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相手にとって不足なし(3)

「エベル、ありがとうございます」

 フィービが店を出ていった後、ロックはエベルに感謝を告げた。

「あなたが来てくださって助かりました。フィービを少し休ませたくて……」

 表向きは『ロックとエベルに気をつかって』、フィービは先に帰っていった。まだ仕事をするつもりのロックが家に帰るまで、いくらかは休息の時間が取れるはずだ。

「役に立てたなら何よりだ」

 エベルはうれしそうに微笑む。

 それから少し気づかわしげに続けた。

「あなたがたも忙しい最中だというのに、気が休まらなくて大変だな」

「ええ。特にフィービは、僕が記憶を失くしてからというもの、毎日気を張っているようで」

「無理もない」

 エベルの言うとおり、仕方のないことだとロックも思う。

 娘が倒れ、記憶の一部を失ったと知って動じぬ親はいないだろう。ましてそれが何者かの意思で行われたものだとしたら尚更だ。

「では、この後は私がフィービの代わりを務めようか」

 まだ裁縫道具が片づいていないカウンターを見て、エベルがそう申し出てくれた。

「もう少し仕事をするのだろう? 私が共に残ろう」

「いいんですか? あなたがいてくださると、すごく心強いです」

 心優しい申し出を受けて、ロックは顔をほころばせた。


 そしてとびきりの客を歓迎するために、急いでお茶を淹れてきた。

 店で飲むための安い茶葉だったが、エベルは上機嫌でそれを受け取る。

「私があなたの傍にいたかったのだ。許されるなら、あなたの仕事ぶりを傍で見ていてもいいだろうか」

「もちろん。今はまだ、見て面白いものではないかもしれませんが」

 花嫁衣裳のほうも現在は仮縫い作業の最中だ。通常の仕立てとは違い、着る人の身体に合わせた補正はまだできないから、あくまでも全体の雰囲気や意匠を確認するためのものになる。

 本当に着てもらえるかはわからない。

 だが着てもらいたいと思うから、心を込めて縫い上げるつもりだ。

「あなたを見ていて、つまらないなどと思うはずもない」

 エベルはきっぱりと言い切ると、ロックに向かってとびきり甘い笑顔を見せた。

「あなたを眺めているだけで幸せな気持ちになるからな」

「仕事がしにくくなります……」

 恥じ入るロックは、それだけぼやくのが精いっぱいだった。


 お茶を淹れたはいいが、店にはお茶菓子のひとつも置いていなかった。

 しかしエベルが差し入れてくれた焼き菓子があり、ちょうどいいとばかりにふたりでつまんだ。ヨハンナが焼いてくれたという菓子は葡萄のパイで、さっくり軽い生地に甘く煮詰めた葡萄がたっぷり詰まった、それはそれはおいしいものだった。

「ヨハンナは本当にお料理上手ですね!」

 喜ぶロックが絶賛すると、エベルは何かを思い出したように微苦笑する。

「彼女もあなたのことを心から応援していると言っていた。『花嫁衣裳ができあがった折にはぜひ一目拝ませてほしい』とのことだ」

 エベルの表情から察するに、実際のヨハンナの言葉はその十倍はあったと思われた。彼女との付き合いもそろそろ長いので、どういうやり取りが繰り広げられたかは手に取るようにわかる。

「ぜひ、彼女にも見てもらいたいです」

 ロックは思う。

 ヨハンナだけではなく、完成したあかつきにはみんなに見てもらいたい。皇女についていろいろと助言をくれたグイドとミカエラ、母が仕立てたドレスを取っておいてくれたアレクタス夫妻、いつも気にかけてくれるジャスティアとカルガス、同業者らしい視点で意見をくれるであろうクリスターとその妻ニーシャ。それにもちろん、傍で支えてくれるエベルとフィービにも。

 そのためにも、ここはがんばりどころだ。おいしいパイに後ろ髪を引かれつつ、一切れでやめたロックは仕事に戻る。

 エベルはそれを、お茶を味わいながら見守ってくれる。


 花嫁衣裳の仮縫いは、色味の似た安い平織りの綿生地で行う。

 試着と補正の過程がないので贅沢を言えば本縫いの生地で行いたいのだが、ドレスに使う上等な生地に仮縫いの針孔が残っては困る。まずは仕上がりの雰囲気を確かめるのが先だ。

 今は身頃を縫い上げる行程に入っている。詰まった襟元と袖を合わせて大小十三枚の生地を縫い合わせるのだが、すでに袖以外は形になっていて、今日には身頃だけでも仕上がりそうだ。仕付け糸で繋ぐ身頃は美しい薄灰青の生地で、本縫いでは上等な絹を使う予定だ。恐らく皇女の髪色という木苺色に合わせて選んだものだと思われた。

 この生地を選んだ時のことを覚えていないのが、とても残念だった。


「いい色だな」

 傍らのエベルが興味深げに身を乗り出してくる。

 彼のために服を仕立てたことは何度かあるし、繕い物をするところを見せたこともある。だが婦人物のドレスを仕立てるところは初めて見せるはずで、彼にとっては物珍しいのだろう。

「ええ、美しいでしょう?」

 手を止めずにロックは応じた。

 仮縫い用の生地は値段よりも発色で選んだ。ドレス用の絹生地にできるだけ色味の近い灰青色を探した。この色に決めた時の記憶はなくても、そう決めた自分の感性を信じようと思った。

「本縫いで使う生地はもっと美しいですよ。つやつやした光沢のある絹地です」

 信用できる繊維商に通いつめ、仕入れるまでに時間も経費もずいぶんかかった。

 それだけに失敗はしたくない。

「エベルは、僕とユリアがどんな話をしたか覚えていませんか?」

 針を動かしながら、ロックはエベルに尋ねた。

「今縫っている身頃には、宝石と金糸の刺繍で星空を描く予定なんです。でもどうして星空という意匠を選んだのか、僕にはその記憶がなくて」

 もっと言えば、スカート部分に施す帝都の城壁、そして皇帝の居城の刺繍の意味もわからない。婦人物のドレスにはおよそふさわしくない無骨な意匠で、だからこそそれを選んだ明確な理由がありそうなものなのだが。

 エベルはしばらく考えてから、ゆっくりと切り出した。

「星空と言うなら、ひとつ覚えがある。私とあなたと彼女とで、帝都の城壁越しに夜の空を見た。あの食事会の帰りの出来事だ」

 はっとして、ロックは思わず手を止める。

 視線をちらりと向ければ、エベルはどこかやるせない顔をしていた。

「あの時、彼女は帝都を去ることを心細くお思いだったようだ」

 それでいて言いにくそうに話を続ける。

「心細く、と言っていいのかどうか……いや、私にそのお心を推し量るのもたやすいことではないな。ただこの辺りから城が見えないことを切ないと仰っていた」

「この辺りから?」

 たしかに壁の外の貧民街からは、帝都の中心に建つ城の姿は全く見えない。

 そのことに気づいたユリアは、これから嫁ぐ北方からも城が見えないということを思い知り、切なく思った――ということだろうか。

「殿下は、帝都を離れたことがないお方だ」

 エベルは尚も語り聞かせてくれる。

「しかし北方は、見上げた空に帝都と同じ星があるかもわからぬ遠方と仰っていた。ご自身の務めは理解していても、お気持ちの整理はつかぬ様子だった」

「そうでしたか……」

 きっとその時、三人で夜空の星を見たのだろう。

 思わず、だったのかどうか、ともあれ本心をこぼしたユリアに対し、自分が何かを感じたのは間違いない。そうでなければ星空を意匠として選びはしない。

「僕は記憶を失くす前に、この花嫁衣裳の図案を描き上げたんです」

 ロックは覚えている事実を確かめるように、取りこぼさぬように口を開く。

「夜空の星々と薄雲と、スカートの裾には帝都の城壁、そして皇帝陛下の居城の刺繍を施す――僕がそれを描いた理由は、その時のやり取りにあるのかもしれませんね」

 やむを得ないことではあるが、自分の話なのに他人事のような物言いになってしまう。

 そしてそれを、エベルはいっそう寂しく思ったようだ。一瞬だけ瞼を伏せた。

「あなたがその時何を思ったか、想像はつくが断言はできない……だが、あなたがユリアのことをとても気にかけていたことは私にもわかった」

 ロックにはそんなエベルの様子こそが胸に堪えた。

 彼はその夜のやり取りを目の当たりにしているのだろうし、だからこそロックがそれを忘れてしまったことをもどかしく思っているのだろう。そしてエベルがそんな顔をするほど、自分は新しい友人のことを真剣に、親身に捉えていたようだと感じた。

 失くしたものをどうにかして取り戻したい。渇望するようにロックは思う。

 それが叶うかどうかはわからないから、せめて自分にできることをする。

「もっと話を聞かせてください、エベル」

 ロックがねだると、エベルは快く覚えている限りのことを話してくれた。


 それはロックの記憶の欠落を補うような思い出だった。

 四人で食事をした日のこと――エベルが『フロリア衣料品店』を訪ねてきた時、ロックの隣にはすでにユリアがいたそうだ。

 エベルはすぐにユリアの正体に気づき、ユリアもまたエベルの顔を知っていた。彼女は自らの正体について認めた上で、ロックと話がしたくてやってきたのだという。その流れで彼女をロックの家へ連れていくことになり、途中パン屋に立ち寄りつつ、三人で家へ向かったそうだ。

 共に囲んだ食卓で、ユリアはいくつか話をしてくれた。

 いつもは給仕が傍にいるだけで、ひとりきりで食事をする場合が多いそうだが、この時はロックの誘いもあってか話しながらの食事を楽しんだようだ。会話が弾んで、エベルがひやひやするほどだったということだ。

 彼女には四人の兄がいることも話してくれた。

 きょうだいとは共に食事をする機会もたまにはあるが、よく話をするのはすぐ上の兄だけらしい。その兄のことを、ユリアは『真面目すぎる変わり者』と評していた。あまり気が合わない、とも。


「すぐ上の兄――ヴァレッド殿下のことでしょうか」

 ロックは最近知ったばかりの第四皇子の名を挙げる。

 するとエベルは難しい顔で顎を引いた。

「リウィア殿下は末子にあらせられるから、間違いないだろう」

 それでロックは大事なことを思い出し、一旦針山に針を置いた。

 そして、保管していた注文書をエベルに見せる。『ヴァリ』と名乗った男のものだ。

「ヴァリだと……これは?」

「以前この方の依頼で革手袋を仕立てたのですが、なぜか僕もフィービも覚えがないんです」

 注文書を眺めていたエベルが、そこで静かに面を上げる。

「覚えがない? まさか……」

「同じように記憶を消されたのかもしれません。そうした理由も、彼が僕の店に来た理由も、はっきりとはわかりませんが、フィービはこの客こそが皇子殿下だと疑いを強めているようです」

 ロックの言葉に、エベルの表情はにわかに険しくなった。

 額に手を当て、深い溜息をつく。

「私は、ヴァレッド殿下とは面識はない。公の場にお姿を現されたことがほとんどないからだ」

「皇子殿下なのに、ですか?」

「ああ。第一皇子レグラス殿下を筆頭に、三人の皇子殿下はご公務にも積極的に携わっておられる。お三方は帝王学の教育も受けられ、皇帝陛下のお世継ぎとして役目を果たしている最中だ。しかしそこに、ヴァレッド殿下が加わられたことはない」

 皇位継承者として扱われていないということだろうか。

 たしかに四人も皇子がいれば、誰に後を継がせるかはたいそう悩むことだろう。そういった悩みから早々に弾かれる者がいるのも、残酷ではあるが現実的な話だ。

「だが皇女殿下のお話を伺うに、ヴァレッド殿下が才なき者として弾かれているということではなさそうだ。むしろ、あえて継承者にはしていない、というところかもしれない」

 エベルがそう推測を語り、ロックは目をしばたたかせる。

「なんの理由でです?」

「才がありすぎる、というのはどうだろう」

 彼は答えると、手にしていた注文書の日付を指差した。

「これを見るに、あなたはずいぶんと前から身辺を探られていたようだ」

「やはり、そういうことなんでしょうか」

「ああ。ヴァリなる人物がヴァレッド殿下だとすれば、あの方が皇位継承者として扱われない理由も察しがつく。あの方には記憶を消す力があり、それを生かす諜報の腕もあるということだ」

 ヴァレッドはいわば裏方としての生き方を選んだ。

 あるいは、選ばざるを得なかったというところだろうか。

 その彼が妹のために暗躍し、ロックの店を訪ねてきた。革手袋を注文したのはロックの腕を試すためだろうか。無論、ロックの記憶が消えてしまった一件についても関与していないとは思いがたい。

「僕の記憶が消えたのは、その方のご意思ということになりますか」

「可能性は大きい。ヴァレッド殿下はあなたを、リウィア殿下から遠ざけたかったのだろう」


 帝都を去りがたいと思い、切なさを訴えていたユリア。

 ロックを彼女から遠ざけようと動くヴァレッド。

 そう考えると、点と点がつながるように思える。仲のいい友人ができれば、彼女はそれだけ去りがたくなり、婚姻へ望む気持ちが揺らぐ可能性もないとは言えない。ロックの存在自体がこの度の慶事の障害になると判断されたのかもしれない。

 となれば、記憶を消されて終わりだと思うのは尚早だろう。

 花嫁衣裳を完成させるまで、気の抜けない日々が続きそうだ。


 ロックは針山から針を引き抜き、また生地を縫い合わせる作業に戻る。

 そして手を動かしつつ、敢然と宣言した。

「どんな理由があろうと屈しません。必ず花嫁衣裳を仕立てて、ユリアにもう一度会いに行きます」

「その意気だ、ロック」

 エベルは満足そうに声を上げる。

「私も時間を見つけてはここに来よう。あなたを守る人間は、多いに越したことはない」

「ありがとうございます、本当に心強いです」

 ロックが感謝を込めて見つめると、エベルもそっと目を細めた。

「花嫁衣裳の完成を楽しみにしているのは私も同じだ。その時にはぜひ立ち会わせてくれ」

「ええ、もちろん」

 ロックも、エベルには真っ先に見せたいと思う。


 最初にこの話を持ってきてくれたのは、ロックの背中を押してくれたのは他でもない彼だった。

 そして一度はしおれかけた心に、再び立ち向かう力をくれたのも。

 無事に完成させられたらその時は、共に喜びを分かち合いたい。彼ならきっと一緒に喜んでくれるはずだった。


 その時のことを思うと一日の疲れも吹き飛ぶようで、ロックは張り切って仮縫いを続けた。

 エベルはそれを、ずっと優しく見守ってくれていた。

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