7.1
7
月が雲間に隠れている。
暗い部屋のなかに目覚まし時計の文字盤が光る。
じっと拳を握り締めて時間が来るのを待った。
午前12時50分。
文也はそっと部屋を抜け出すと階段を降りて裏口へと向かった。静まりかえった暗い屋敷のなかを月明かりを頼りに足音を忍ばせてゆく。
夕方に栗原から連絡がきた時に今夜のことは伝えてある。相談もせずに青島に隠し部屋のことを伝えたことを怒るかと思ったが、栗原もそのことには賛同してくれた。
裏口のドアから表に出る。
ひんやりと冷たい空気が肌を刺す。
文也は足早に裏庭を駆け抜けると、音が出ないように気をつけながら木戸を開けた。
「よし約束の時間通りだ」
門の脇に黒いジャンバーを着た青島が腕時計を見ながら立っていた。そのすぐ隣には日下部が、少し離れた位置に黒いバンが止まっているのが見える。他にも仲間の刑事が来ているのかもしれない。
「ほなら、俺はここで待機してます」
「何かあればすぐに連絡してくれ」
青島は日下部にそう言ってから、文也に顔を向けた。「よし行こう」
「本当にやるんですか?」
文也の言葉に日下部が眉を吊り上げた。
「何を今更言うてんねん」
「そのためにわざわざやってきたんじゃないか。さ、案内してくれ」
「ええ……」
未だに心の中に躊躇いがある。
「何を迷ってるんだ? 彼らに遠慮しているのか? それなら心配はいらない。今夜、全てが明らかになれば事件は終わる。これは彼らがこれ以上犯罪を重ねないためにも必要なことなんだ。心配なんだろう? 真下沙織のことが」
「……はい」
「それなら急いだほうが良い。協力してくれ」
青島の言葉に小さく頷く。
(あの人のためなんだ)
自分自身に言い聞かせる。
「わかりました」
文也は青島を連れ、木戸を潜ると再び裏口から屋敷に入っていった。
相変わらず屋敷の中はシンと静まり返っている。皆、ぐっすりと寝入っているのだろう。文也たちはそのまま2階を通り過ぎると、3階に向かい書斎の前で足を止めた。
ポケットのなかから鍵を取り出し、書斎のドアを開ける。鍵の回るカチャリという小さな音までが静まり返った暗闇のなかではやけに響いて聞こえる。
文也はドアをそっと閉めると、例の本棚の前に青島を連れて行った。
「この本棚の向こう側です」
囁くように青島に言ってから、先日と同じように本棚の端を少し持ち上げぎみに手前に引き出す。その文也の行動を青島は手伝おうともせず、少し離れたところからじっと見つめている。
ズルズルとカーペットと擦れる音が聞こえ、本棚の向こう側の壁にあの扉が現れた。
「ほぉ、こんなところから」
青島は扉に手をかけてから、一度動きを止めて振り返った。「君が先に行け」
「僕ですか?」
「そうだ」
そう言って扉の脇に立つと躊躇している文也にさらに声をかける「さあ、早く」
有無を言わさぬようなその口ぶりに文也は素直に従った。
「わかりました」
文也は扉を開けると、懐中電灯の明かりを向ける。まるでブラックホールのようにその微かな光が吸い込まれていくような錯覚を覚える。
大きく深呼吸してから、文也は一歩踏み出した。
パタン……スリッパがコンクリートの階段を踏む音が闇に小さく響く。
文也はそっと手を壁に這わせながら、その急な階段を踏み外さないように気をつけながら一歩一歩降りていく。
カツンという音が聞こえ、ゆっくりと振り返る。
ふと青島が履く黒い革靴が目についた。気づかなかったが、青島は靴を履いたままで上がってきたようだ。
青島が顎で早く進むようにと指示を出す。
青島に促されるように文也は再び前を向く。右手をコンクリートの壁に這わせ、ゆっくりと階段を降りていく。
(何だ……)
妙な感覚が文也を襲っていた。
先日、この階段を見つけた時もそうだった。
初めて来たはずのこの部屋。それなのに妙な懐かしさが心のなかに沸いている。
(俺は……この部屋を知っている?)
そっと壁に手をはわせる。ザラリとしたコンクリートの感触。その感触が脳に強い刺激をもたらす。
パチパチと頭のなかに火花が散るような音が聞こえる気がする。
足が震えている。
(俺は前にもここに来たことがある)
頭では忘れてしまっていても体が憶えている。
いったいいつだろう。
まったく記憶は蘇ってこない。
やがて、灯りの照らす方向から階段が消え、コンクリートの床が見えた。
二人は階段を降りると、その場に立って懐中電灯で辺りを照らした。コンクリートで塗り固められた壁、天井は低く20畳ほどの広さの部屋が広がっている。
「なんだ……これは」
何もないコンクリートの壁を見つめ青島が声を出した。
* * *
「からっぽじゃないか」
唖然とした声で青島が言った。「いったいどういうことだ? どうなってるんだ?」
「何を捜しているんですか?」文也が声をかける。
「君は知らなくていい」
背を向けたままで青島は答えた。
「でも――」
「少し黙っていてくれないか」
青島は壁に近づいていくと懐中電灯で照らしながら壁を調べている。「くそ、ダメだ……」
「どういうことです?」
「他に隠し部屋はないのか?」
振り返って青島が訊いた。その口調から苛立っていることがわかる。
「さあ……わかりません。僕が見つけたのはここだけです」
「どうなってるんだ。あいつら、先にアレを見つけたのか?」
再び青島は文也に背を向けるとブツブツと独り言のように呟き、革手袋をはめた左手で壁をゴンゴンと殴る。
その仕草を見た瞬間、小さな疑惑が心のなかで生まれた。
「あの……河合礼子さんは誰に殺されたんでしょう?」
文也の言葉に青島は振り返った。青島の持つ懐中電灯が文也の顔を照らし、文也は思わず眉をしかめた。
「何だって?」
「河井さんです。あの人を殺した犯人は誰なんです?」
左手で懐中電灯の光をさえぎりながら文也は言った。
「こんな時に何を言ってるんだ?」
「今、思い出したんです。河井礼子さんの家から青島さんに電話した時、青島さんはこう言いました。『君たちは早く逃げたほうがいい』って」
「それがどうしたって言うんだ? 君たちのためを思って言ったんだが、それが何か問題なのか?」
「なぜ『君たち』なんですか?」
「何?」
「僕は確かにあの時、友人たちと一緒でした。でも、そのことをあなたには話していない。それなのにあなたは僕が一人じゃないことを知っていた。なぜですか?」
「それは……」
青島は言いよどんだ。
「それだけじゃない。ひょっとしてあなたは河井礼子さんが殺されていたことも知っていたんじゃありませんか?」
一度、芽生えた疑惑はどんどん胸のなかで膨らんでいく。しかも、それはある一定の形を成している。
「バカなことを」
「バカなことでしょうか? あの時、青島さんはどこにいたんですか?」
そっと視線を落とし、青島の足元を見つめる。黒い革靴。あの時、玄関には大きな革靴が一つ置かれていた。河井礼子は一人で暮らしていはずだ。だとするとあれは河井礼子以外の誰かのものだ。ひょっとしたらあれは青島のものだったのではないだろうか。
そして、タイミングよくかかってきた電話。あの時、青島があの家のなかに潜んでいたとしたら、自分たちを早く追い出すためにかけたのではないだろうか。
「君が友達と一緒だということは電話で君が言ったんじゃないか。君は慌てていたから忘れたんだろう」
「そんなはずありません」
文也はすぐに言い返した。「僕があなたに雇われていたことは、僕にとって何よりも隠さなければいけないことのはずです。だから、僕はあなたには決して友人のことを話さなかった」
「……」
「まさか河井礼子さんを殺したのは――」
「違う。あれはここの奴らがやったことだ」
「嘘よ」
その声に文也と青島はハッとして振り返った。「彼女を殺したのはその男よ」
階段を人影が降りてくるのが見えた。
その影がゆっくりと青島の照らす懐中電灯の光の中へと進み出た。
そこに沙織の姿があった。
「待ってましたよ。やっと来てくれましたね」




