5.1
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ふと、目が覚めた。
窓から差し込む月の光にわずかに照らされた天井が見えている。
目が覚めた瞬間には眠気が消え去っている。
昔から眠りの深いほうではない。よほど疲れているときでない限り、小さな物音で目覚めることが多かった。
(何だ?)
そのままの姿勢で耳を澄ます。
エンジン音だ。
住宅街ということもあって、深夜に車が走ればその音はやけに目立つ。
エンジン音は一定な音量を保ちながら聞こえている。
おそらくすぐ家の前に車が止まっているのだろう。だが、その音は道路からではなく、もっと近くから聞こえてくる。
やがて音が止まった。
ベッドから降りるとそっと窓際に近づいてカーテンの隙間から外を見る。
屋敷の庭に黒のベンツが止まっている。磨かれたボンネットの上で月の淡い光がぼんやりと反射している。
その運転席のドアが開き、姿を現した人影が玄関のほうに向かってくる。すでにポーチの明かりが灯り、沙織が来訪者を迎え入れようとしている。黒いスーツをきっちりと着込んだ白髪の混じった初老の男がポーチの明かりに照らされ浮かび上がった。
見たことのない男だった。男は沙織の前で一度足を止めると、軽くお辞儀をしてから中へと入っていった。
胸騒ぎがする。
(誰だ?)
すぐに枕元にある目覚まし時計に目を向けた。
午前3時。
普通の客が来る時間ではない。
文也はドアに近づくとそっとドアを開いた。そして、そのまま部屋を出ると階段のほうへ向かって歩いていった。
パタンとドアが閉まる音が1階のほうから聞こえてきた。おそらくリビングのドアの閉まる音だろう。
あの初老の男がこの屋敷の人々の謎を握っているような気がしてならない。
1階の廊下に明かりが灯っている。
周囲に気を配りながら、慎重にリビングの前まで近寄っていく。
「今夜はどうしました?」
ドア越しに聞き慣れない声が聞こえてきた。おそらくベンツに乗ってやってきたあの初老の男の声に違いない。
「教えてください。こんなこと続けてて何になるんですか?」
これは真下秀光の声だ。
「そんなことを聞くために私を呼んだのですか? あなたたちがそれを知る必要はありません。あなたたちはこちらの言うとおりに動いてくれればそれでいいのです」
男は柔らかな口調で答えた。それに対し秀光は語気を強めた。
「私たちだってただの道具じゃありません。聞かせてください。もし、あなたたちがやっていることが正しいことであるなら、私たちもあなたたちに協力します。しかし、それが何か犯罪に関わっているとしたら――」
「それなら心配する必要はありません。何があろうとあなたたちが罪に問われるようなことはありません」
「お願いです。教えてください。桑島さん、あなたは事情を知っているんでしょう?」
秀光は懇願するように言った。
(桑島?)
どうやらそれがあの男の名前のようだ。
「答える必要はありません」
その声はもの静かだが、それでもどこか凛とした強さを持っている。
「しかし――」
「あなたたちには十分な報酬を支払っているはずです」
「それはわかっています。仕事を失い、生活に困っていた私たちを助けていただいたことは感謝しています。しかし、こんな生活を続けて早1年が過ぎます。もし、何か事情があるなら教えていただけませんか?」
「あなたたちが知る必要はありません」
「黙って言うことを聞けということですか?」
「不満があるのですか?」
「そういうことを言っているわけではありません。我々はただ不安なんです。これからいったい何が起きようとしているんですか?」
秀光の声が次第に大きくなる。
「申し訳ありませんが、それを私に答えることは出来ません」
「なぜです? そもそもあなたはいったい何者なんです?」
「前にも話したはずです。私はある人に仕えている身です。それが誰なのかはあなたたちに教えることは出来ません」
「つまり今回のことは全てその人の指示ということなんですね?」
「そう思っていただいて構いません」
「朝宮という人ですか?」
その途端、ピタリと会話が止まった。
(朝宮?)
文也は息を飲んで、部屋から聞こえてくる声に耳を澄ました。
やがて――
「……どうしてその名前を?」
「沙織さんとあなたの電話を偶然耳にしました。その人が私たちの雇い主なんですね」
「……」
「その人に会わせてください」
「いったいどうしたというんですか? 今までそのようなこと一度も言わなかったじゃないですか」
桑島は相変わらず静かな声で言った。一瞬、沈黙が流れる。わずかに時間を置いてから恭子の声が聞こえてきた。
「怖いんです」
「怖い? 何がです?」
「決まっているじゃないですか。私たちが何も知らないと思っているんですか? もう1年もここで暮らしているんですよ。いろんな噂だって入ってきます」
「20年前の事件のことですね。それならご心配いりません。あなたたちの身に危険が及ぶようなことにはいたしません」
その言葉を遮るように秀光が口を挟んだ。その口調からイラついていることが伝わってくる。
「どうしてそんなことが言えるんです?」
「困りましたね。信じていただくほかありません」
「どこの誰ともわからない人の言葉を信じろというんですか?」
「二人ともやめてください」
沙織の声だ。
「沙織さん、あなたはどう考えているんです? あなただって私たちと同じように利用されているんでしょう?」
少し責めるように秀光が言った。
(沙織さん?)
それはとても自分の娘に対する呼び方とは思えない。
「利用とはどういうことでしょうか?」
と言い返したのは桑島だった。「1年前の契約を忘れたわけではないでしょうね。事の子細に口を出さず、こちらの指示に従うこと。契約書にはそのことがちゃんと明記されていたはずです。違いますか?」
「あ、あれは……」
「それとも今になって契約を破棄するとでも?」
相変わらず静かな口調で桑島は言った。だが、その言葉には明らかな脅迫めいた力が秘められていた。
「それは……」
「いいですか? あなたは1年前に契約をされたのです。何も聞かず、期限を決めず、私の依頼を受けること。それがあなたと交わした契約です」
「しかし――」
「もちろん確かにあの契約は法的根拠などないものです。あなたが契約を破棄し、ここから立ち去ったとしても、私としても法的にあなたを訴えることなどは出来ません。ただ、こちらとしてもそれなりの対処をさせていただきます」
「き、脅迫するつもりですか?」
「とんでもありません。ただ、私は世の中の道理をご説明しているだけに過ぎません。どうなのです? 契約を守るのですか? 守らないのですか?」
ピシャリと桑島が言った。
わずかな沈黙の後で秀光の声が聞こえてきた。
「あなたとの約束は守ります……けど、あなたも私たちを信じてもらえませんか?」
さっきまでの勢いは消えさり、その声は弱々しい。
「信頼していますよ」
「それなら事情を説明してください。復讐のためですか?」
「誰がそんなことを?」
「違うんですか? 20年前に殺された人たちとどんな関係があるんですか?」
「その質問にお答えする必要はありません」
「桑島さん――」
「一つ申し上げておきます。あなたたちは指示されたようにだけ動いてください。あなたたちは駒に過ぎません。余計なことを考えたり動いたりしてはいけません。それが幸運を掴む秘訣です」
丁寧な口調。だが、それは明らかな脅しのような文句だった。
一瞬、静まり返った後――
「では、私はこれで失礼します」
桑島の声が聞こえ、文也は慌ててドアの前から離れると急ぎ2階の部屋へと戻った。部屋の明かりを消し、そっとカーテンの隙間から外の様子を伺う。
やがて、玄関のドアが開き沙織と桑島の二人が並んで出てくるのが見えた。
二人は何かを話しながら車に近づいていき、桑島が何か一言言ってから車に乗り込んだ。そして、車はゆっくりと動き出し去っていった。




