5.3
古本屋を出て空を見上げる。
西の空が赤く染まり始めている。
――復讐だよ。
本当に河井礼子は20年前の復讐のために殺されたのだろうか。そして、沙織たちは何か関係しているのだろうか。
とても真直ぐに屋敷に帰る気にはなれなかった。
栗原と別れた後、文也は気分転換のために神田を回り、さらにその帰りに気まぐれに隣町の駅で降りて古本屋を探す。以前、ここで友人が珍しい本を見つけたという話を聞いたことがあったからだ。
だが、何をしていても、栗原の言葉、そして、昨夜のことが頭から離れない。
(あの男は誰なんだ?)
真下秀光との言い合いを思い出す。それに沙織の言葉――
あれはとても家族間の話とは思えなかった。
(偽装家族……)
そんな言葉が頭に浮かぶ。
だが、いったいなぜそんなことをしているのだろう。おそらくその理由は真下秀光たちも知らされてはいないのだろう。そう考えれば昨夜の言い合いも納得出来る。
問題は誰が彼らにそんな指示を出しているか……ということだ。
それを知ることが出来れば、事件の全てが明らかになるのかもしれない。
ポケットから携帯電話を取り出しその時刻に視線を走らせる。
すでに午後4時半を回っている。
そろそろ小雪が帰って来る時間だ。いくら家庭教師の役割を果たしていないとはいえ、その時間に家にいないわけにはいかない。
駅への道を少し足を速めて急ぐ。
買い物帰りの主婦や下校途中の小学生や中学生の姿がちらほらと目に付く。そんな中、前方を行く一人の小学生らしき姿が目に止まった。
デニムのスカートに白いブラウス。見たことのある赤いランドセルを背負った小柄な後ろ姿。ランドセルにはアニメのキャラクターの人形が歩調に合わせて揺れている。
(あれは……)
小雪だ。
一人で黙々と少し俯きがちの姿勢で歩いている。
(なぜこんなところに?)
小雪が通う学校とはまるで方角が違っている。人違いだろうか。だが、その後姿は小雪に間違いない。
歩調を緩め、後ろからその様子を伺う。
次第に小雪は住宅街へと向かっていった。
あちこちに大きなマンションが立ち並ぶ。
そのなかの一際大きなマンションの前に差し掛かると、小雪は急に向きを変えてそのマンションの入り口へと向かっていった。
つい最近建てられたばかりのおよそ15階建てのマンションは周囲の古びたものとはまるで一線を画し異彩を放っている。
文也は離れた自動販売機の陰からわずかに見える小雪の動きを見守った。
小雪は入り口横に設置されているセキュリティシステムに向かって手馴れた手つきでルームキーを使い、開いた自動ドアから中へと入っていった。
(ここは……)
そっとマンションの前で様子を伺う。
マンションの前には『フローレンス松並』とマンション名が彫られている。
こんなところに小雪はいった何の用があって入っていったのだろう。友達の家だろうか。だが、小雪はルームキーを使用していた。となると、友達の家というのは考えにくい。真下家で所有しているマンションだろうか。
文也はしばらくその場で様子を見ることにした。
自動販売機の横にそっと立ち、マンションのほうの気配を伺う。
マンションから花柄のシャツを着て買い物籠を持った40代半ばの女性が姿を現し、ちょうどすれ違ったもう一人の女性とマンションの前で雑談している。
なかなか小雪が出てくる様子はない。
20分ほどが過ぎ、そろそろこの場を去ろうか思い始めた頃、再び小雪がマンションから姿を現した。
小雪はマンションの前で話し込んでいる女性に軽く挨拶して出て行った。どうやらその女性とは顔なじみのようで、女性のほうもにっこりと微笑み何か一言二言話しかけている。
小雪が道を曲がって見えなくなると、文也は道を渡り女性のほうへと近づいていった。ちょうど二人の立ち話も終わり、一人がマンションの中へと入っていく。
文也は買い物籠を持った女性に声をかけた。
「あれ……さっきここにいたのって真下小雪ちゃんですよね」
「あなた、どちらさん?」
怪訝そうに女は文也を見た。
「港小学校の教師です」
その答えに途端に女の表情が変わる。
「あら、先生ですか。あれは違いますよ。あれは美幸ちゃん。人違いじゃないですか?」
愛想良く笑いながら女は答えた。教師によるさまざまな犯罪が起こる今でも、教師や警察官というのは特別に良いイメージが残っているようだ。
「人違い?……そうかなぁ。何か勘違いしてませんか?」
「私は間違ってなんていませんよ。あの子は村松美幸って言うんですよ。うちにも同じ学校に通う娘がいますからね。よく知ってるんです」
自分が間違うはずないだろうという表情で女は言った。
「村松美幸ですか……ご両親は?」
「お二人ともお仕事だと思いますよ。お父さんが雑貨品の輸入販売業、お母さんが翻訳のお仕事をされてるそうで、二人とも一年の半分以上が海外で暮らしてるんですって」
「それじゃ家には彼女だけ?」
「ええ。かわいそうですよねえ」
女は強く同情するような言い方をした。
「彼女、このマンションに住んでるんですか?」
「そうですよ」
「彼女、親戚はいないんですか?」
「親戚? 確か愛媛のほうにお父さんの弟さんがいるって聞いたことがありますよ」
「愛媛? 他には? この近くにはいないんですか?」
「さあ、聞いたことないですねえ。それがどうかしたんですか?」
女は怪訝そうに文也を見た。
「いえ……」
一瞬、真下家とは親戚関係で、両親がいない間だけ真下家に身を寄せているのではないかとも考えたが、どうやらそうではないようだ。
「先生、お名前は?」
「……大沢です」
咄嗟に適当に頭に浮かんだ名前を答える。
「大沢先生? 先生は何年生を受け持ってるんです?」
女は少し怪しむような表情で声をかけた。「妹の娘が港小学校に通ってるんですよ。知ってます? 笠原みどりっていうんですけど」
「さあ……」
ぼんやりとしながら文也は適当に答えた。
「失礼ですですけど……あなた、本当に先生?」
そういう女性の声を無視しながら、文也は駅のほうへ向かい歩き出した。
* * *
小雪の部屋のドアをノックする。
カチャリと鍵が外れる音が聞こえ、すぐにドアが開き小雪が顔を出した。
「もう6時ですよ。どこか出かけてたんですか?」
いつものように澄ました顔で小雪が訊く。
「ちょっとね」
と答えながら部屋に入る。「もう勉強始めてたの?」
「一応、一人で問題集をやってました」
「終わったの?」
「もうちょっとです」
そう答えながら机の前に座る。
「じゃあ、それを終わらせてくれる?」
「はい」
小雪はそう言って問題集を解き始めた。その隣に座り、ぼんやりと小雪が問題集を解いている様子を眺める。
小雪が問題を解くのに集中していることを確認してから、文也は小さく声をかけた。
「美幸ちゃん――」
「何?」
何気なく顔を文也に向ける。だが、次の瞬間、その小雪の表情が変わっていった。
「やっぱり美幸ちゃんって言うんだね」
「し……知らない」
慌てて小さく首を振る。
「隠さなくてもいいよ。村松美幸っていうのが君の本名なんでしょ?」
「……」
ギュッと口を閉じ、強張った表情で問題集にじっと視線を向けている。
「大丈夫。誰にも言わないからさ。でもさ、君のお父さんたちは君がこんなことをしているのを知っているの?」
「どうして? どうして私の名前がわかったの?」
小雪は文也に顔を向け、堪えきれないように言った。
「さて、どうしてでしょう?」
「ふざけないでよ」
小雪の目に焦りの色が見える。
「今日、偶然に君を見つけたんだ。あのマンションが君の本当のお家なんだろ?」
「後を尾けたの?」
「それよりどうしてこんなことをしているのか聞きたいな。君とこの家の人たちってどんな関係なの?」
「……」
「君のお父さんたちはこのこと知ってるの?」
「……」
「学校の先生は?」
「そんなの関係ないでしょ!」
「関係ないことはないさ。別の名前を騙り、別の家で暮らしてる。これっておかしなことだとは思わない? しかも君はまだ小学生だ。もし、学校や親が知らないとすれば――」
「喋るつもりなの?」
キツい視線で文也を睨む。だが、その瞳にはこれまでのような突き放すほどの強さはない。わずかに涙で目が潤み、むしろ脅えているように見える。
「まさか。ただ、美幸ちゃんがおかしなことに巻き込まれているとしたらお父さんや学校の先生たちは心配するんじゃないかな?」
半分脅しになっていることは自分でも承知している。しかも相手は小学生だ。可愛そうだが、それでもこの家族のことを明らかにするためにはこれしか手がない。
小雪はどうしていいか困ったように視線を漂わせた。
「教えてくれないかな」
文也はもう一度、柔らかく言った。「君が困るようなことにはしない。約束する」
「……ホント?」
「うん」
美幸はそれでもまだ躊躇うように一度視線を伏せた後――
「……お仕事なの……」と小さな声で言った。
「仕事? どんな?」
「この家で『小雪』って子を演じること」
ポロリと頬を伝う涙を拭いながら小雪は答えた。
「どうしてそんなことを?」
「沙織ちゃんに頼まれたから……それに家にいても一人で淋しかったし。ここのほうが楽しいもの」
俯きながら小雪は答えた。両親は仕事で海外に出かけ、ずっと一人でのマンション暮らしという特殊な環境が彼女をこのバイトへと動かしたのだろう。
「沙織さんとはもともと知り合いだったの?」
「違う……ネットでバイトを募集してたの。小学4年生ってことが条件で、私、本当は5年生だけど身体小さいから」
つまり彼女が文也の前でやっている勉強は全て去年一通り習ったもの。文也の授業など不必要であることも当然の話だ。
「そっか小雪ちゃんもバイトだったわけだ。どうりでこの家の人たちのことを訊こうとすると答えなかったわけだ。それも沙織さんの指示?」
「そういうわけじゃないけど……私もあの人たちがどんな人なのか知らないし……へたに答えてバレちゃったら困るから」
「沙織さんはどうしてこんなことをしてるのかな? 何か教えてもらった?」
「それは私にもわかんない」
「ホント?」
「ホント」
美幸は真っ直ぐに文也を見た。どうやら嘘はついていないようだ。
「沙織さんに頼まれたって言ったよね。美幸ちゃんは桑島さんって男の人のことは知らないの?」
「くわじま?」
美幸は首を傾げた。「知らない」
「そう……」
おそらく沙織は桑島の指示によって小雪を雇ったのだろう。
「本当にこのことは誰にも言わないでくれる?」
「約束する」
「私……どうすればいいの? もうこんなこと止めたほうがいいの?」
「いや、今はまだ黙っていたほうがいい。俺も君の正体のことは誰にも言わないからさ」
そう言って文也は小雪の頭にそっと手を置いた。その言葉に小雪はやっとホッとしたように子供らしい笑顔を見せた。




