7.3
幼い頃の記憶が蘇ってくる。
――文也君。
そう……
裏の空き地。そこに幼い頃、自分が住んでいたことをやっと思い出す。
隣に住む二つ年上の女の子。
毎日のようにその女の子の家に遊びに行っていた。
朝ごはんを食べ終わるとすぐに玄関を出て駆け出す。2階の窓に人影が見える。こちらを見て微笑みながら手を振っている。
天使がそこにいた。
* * *
「小雪ちゃん!」
自分の声に驚いて我に返った。
気づくとそこはベッドの上だった。どうやら自分の部屋らしい。
後頭部がジンジンと痛む。
「気がついた?」
真下沙織がそっと近づき、文也の顔を覗き込んだ。
「沙織さん――」
起き上がろうとして肩に激痛が走る。
「いいからそのままで」
沙織に言われるまま、文也は再びベッドに身を横たえた。
「沙織さん……足は?」
「大丈夫よ。心配いらないわ」
「君は……小雪ちゃんなんだね」
沙織はジッと文也の顔を見つめ――
「そうよ、思い出したのね?」
静かに沙織……いや、真下小雪が答えた。
「……ああ」
ずっと忘れていた。
自分がかつてこの家のすぐ隣に住んでいたこと。真下小雪という大切な友達がいたこと。そして、その友達の家で起きた殺人事件のこと。
全てを恐怖が記憶の中に封印してしまっていた。
小雪の家に泊まりにいった夜。
あの夜の屋敷のなかのあの光景が今ははっきりと蘇っている。静まりかえった屋敷に響いた悲鳴。ただならぬ気配を感じ取った沙織は自分と小雪の二人を3階の書斎から隠し部屋へと隠し、様子を見に降りていった。その後を追いかけすぐに小雪が隠し部屋から出て行った。そして、二人とも戻っては来なかった。
「僕は怖くて……あの部屋から出ることが出来なかった」
「仕方ないわ」
全てが終わった時、隠し部屋から出てきた文也はリビングで変わり果てた四人の姿を見ることになった。月に照らされた死体。床を濡らす血。そして、そのなかに小雪の姿もあった。
「てっきり……俺は君が殺されたものと思い込んだ」
「無理ないわ。生きてることじたいが奇跡だった。その後、2年もの間私は意識が戻らなかった。私が生きていたのを知っていたのはほんの一部の人だけ。あなたのお父さんもお母さんも私が死んだと思ったはずよ。警察の人がねマスコミにそう発表するように頼んだの。犯人が私が生きていることを知ったら、また狙われるかもしれないからって」
「君はあの後、どこにいたんだ?」
「事件の後、ある人が別人として私を引き取って育ててくれたの。真下小雪は死に、私は水島香織として蘇った。私もあの事件のことをしばらくの間思い出せなかった。でも、時間をかけ、少しずつあの夜のことを思い出してきた。そして、私は決意したの。あの男に絶対復讐をしようって。そして、あの事件のことを私なりに調べたわ。なぜ、私たち家族が狙われたのかを」
「それが2億円の宝石?」
「そうよ。私は母の日記からあの男のことを知った。もう一つの隠し部屋のほうにしまわれていたわ」
文也は思い出していた。あの屋敷にある二つの隠し部屋のことを。一つは3階の書斎からもう一つは居間の床下にある階段から行くことが出来る。二つの部屋はいかにもコンクリートの壁で遮られているように見えるが、実は一枚の扉で繋がっている。
「警察には?」
「話さなかった。それがわかったのが5年前。それを警察に話したところであの男が捕まるとは思えなかった。どうせ名前も変え、顔も変えてしまって別人として暮らしているに決まってる。それよりも罠を張ったほうがいいって考えたの」
「だからここに?」
「この家に何かがあるってことは前からわかっていたわ。20年前の事件の後も何度か何者かが侵入した形跡があったから」
「それじゃあの人たちはずっとここを捜してたわけか」
「そうよ。でも、私を引き取ってくれた人が、すぐにこの屋敷を買い取ってくれたから、その後はあいつらもここを調べることは出来なかった」
「あれから20年も過ぎるのに? 時効だって成立しているんだろ? なぜあの人たちはそんなにも証拠を探していたんだ?」
「たとえ事件として時効が成立していたとしても、事件が表沙汰になればあの男は社会的に地位を失うことになるかもしれない。名前を変え、別人として暮らしていても、母が日記に何を残したのかわからず、あの男なりに脅えていたんでしょう。それに2億円の宝石を諦めることが出来なかったんでしょうね」
「そうだったのか」
青島が決してこの家には近寄らず、日下部を連絡係にしていた理由がやっとわかったような気がした。「……君は僕のことを?」
「知っていたわ。あなたがバイトの面接に来たときは驚いたわ。奇跡が起きたと思った」
「奇跡か……どうしてすぐに教えてくれなかったんだ?」
小雪は小さく首を振った。
「何度も話そうと思った……ホントよ。話したかった。でも、あなたは私のこともあの事件のこともすっかり忘れていた。そんなあなたに20年前の話をしても、あなたは戸惑うだけ。それに私はやらなきゃいけないことがあった」
「青島か……君は僕を使ってあの男を誘き寄せようとしたんだね?」
「そうよ。あの男はこれまでにもいろいろな手を使って、この家のことを知ろうとしてたわ。それでも決してあの男だけはこの家に近づこうとはしなかった。あのバイト募集の広告もあの男の仲間がやってくるだろうと予想してやったことよ。まさかそれがあなたとは思わなかったけど」
「もっと早く教えてくれれば僕だって君の力になれたかもしれない」
「ごめんなさい。でも、もしあなたに全てを話してもあの男を捕まえることは出来なかった。いえ、あの男を捕まえることは出来たとしても、その仲間を捕まえるためにはこうするしかなかったの。あなたが出かけるたびに柿沢さんに尾行してもらったの」
「柿沢さん? それじゃ柿沢さんが殺されたのは――」
「あいつらの仕業よ。きっと柿沢さんを脅して私たちのことを聞き出そうとしたんでしょう。柿沢さんには悪いことをしてしまったわ。私たちに手を貸してくれたばかりに……」
沙織はそう言って目を伏せた。
「そうだったのか」
「実はあなたのお友達にも協力してもらったのよ」
「友達? それって……」
「栗原君よ。あなた、彼からあの書斎の隠し扉のことを教えてもらったんじゃないの?」
「それじゃ……あいつ、知ってたのか?」
「彼には事情を話したの」
「いつ?」
「彼が桑島さんを尾行した時よ。もともとあなたたちが桑島さんを尾行しようとしていたことは知っていたの」
「それじゃわざと?」
「そうよ。話を聞いて彼は協力を約束してくれたわ」
栗原は尾行に失敗したわけではなかったのだ。だからこそ翌日、電話であの家を調べるように自分に言ったのだ。
「もしかして河井礼子の情報を栗原に教えたのは――」
「私よ。彼女のことは私も前から知っていたの。彼女はあの男のことを知っていたにも関わらず、金をもらって嘘の情報を警察に流したの。ただ、彼女からあの男のことを調べ出すことは出来なかった。でも、あなたたちが彼女のことを調べようとすれば、あの男が動くかもしれないって思ったの。だけど、あんなふうに殺されてしまうなんてことまでは予想してなかったのよ」
「それにしても不思議だな。青島さんはどうして僕たちが彼女に会いに行くのを知っていたんだろう?」
「溝口弘子って知ってるわよね。彼女があの男に連絡したんだと思う」
「彼女が? どうして?」
「日下部って名乗っていた男。あの男の本名は溝口幸正っていうの。溝口弘子はその奥さんなの」
「そんな……」
「きっとあの男の指示であなたを見張っていたんでしょうね。栗原君はうすうす彼女を怪しんでいたみたい」
「どうして僕には教えてくれなかったんだ?」
「ごめんなさい。あなたは正直だから。あの男を確実に誘き寄せるためにはあなたに真実を伝えることは出来なかったの」
「僕だけが知らなかったってことか」
文也はため息混じりに言った。
「怒らないで……それに私はあなたが全てを知るのが怖かったの」
「怖い?」
「あなたがすべてを忘れていたでしょう。思い出すことが必ずしもあなたにとってプラスになるわけじゃないわ」
「前にもそんなことを言っていたね。僕はあの後、事件のことを全て忘れてしまった。うちの親は僕のために仙台に引っ越しちまったんだろうね。自分が情けないよ。君のことを忘れてしまっていたなんて」
「仕方ないわ。あの夜の恐怖が記憶を封じ込めていたのよ」
「ここに面接に来る時、『青い鳥』の夢を見たんだ」
「ホント?」
「青い鳥……あれは――」
「姉さんが私たちのために描いてくれた絵本。あなたも思い出したの?」
「うん……僕も思い出した。あれは完成出来なかったんだよね」
すると小雪は小さく首を振った。
「男の子は青い鳥を見つけるの。でも、青い鳥に願いをかけることは出来ず、その羽を持って女の子のもとへ帰るの。女の子は死の淵をさ迷っているところで、男の子はその羽をそっと女の子の胸元へ置くの。すると青い羽が輝き始め、女の子は元気になるの。それが姉さんが考えていたあの絵本の終わりよ。あの夜、私だけそっと教えてもらったの」
「ハッピーエンドか。良かった。沙織ちゃんらしい」
「うん。姉さんらしい」
小雪の顔に沙織の面影を見た気がした。
「そうだ……あいつらのこと、どうするんだ? もう事件は時効を迎えているんだろ?」
思い出すように文也は言った。「警察に引き渡しても、20年前のことを罪に問うことは出来ない」
「それは若先生に任せるわ」
「若先生? ああ……朝比奈亮平か……あの人、探偵だったんだね」
「朝比奈亮平?」
「違うの? さっき僕が気を失う直前にそう言ってたような気がするけど」
「……そう。若先生にはいろんな名前があるから。若先生に任せておけば大丈夫よ」
「あの人は――」
そう言いかけて文也は止めた。
あの男が誰だろうとどうでもいいことだ。沙織の味方であることには間違いがないのだ。それ以上のことは知る必要もない。
全ては終わったのだ。
「終わったんだね」
「ええ……終わったわ。でも、姉さんたちが帰ってきてくれるわけじゃない」
少し淋しそうに呟く。
「大丈夫。これからは僕が一緒にいるよ」
「ありがとう」
そう言って沙織は文也の手に自らの手を重ねた。その表情が柔らかく微笑んでいるように見えた。
了




