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人狼屋敷の甘美な記憶(4)

「では、採寸を始めましょう」

 ロックは気を取り直してエベルに告げた。

 執務室の立派な椅子に目をやって、

「エベル、あちらに座っていただけますか」

 そう頼めば、エベルは諾々と指示に従う。

「あなたの頼みなら何なりと」

 わざわざ椅子をロックの前まで運んできて、そこに優雅に腰かけた後、愉快そうに笑んだ。

「これでいいかな、ロック」

「ええ。頭囲と首回りを測ります」

 ロックが巻尺を手に歩み寄ると、金色の瞳がその動きを逐一追い駆けてくる。じっと見上げられるのがロックには落ち着かない。

「頭を動かしては駄目です」

「どうしても動いてしまう。あなたを見ていたくて」

 注意してもエベルはどこ吹く風で、しまいには自分の膝を指差し、

「何なら、私の膝に座って測ってはどうだ」

 などと言い出したから、ロックは呆れた。

「嫌な予感がするのでお断りします」

「それは気のせいだ、きっと素晴らしくいいことが起きる」

「僕にはそうは思えません」

 溜息をついてから、エベルの背後に立って巻尺を当てる。


 まずは鳶色の髪に覆われた頭に、ぐるりと巻きつけ寸法を取った。

 彼の髪は腰が強くつややかで、似ているはずのない人狼の毛並みを思わせる。

「外套を仕立てるという話だったな」

 髪に触れられてくすぐったそうにしながら、エベルが尋ねてきた。

「ええ。あなたはちょっと不用心すぎますから、貧民街を歩く時はお顔を隠すべきです」

 ロックは頭囲を帳面に書き留めてから、巻尺を外した。

 次にエベルの首に触れる。シャツの襟元から覗く彼の首筋はなめらかで、あまり日に焼けていない。尖った喉仏の下に巻尺を通すと、エベルがまた頭を動かしてロックを振り返る。

「私は首が弱いんだ。お手柔らかに頼むよ、ロック」

「承知しております。痛くはしませんから」

 巻尺を首の後ろへ回し、指で押し当てるように留める。襟足の髪が巻尺にかかると目盛りが見えず、もう空いている手の指先で優しく払う。そんなロックの指の動きに、エベルが小さく息を漏らした。

「ん……」

「苦しいですか? 少し緩めましょうか」

「いや、くすぐったかっただけだ」

「失礼しました。すぐに終えますから」

 ロックは手早く寸法を測り、それも帳面に走り書きした。

 それから巻尺を抜き取ると、エベルはまたロックを振り返った。

「あなたの採寸は堪らないな。癖になりそうだ」

 金色の目に宿る光が灼熱のように揺れている。

 肖像画とは違う色の眼差しに、ロックは一瞬うろたえた。彼の目は口ほどに物を言うのでわかりやすく、だからこそ対処に困る。

「採寸が好きと仰るお客様はなかなかいませんよ、物好きですね」

 はぐらかすつもりで肩を竦めると、エベルは誤魔化しを咎めるように微笑んだ。

「いちいち言わないだけだろう。これほど官能的なひとときを、誰もが平常心で過ごせるとは思えない」

 そして反応に困るロックに対し、恨めしげに語を継いだ。

「前にも言ったが、私だけに雇われる気はないか?」

「以前も伺いましたが、お断りしていたはずです」

「あなたが私以外に触れるのが嫌だ。専属契約を結びたい」

 エベルがそう言って、巻尺を握るロックの手首を掴む。

 相変わらず独占欲剥き出しの手は力強く、そして溶けてしまいそうなほど熱い。触れる手のひらの熱さにロックはますます狼狽し、慌てて振りほどこうとしたがそれも叶わず、困り果てて懇願した。

「や、やめてください」

 しかしロックの困り顔を見て、エベルはますます力を込めてくる。

「そんなふうに懇願されては、ますます離しがたくなる」

「なんて困った人ですか!」

「あなたがそうさせるのだろう。私をこうまで狂わせておいて、そ知らぬ顔をしようとする」

 エベルは唇を歪めたが、やはり目は笑っていない。


 こうなると彼は厄介だ。あの手この手でロックを翻弄しようとする。

 廊下のフィービに助けを求めてもいいのだが――呼べばこの後の採寸に差し障る。ロックは先程からぴくりとも動かない扉に目を向けた後、それはできないとかぶりを振った。どうにかして、はぐらかし続けるしかあるまい。

 金色の瞳は揺るぎない眼差しをロックへと向けてくる。

 それを見下ろしたロックの脳裏に、ふと何かがひらめいた。


「応接間の、肖像画を拝見しました」

 手首を掴まれたまま、熱く見つめられたままでロックは切り出した。

 エベルが異を唱えるように眉を上げる。

「何の話かな、ロック」

「フィービによればあの絵は、エベルとエベルのお父様だということですが」

「確かに、あれは私と父の絵だ」

 はぐらかされていることに気づいたか、エベルはどことなく不満げだ。だがその表情に、ほんの少し別の感情が過ぎるのも窺えた。どことなく興味深そうな――まるでこの駆け引きさえ楽しんでいるかのような。

 ロックはとても楽しむどころではなかったが、慎重に続けた。

「それなら、あの絵のあなたは、どうして違う色の目をしているのですか?」

 どうしてか、しかしどうしても気になって仕方がなかった。

 美青年のエベルとは似ても似つかぬ異形の人狼。だが瞳の色だけは変わらない。絵の中の少年とは違う、金色の瞳のことが頭から離れなかった。

「なぜそれが気になるのか、聞いてみたいところだが」

 エベルはそう前置きしてから、今度は心から微笑んでみせた。

「あなたも感づいているのだろう? 私の目の色は、人狼のものだ」

「では……」

「そうだ。八年前、十六の時に、私は人狼になった」

 それは本来なら、恐ろしい告白のはずだった。

 だが彼の口調はあくまでも軽く、どこか誇らしげですらある。

「表向きは『病気のせいで』と言ってある。十六の時、私は流行り病に苦しんだ。瞳の色が変わったのはその時で、高い熱に何日も魘されたからだ――そういうふうにな」

 それはあくまでも方便でしかない、ということだろう。

 ロックの喉がごくりと鳴る中、エベルは尚も続ける。

「だが事実は違う。私が苦しんだのは病ではなく、呪いだ」

「呪い……ですって?」

「そうだ。骨董品の蒐集を好んでいた父は、ある日呪いの彫像の力を解き放ってしまい、私を人狼に変えてしまった」

 そこで、エベルがロックの手首を離した。

 溶けてしまいそうなほどの熱が離れると、ロックの身体は一気にすうっと冷えてしまった。

 エベルもそれを見透かしたように、真面目な表情を作ってみせる。

「父はそのことを気に病んでいた。最期までな」

「それはそうでしょう、呪いだなんて……」

「だがな、ロック。私は父を恨んではいないし、感謝すらしているのだ」

 その言葉には建前だけではない、父親への深い信頼が窺えるようだった。

 もちろんそうであったとしても、ロックにはにわかに信じがたかったが。

「だから私は、この人狼の力で父が愛したものを守りたい」

 エベルがロックの瞳を覗き込んでくる。

「そして……私が好ましく思う者もな」

 熱く見つめてくる金色の瞳は、つまり呪われた者の証なのだろう。エベルからそのことの苦悩が窺えないのが不思議なほどだ。だがやはり、彼の表情には一切の陰りが存在していなかった。

「辛くは、ないのですか」

 思わずロックが尋ねると、エベルは喉を鳴らして笑う。

「優しいな。私を案じてくれているのか」

「いえ、そういうわけでは――そういうことでも、ありますけど」

 ロックにとっては一度で呑み込みきれない、全く途方もない話だった。人を人狼に変える呪い、先代マティウス伯の過ち、それらを全て受け止めているエベルのことを、すぐには理解できそうにない。

 ただ一つ言えるのは、自分が気遣う必要もなく、エベルはそれらを乗り越えているようだということだ。

「辛くはない。もう慣れた」

 エベルは造作もなく答えたが、ロックはすかさず食い下がる。

「でも八年前と言えば、ご婚約の解消もそういうことなんでしょう?」

 やはりそれは繋がっていたようだ。エベルは笑って、頷いた。

「ああ。事情を話したら、ミカエラはわかってくれたよ」

 その後で、少し寂しそうに言い添える。

「グイドはあのとおりだが。昔はああも強情ではなかったのだがな……」

 あの公爵令息については沈んだ面持ちで語ったものの、すぐに笑顔を取り戻してみせた。

「私は平気だ。辛いことも、思い煩うこともない」

「そうですか……」

 ロックは相槌を打つのが精一杯だった。

 もっと何か言うべきだと思うのだが、言葉にならない。なぜか酷く複雑な思いがしていた。どう複雑なのかは、自分でもわからない。

「それと、安心していい。この呪いは人に移ることはない」

 エベルはあくまでも軽口のように言う。

「いくらあなたに触れたところで、あなたまで人狼になる恐れはない。だから触れてもいいだろう?」

「よくないです!」

 いつも通りの彼の調子に、ようやくロックも衝撃から立ち直ろうとしていた。

 マティウス家にはかつて、ロックの想像を超える大事件が起きたようだ。しかし今ではそれも過ぎ去りし時、残されたのはエベルの人狼の力だけということだろうか。

「ところで、首回りは測り終えたのかな。次はどうする、ロック」

「ああ、そうでした。着丈を測りますので、一度立っていただけますか」

 ロックも仕事に戻ることにして、エベルにそう告げた。

 するとエベルは椅子から立ち上がり、あっという間にロックを見下ろすようになる。そしてふと悪戯っ子の顔になったかと思うと、わずかに身を屈め、ロックの首筋にふっと息を吹きかけた。

「ひゃっ!」

 熱い吐息が皮膚をかすめ、ロックは思わず跳び上がる。

 すぐさま彼を睨みつけると、にやりと得意げな笑みを返してきた。

「話をはぐらかした仕返しだ。先程の件は、またあとで」

 駆け引きに勝ったのかどうかは、まだわからないようだ。

 ロックは身を竦めつつ、執務室の扉をそっと振り返る。それは悲鳴を上げた後にもかかわらず、やはり微動だにしなかった。


 一通り採寸が済んだ後は、いよいよ人狼の番だ。

「では、エベル……」

「わかった。少し待ってくれ」

 促されるなりエベルはシャツを脱ごうとするので、ロックは慌てて背を向ける。

「どうしてここで脱ぐんですか!」

「いちいち衣裳室に入るのは億劫だ。男同士だし、構わないだろう」

「そ、そうですけど!」

 ロックとしてはどうしても構うのだった。職業柄、見慣れているはずの男の身体がエベルに限っては直視しがたい。ましてその胸に抱き締められた記憶もまだ残っている。

「なぜあなたはいちいち恥ずかしがるのだろうな。意識されているということならいいのだが」

 そう語るエベルの声と共に、衣擦れの音が室内に響く。ロックはその場に縮こまって、ただひたすら準備が終わるのを待った。

 やがて聞き覚えのある、みりみりと皮膚の裂けるような音がして――、

「支度ができたぞ、ロック」

 かけられた声の方へ向き直ると、そこには毛むくじゃらの大きな人狼が、金色の目を光らせて立っていた。

「あなたの変身ぶりには、いつも驚かされます」

 ロックが素直に告げると、人狼は毛皮に覆われた手で耳と耳の間を掻いた。

「私からすれば、あなたの落ち着きぶりの方が驚きだ。よくもこの短期間で慣れてくれたものだ」

「初めは怖かったですけど、今はちっともです」

 今では怖いどころか、愛嬌さえ感じるのが不思議だった。よく動く尖った耳といい、ぶんぶん振られる尻尾といい、山にいる野犬よりよほど可愛い。

 ロックはそんな人狼閣下を屈ませると、人の姿の時と同じように頭囲から測ろうとした。

 しかし、その時。

「――ロック、いる?」

 執務室の扉が叩かれ、フィービが、そんなふうに声をかけてきた。

 いるも何も、ロックはずっとここから出ていないのだが――それはさておき、今はまずい。人狼の姿を見られてはまずい。ロックは声を上げかけて、慌てて飲み込んだ。

 それからまず、エベルに視線を送る。

「……どうします? 隠れましょうか?」

 声を潜めて彼に尋ねた。

 彼をどこかに隠すか。フィービを執務室に入れないようにするか。どちらがより確実だろう。

「隠れよう」

 エベルの決断は迅速だった。

 言うなり彼はロックの身体を抱え上げ、

「わっ……」

「静かに」

 ロックの口を毛深い手で覆うと、執務室の奥にある扉へと向かう。

 音もなく開いた扉の中は、どうやら衣裳室のようだ。エベルのものと思しき、よそゆきの上着や外套がしまわれている、物置に近い小さな部屋だ。エベルはそこにロックを連れ込むと、やはり音を立てずに扉を閉めた。

 明かりもなければ窓もない、小さな部屋だった。体格のいい人狼と二人で入るには狭すぎるほどだった。エベルはロックを抱き締めるような姿勢で衣裳室に収まり、ロックはぴったりと彼に身を寄せていた。まるで全身を柔らかい毛皮で覆われているようで、少々息苦しい。

「エベル、苦しいです……」

「済まない、少しの辛抱だ」

 きつく抱き合いながら囁き合う二人は、扉の隙間から執務室を覗いていた。


 やがて執務室の扉が開き、フィービと、それからヨハンナが共に室内へ入ってきた。

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