠ざかる』

 ヴァレッドはかつて、ロックたちの前でそう言い放った。

 リウィアもまた同じ思いを胸に抱えているのだろう。祝福の力さえなければ、そんなふうに思ったことも一度や二度ではないのかもしれない。


 だが、エベルが言っていたように、そんな思いも特別なことではないはずだ。

 程度の差こそあれ誰しもが抱えている。欲しかったものを得られぬ苦しみも、欲しくなかったものを与えられたつらさも、人が押しなべて抱く普遍的な悩みだ。

 リウィアに罪悪感を持ち続けてほしくはない。

 そう思うロックは、口を開いた。


「僕は、むしろ欲しい力を持ち得なかった者です」

 失くしたのは一時の記憶だけではない。

 この二十年の間に失くしてきたものは数えきれなかった。

「三年ほど前に母を亡くし、それで父を探しに帝都へ来ました。外から来た人間ですから壁の外にしか住めませんでしたし、治安のよくない辺りでしたから、男のふりをして生きることにしました。でも筋肉がないから、いつも貧弱だってからかわれてます」

 欲しいものは山ほどあるし、要らないものもいくつかあった。

 だがそれらのものが自分を、今ここにいるロック・フロリアとして存在させている。

「もし僕が母を亡くさなければ、帝都までは来なかったでしょう。僕に帝都の市民権があったら、仕立て屋にはなっていなかったかもしれません。筋肉があったら――もしかしたら、あの日僕が殿下をお守りできたかもしれませんが」

「そんな無茶なこと、わたくしがさせません」

 ぶすっとして、リウィアが口を挟んだ。

 それにロックは思わず笑って、また続ける。

「ないものばかりの人生でしたが、だけどその結果、僕はここにおります。記憶を失くしたこともまた、失くしたからこそここにいるのではないか、とも思うのです」

「そうでしょうか」

「ええ。僕は記憶を失くした後、自分で描いた覚えのない図面を見つけました。花嫁衣裳の図案です。そこに描かれた意匠はまるで考えも及ばないようなものでしたが、エベルが彼と、僕と、それに殿下とで過ごした夜のことを教えてくれたから、僕はそれに賭けたのです」

 全く覚えのない意匠を描いた図案が、それでも彼女には伝わるだろうと思った。

「あのドレスを仕立てれば、殿下はきっと僕にお声がけくださると」

 ロックの言葉に、リウィアは枕をつぶさんばかりに抱き締める。

「あなたは、あの夜のことを覚えていないのでしょう?」

「はい」

「そして記憶を失くすという目に遭った。怖い思いだってしたでしょうに」

「ええ、気づいた時はさすがに震えました」

 リウィアの知らないところでは、その兄と喧嘩もしている。

 しかしあの時の傷もだいぶ癒えていた。

「なのにどうして……わたくしの元へ来る気になったのです」

 彼女は枕を脇に置き、両膝の上に手を置いた。

 その手がスカートをきゅっと握り締めるのを見て、ロックは正直に答えた。

「理由はいろいろございます。僕は名誉も金も大好きですから。でも一番は、僕が友と呼んだ人に会ってみたかったからです」

 答えはとても単純だった。

「恥ずかしながら、僕には友人と呼べる人がほとんどおりません。お世話になった人や手を貸してくれる同業者、それにご縁のあった人たちはたくさんおりますが、まだその人たちのことを友と呼ぶことができていなくて……」

 だが、あの夜のロックはリウィアのことを『友人だ』と紹介したという。

 自分がどうしてそんなことを言ったのか、今となってはわからない。だが方便の意味合いがあったとしても、きっと全くの嘘ではないだろう。

 あの花嫁衣裳の図案を、たった一夜で描き上げたほどの思い入れがあるのなら。

「殿下は僕が、帝都で一番に『友人』と呼んだお方です」

 ロックはリウィアに語りかける。

「ですから一度、どうしてもお会いしてみたかったのです。どんな方か、どんなふうに話をしたのか知りたかった。友と呼べる相手とどんな時間を過ごして、その時どんな気分だったか。知りたいと思ったから、会いに参りました」


 会うことが叶っても、失くしたものが戻ってくるわけではない。

 それはロックにもわかっている。

 だが戻らぬものを嘆いてもどうにもならないことも、ロックはよくよく理解していた。今までだってそうやって前に進んできたのだ。


 リウィアは灰色の瞳をかすかに潤ませ、ロックをしばらく見つめていた。

 だがやがてその目を伏せると、頬に一筋涙を流した。

「やはりあなたは……わたくしの知っているロック・フロリアです」

 涙を自らの手で拭い、恥ずかしそうに微笑む。

「前向きで、真っ直ぐで、正直で――少しばかり向こう見ずで。わたくしはあなたにまた会えて、とてもうれしい……」

 それからわざと口を尖らせ、釘を差すようにもう一言、告げた。

「でも、ひとつだけ全く違うところがあるわ」

「全く? ええと、なんでしょうか」

「あなたはわたくしを『ユリア』と呼んでくれていたの。今からはそう呼んでちょうだい」

 皇女からの直々の頼みとは言え、それは――ロックは一瞬迷ったが、やがておずおずと言った。

「ユリア」

「はい」

「ユリア……殿下?」

「敬称はいりません。そんなふうに呼ばれたことなんてないもの」

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