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人狼屋敷の甘美な記憶(3)

 ひとしきり感激して満足できたのか、ヨハンナがお茶を入れてくれた。

「閣下はお二人を、最上級のお客様としておもてなしするよう仰いました」

 その言葉が示す通り、出されたお茶はロックが嗅いだこともないようないい香りがした。芳醇な味わい深さには最初の一口目で狼狽してしまったほどだ。

「フィービ、このお茶すごく美味しい」

 ロックが思わず囁くと、フィービは呆れた目を向けてくる。

「あんた、普通に飲んじゃってるわね」

「いけなかった?」

「……別にいいけど」

 見れば彼女はお茶にもお茶菓子にも手をつけていない。ロックはそれを不思議に思ったが、フィービは追及を避けるようにヨハンナに声をかける。

「閣下はまだおいでにならないの?」

「申し訳ございません。何分、予定にない来客がございまして」

 小間使いも困り果てたように答えた。

「ですが、閣下はお約束を守るお方。さっさと追い返してくださるものと存じます。さあ、お茶菓子もどうぞ」

 ヨハンナが焼き菓子を勧めてきたので、ロックは遠慮なく手を伸ばし、フィービはやはり手を出さなかった。

 しかし小間使いの口ぶりでは、件の『不意の来客』はまさに招かれざる客人のようだ。

 伯爵家に踏み込んでくる客人とはいかなるものだろう、ロックが訝しく思ったその時だった。


 やや急ぎ足の、荒い足音がどこからか近づいてくるのが聞こえた。

 応接間の閉ざされた扉越しに男の声も響いてきた。

「それで、どこの応接間だ? 一目見てから帰ることにする」

「紹介できるようになったら正式にする。今日は駄目だ」

 二人の会話のうち、後から制止に入った声はエベルのものだ。

 もう一人の声は聞き覚えはなかったが、傍らのヨハンナが身を竦めたのをロックは見た。

 やがて応接間の扉がノックもなく開き、

「ここか? ……ああ、そのようだな」

 現れた若い青年は、長椅子に座るロックを見るなり確信めいた笑みを浮かべる。

「この小僧か。思っていたより華奢だな」

 初対面のロックを見下ろすその男は、碧色の双眸に冷ややかな光を湛えていた。顔立ちからは厳格さが滲み出ており、後ろに流した黒髪は一糸の乱れもなく、大柄な立ち姿にも隙はない。だがそれゆえに隠しがたい威圧感と傲岸さも窺えて、ロックは彼にあまりいい印象を持たなかった。

「駄目だと言っただろう、今日は帰ってくれ」

 後から入ってきたエベルが、男の視線を遮るように立ちはだかる。

 しかし男はエベルの肩を押しやると、改めて無遠慮にロックを眺めた。

「男に惚れたというから、どんな奴かと思いきや……全く度しがたい」

「余計なお世話だ、グイド」

 エベルは溜息と共に彼をいなすと、ちらりと気遣わしげにロックを振り返る。

 ロックとしてもグイドなる青年の口ぶりには気分を害したが、貴族相手にそれを顔に出さないだけの分別は持ち合わせている。黙って目礼すると、エベルも心得たように語を継いだ。

「とにかく、用は済んだはずだ。帰ってもらおう」

「紹介はしてくれないのか、エベル」

「できるようになったらすると言ったばかりだ」

「幼なじみ相手にその冷淡さはいかがなものかな」

 グイドは唇だけで微笑むと、ロックに水を向けてくる。

「お前、名は何と言う?」

 エベルとフィービが同時に振り向く中、答えないわけにもいかず渋々答えた。

「ロック・フロリアと申します」

「男らしいのは名前だけだな。女の代用品みたいな奴だ」

 名を聞いたグイドが嘲ると、遂にエベルが眉を逆立てる。

「グイド! 彼への侮辱は取り消してもらおうか!」

「わかったわかった。失礼を言ったな、ロック」

「……いいえ、お気遣いなく」

 心のこもらぬ謝罪に、ロックは冷静にかぶりを振った。

「ヨハンナ、グイドがお帰りだ。馬車の用意をさせてくれ」

 堪りかねた様子でエベルが命じると、ヨハンナはそれを待っていたかのように威勢よく、

「かしこまりました、閣下!」

 返事をするなり応接間を飛び出していく。

 そして小間使いが出ていった後、エベルはグイドの肩を掴んで部屋から追い払おうとした。

「さあ、帰ってくれ。これ以上暴言を吐くと我々の交誼も危うくなるぞ」

「次は我が家に来てくれ、エベル。妹が会いたがっていた」

「あいにくだがそのつもりはない」

「元とは言え婚約者だ。もう少し情を持って接しても――」

 そこで、エベルはグイドを追い出すことに成功した。

 廊下へ押し返してすぐ扉を強く閉めた後、そこに寄りかかって深い息をつく。

 それから、乱れた鳶色の髪を手で直した。

「済まなかったな、ロック。あなたを不快にさせてしまった」

「いいえ、慣れておりますので平気です」

 確かに不快ではあったが、男らしくないことを揶揄されるのはいつものことだ。反論せず呑み込むべき状況くらいは弁えている。

 それよりも、ロックには気になることが――。

「今のは、もしかしてグイド・リーナス?」

 フィービがそこで口を挟み、エベルは金色の目を瞠る。

「知っているのか? 確かに奴の名はグイド・リーナスだ」

「リーナス公爵閣下のご令息でしょう? 名家ですもの、存じております」

 ロックもその家名だけは聞いたことがあった。

 だがフィービはその令息の名まで網羅しているのだから、さすがだと言わざるを得ない。

「すごいね、フィービ。何でも知ってるんだ」

「たまたまよ。ちょっと覚えてただけ」

 フィービは肩を竦めた後、急ににやりとしてエベルを見た。

「そうそう、リーナス家とマティウス家にはかつてご婚約の話がございましたわねえ。解消されたとは存じませんでしたけど」

「あなたは何でも詳しいな、フィービ」

 感嘆を通り越していささか引いた様子のエベルが答える。

「婚約の話は事実だが、もう八年も前に解消している。私もミカエラも――グイドの妹も一切気にしていないというのに、あいつだけが今でも引きずっているのが解せない」

 説明の合間にちらちらとロックを見つつ、

「だから気にしないでくれ。今の私に婚約者はいない」

 最後はそんなふうに結んできたので、ロックは戸惑いながらも頷いた。

「そうでしたか。僕も気にしてはいませんでしたから」

「少しも?」

「ええ、まあ」

 正直に答えると、エベルはいささか落胆した様子だ。

「……そうか。少しは気にして欲しかったのだが」

 しかしロックには、もっと気になっていることがあった。


 応接間の肖像画には、十代半ばの鳶色の髪の少年が描かれている。実際に見比べてみれば面影はやはり鮮明だ。描かれているのは間違いなく、少年時代のエベルだろう。

 八年前の婚約解消と、新緑色の瞳のエベル少年。

 この二つの事柄は、何のかかわりもないのだろうか。


 会話が一段落ついた後、エベルは二人を執務室へ案内すると言い出した。

「採寸をする約束だったな。あの部屋なら広いし、そうそう邪魔も入らない」

 そこでロックたちは応接間を離れ、先導するエベルに続いて廊下を進んだ。

 外観から想像してはいたが、マティウス邸の広さは相当なものだった。一階だけでもロックの部屋が十個以上収まってしまいそうな面積で、その分廊下の移動もそれなりの時間を要した。絨毯敷きの大きな階段を上がり、辿り着いた先は二階の奥にある両開きの扉の前だ。

「ここが私の執務室になる」

 エベルは扉を開けながら、ついてきたロックとフィービの両方に告げた。

「遠慮せず入ってくれ、二人とも」

「えっ」

 困惑の声を上げたのはロックだけだった。

 なぜかと言えば、採寸の場にフィービが居合わせては困るからなのだが――人狼になったエベルを見られるわけにはいかない。

 にもかかわらず、エベルはどうしてフィービまで招き入れようとするのだろうか。

「あたしも同行するわよ。あんたの身に何かあってからじゃ遅いしね」

 フィービの口ぶりは、まるで命の危険でも感じているかのような深刻さだった。

「だ、大丈夫だよ。そこまで心配要らないから」

 ロックは慌てて取り成すと、エベルにも確かめる。

「ですよね、エベル。採寸はやはり僕一人の方がいいですよね?」

「あなたがそうしたいのなら、是非に」

 エベルはなぜか、そういう答え方をした。

 フィービを立ち会わせるとまずいのは、彼の事情のはずだ。不審に思うロックに、フィービも眉を顰めて問いただす。

「ロック、いいの? 二人きりだと危ないって思ってんでしょう?」

「い、いや、そうなんだけど……大丈夫かなって」

 なぜかロックの方がフィービに弁解する形になっている。

「フィービはほら、部屋の前で待っててよ。採寸の間、黙って待ってるのも退屈だろ?」

「まあ、ここからでも十分対応できるけどね」

 不承不承といった様子で、フィービは顎を引いた。

 ただそれでも眼光鋭くエベルを見やりつつ、ロックに対して言い聞かせてくる。

「でもあんた、そんなに閣下を信用していいの? 前科があるんでしょう?」

「そうだけど……」

 思わず言葉に詰まったロックは、エベルに目で救いを求めた。

 するとエベルはたちまち嬉々として口を開く。

「フィービ、ロック自身が私と二人きりがいいと言っているのだ。彼の望む通りにしてやってはくれないか」

 誰もそこまでは言っていない。

 言っていないのだが、ここで余計なことを言えば話が進まないので、ロックは無言で頷いておいた。

「……いつの間にそこまで仲良くなったんだか」

 フィービは疑わしげだったが、納得はしたようだ。

「ではロック、こちらへ」

 エベルが先に立って執務室に入った後、続こうとしたロックの腕を掴んで、フィービが言った。

「一応聞いとくけど、あんたも実は満更じゃなかったりするの?」

「僕が!? な、何でそう思うの?」

「二人きりになりたいなんて、そういうふうに解釈したくなっちゃうでしょ」

「……違うから。あくまで仕事で、だよ!」

 ここに来て、ようやくエベルの意図が読めたロックだった。

 彼はあえてロックの口から、二人きりになりたいと言わせたかったのだろう。


 伯爵閣下の執務室は、階下の応接間と変わらぬほどの広さがあった。

 毛織物の絨毯は美しい彩りの模様が描かれ、浮き彫り細工の壁もまた精巧で芸術的だ。辺りを見回しながら立ち入るロックの背後で両開きの扉が閉まり、立派な執務机にもたれるエベルが意味ありげに微笑む。

「ようやく二人になれたな、ロック」

 その言葉に、ロックは呆れて嘆息した。

「フィービが聞いてますよ。彼女、耳がいいんです」

「私ほどではないだろう。何なら聞かせてやればいい」

「……採寸に来たんです、僕は」

 先程はまんまとエベルの策略に乗ってしまった。それが悔しかったのもあり、ロックは慎重に応じながら巻尺を取り出す。

 エベルはそんなロックに距離を詰めると、巻尺をつまむ手の片方をそっと掴んだ。

 人狼のものとは違う、骨張った男の手がロックの小さな手を持ち上げたり、裏返したりと弄ぶ。まるで骨董品でも鑑定しているような熱心さで見つめてくる。

「な、何ですか?」

 困惑したロックが尋ねると、エベルは笑ってかぶりを振った。

「あなたの手を見ていただけだ。職人の手とはこういうものかと」

「そんなに見られると落ち着かないです」

 エベルの手は温かく、握られているとその熱がじわじわ浸食してくるようだった。そしてじっくりと見られると、ふと自分の素性まで詳らかにされてしまうような不安にも駆られた。

 ロックは彼を振りほどこうとしたが、エベルは笑ってそれを阻む。痛くない程度に力を込めて握ってくる。巻尺がのたうつように揺れても、ロックの手は逃げられない。

「エベル……困ります」

「困るあなたも可愛いな」

 むしろロックを困らせたがっているかのように、エベルは嬉しそうにそう言った。

 そして不意にロックの手を持ち上げたかと思うと、その細い手首に唇で触れた。

「あっ」

 慣れない柔らかい感触にロックはつい声を上げる。

 そしてとっさに赤くなったところを、エベルは見逃さず喉を鳴らした。

「あなたは不思議だな。仕立て屋としては頼もしいことこの上ないのに、こうして触れ合う時は驚くほど奥手だ」

「慣れてないって申し上げたはずです……!」

「そうだったな。私はそんなあなたも好ましいが」

 エベルはロックの手を両手で包むと、囁きかけるように語を継ぐ。

「私は、あなたを何かの代用品とは思っていないからな。あなただからだ、ロック」

 その言葉にロックが息を呑むと、さも真面目ぶった顔つきになってみせる。

「さて。離れがたいが、そろそろ採寸を始めようか。帰りが遅くなってしまう」

「……エベルが離してくれなかったんでしょう!」


 ロックが上げた大声を、廊下のフィービは果たしてどんな思いで聞いたのか。

 動かない扉越しにはわかるはずもなかった。

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