4.3
その日の夜。
河井礼子が殺された事件について、テレビのニュースが一斉に報道を始めた。
夕方、近所に住む主婦が回覧板を持っていき、死体を発見して警察に届けたらしい。河井礼子は10年前に離婚し、それ以来ずっと一人で生活をしていたようだ。
首に細い紐を巻きつけられ、床に倒れていた礼子の姿が脳裏に焼きついている。弄られるように殴られ、腫れて血で汚れた顔。
いったい誰があんな酷い殺しかたをしたのだろう。
「面倒なことになったもんだな」
ゴロリと横になったまま、リモコンでテレビのチャンネルを変えながら栗原が言った。
まっすぐに屋敷に戻る気分になれず、栗原の部屋に寄って気分を落ち着けてから帰るつもりだった。
遅くなることはすでに屋敷に電話で伝えてある。
「悪いな」
「いいさ。『毒を食らわば皿まで』ってことだ。それよりさっきの話だが――」
そう言って栗原が体を起こし胡坐を組む。すでに栗原には全てを話してある。あの家にバイトに入った事情も、そして青島のことも。
「信じられるのか? その男」
「青島さんが嘘を言ってるっていうのか?」
「さあな。ただ、俺は基本的に自分の目で見たこと以外信じないことにしてるんだ」
「じゃあ僕の話は?」
「それは信じる。おまえがそんな器用な嘘をつけるとは思ってないからな」
誉められてるのか貶されてるのかわからない。
「どうすればいいんだ?」
「20年前の事件のことをちゃんと調べてみる必要があるな。ネットか何かで調べれば、昔の記事も調べられるだろ。俺のほうでやってみる」
「僕は何を?」
「そうだな。青島って刑事の言う通り、あの家の人たちを探ることだ」
栗原は少し声を低くして言った。「20年前の事件、それに今日殺された河井礼子にこの家の人たちがどう関わっているのか」
「でもどうやって?」
「方法は任せる。少しくらい違法なこともしなきゃいけないかもしれないな」
「違法なこと?」
だが、それに栗原は答えようとはしなかった。それが何を示しているかは、文也にも理解出来る。
黙ったままタバコに火をつけた後――
「今度、会わせてくれないか?」
「え? 誰に?」
「青島って刑事に」
「無理だよ。そもそもあの人のことは誰にも話しちゃいけないことになってるんだ」
「そっか、それじゃあの家はどうだ? 一度遊びに行っちゃだめかな?」
「どうして?」
「友達が一人くらい遊びに行ったからって怪しまれることはないだろ。それに日中なら誰もいないんだろ?」
「そりゃそうだけど……何する気なんだ?」
「見てみたいんだ。その家を。家族4人が殺された家……か」
「嫌なこと言うなよ」
「別に興味半分で言ってるわけじゃないから誤解するなよ。それにしてもその人たちは20年前の事件のこと知ってるのか? まあ、当然知ってるんだろうな」
「どうなんだろう」
「徹底的に調べよう。俺もおまえももうただの興味半分じゃいられない」
厳しい口調で栗原は言った。
「ごめんな。変なことに巻き込んじゃって」
「いや……実は俺もおまえに話さなきゃいけないことがあるんだ」
改まったように栗原は言った。
「何だ?」
「河井礼子のことなんだが……あれは俺が調べたことじゃないんだ」
タバコの灰を灰皿に落としながら栗原は言った。
「町内会長さんに聞いたんじゃないのか?」
「確かに町内会長さんのところに聞きに言ったのは本当だ。だが、その時はそれほどはっきりしたことはわからなかった。もちろん河井礼子のことも」
「それじゃどうして?」
「町内会長さんの家に話を訊きに行った次の日、手紙が来たんだ。中には河井礼子のことが書かれてた。差出人の名前はなかった。てっきり町内会長さんが教えてくれたもんだと思ってたんだが……どうやら違ったようだ」
「それじゃ誰が?」
「わからない。誰かが俺たちに河井礼子と会わせようとしたのかもしれない。そういう意味じゃ、俺がおまえを巻き込んでしまったのかもな」
「どういうことだろう」
「さあな……これも運命なのかもしれない」
そう言ってゴロリと横になる。
「運命?」
「俺は美奈子から逃れることは出来ないみたいだ」
その言葉の意味が文也にはわからなかった。栗原はタバコの煙を燻らせながら、遠いところを見つめるような眼差しでぼんやりと天井を見上げている。
少し時間をおいてから、文也は栗原に声をかけた。
「美奈子って?」
「俺の妹だ」
「妹がいたのか」
初耳だった。そもそも栗原が自分から家のことを話すのは珍しいことだった。
「俺が11歳の時、母親が病死したんだ。それからすぐに親父は再婚してな。向こうにも娘が一人いて、俺より5つ離れてた。ガキのくせに妙に口調が大人っぽくてな。子供の頃はなんか煩わしくて。血が繋がってなかったからかな……」
「兄弟ってそんなもんなんじゃないかな。僕にも妹がいるけど、子供の頃は煩く感じたもんだよ。それも少しづつ変わっていくもんだよ。家族の中じゃ一番、僕のことを理解してくれてる気がする。栗原だってそうだろ?」
「どうかな……今となってはもうわからない」
「どうして?」
栗原はゆっくりと体を起こし、タバコを灰皿に押し付けると――
「俺が中学生の時、死んだんだ」と呟くように言った。
「死んだ?」
「殺されたんだ。学校の帰りに行方がわからなくなった。誘拐かもしれないって、すぐに警察にも通報した。だが、二日後、川辺で倒れているのを俺が見つけた。首を絞められて死んでいた」
「誘拐だったのか?」
「さあ……犯人からはまったく連絡はなかった。もちろん身代金の要求も。乱暴された跡もなく、警察は怨恨の線で捜査をはじめた。何しろ親父はいろいろと恨みを買うことが多かったからな。結局、犯人は見つからなかった」
「知らなかった」
今まで栗原があまり家族のことを話そうとしなかったのは、そんな過去があったからなのだろう。
「誰にも話したことなかったからな。俺だって忘れられるものなら忘れてしまいたいと思い続けてた」
「忘れられるわけないよ」
「ああ、今日、河井礼子の死体を見てそうはっきりと感じた。あの時、俺には河井礼子の姿が美奈子に見えた。河井礼子が美奈子に似てたわけじゃない。顔だって歳だってまるで違ってる。それなのに俺にはあれが一瞬、美奈子の姿に見えた。あいつは俺の親父のせいで殺されたんだ。血も繋がってないあの親父のせいで……いや……俺のせいだ。俺の親父のせいで殺されたんだとしたら、本当は俺が殺されなきゃいけなかったんだ」
額を押さえながら呻くように栗原は言った。
「そんな考えかたって間違ってる」
「わかってる……何が正しくて何が悪いのか。俺にだってわかってる。それでも俺にはそう思えてしまうんだ」
「……栗原」
「美奈子が殺されたことと、今度の事件とは何の関係もない。そんなのは俺にだってわかってる。でも、どんな殺しであっても、美奈子が殺されたことを思い出してしまうんだ。あいつが俺を恨んでいるような気がしてならないんだ」
テレビ画面では再び、河井礼子が殺された事件を報道するニュース番組へと切り替わっている。
『本日、神奈川県川崎市に住む――』
淡々と男性キャスターが原稿を読み上げる。そして、現場の映像が流れ、その脇に河井礼子の写真が写った瞬間――
「あ……」
文也は思わず声をあげた。
「どうした?」
「今まで気づかなかったけど、河井礼子って人……どこかで見たような気がするんだ」
「なに? 知ってるのか?」
「違う……そんなんじゃない。ただ、ずっと前にどこかで見たような気が……」
文也はそう言って頭を抱えた。
そうだ。確かにどこかで彼女を見た記憶がある。それなのにまるでそれが思い出せない。
遠い記憶。忘れてしまった古い過去。
いったいあれはどこだったろう。
* * *
屋敷に戻ったのは深夜1時を過ぎてからだった。
すでに屋敷の明かりは消え、皆、寝静まっているようだった。キッチンのテーブルにおにぎりが二つ皿に置かれていた。どうやら明美が文也のために用意してくれていたもののようだ。
文也は一人おにぎりを食べると、簡単にシャワーを浴びてから部屋に戻った。疲労のせいだろうか。全身がだるく、重かった。
すぐに眠ってしまいたかった。だが、ベッドに入ってみても眠ることが出来ない。
河井礼子の死んだ姿がどうしても頭にこびりついて離れない。
いったい誰が彼女を殺したのだろう。なぜ、彼女は殺されなければならなかったのだろう。
真下家と何か関係があるのだろうか。それともまったく真下家とは無関係の事件で殺されたのだろうか。だとすればあまりにもタイミングが悪すぎる。
そもそもなぜ自分は彼女のことを知っているのだろう。
(いつ? どこで彼女を見た?)
考えれば考えるほど、頭のなかがごちゃごちゃと整理がつかなくなってくる。
(くそ……)
文也は諦めて起き上がった。
こんな状態ではとても眠ることなど出来るはずがない。
ベッドから降りるとビールでも飲むつもりで先日買ったばかりの小型冷蔵庫に近づく。その時、突然、ドアが小さくノックされた。
振り向いて枕もとに置かれた目覚まし時計に視線を向ける。
午前2時。
一瞬、躊躇っていると、もう一度ドアがノックされた。
「三里さん、私です」
沙織の声だ。
文也が急いでドアへ向かい鍵を開けると、そこに沙織の姿があった。白いワンピースの上に薄いピンクのカーディガンを羽織っている。
「寝てた?」
「いえ……どうしたんですか?」
訊きながら沙織の手元を見る。その手にはワインボトルが握られていた。
「眠れないの。またちょっと飲もうかと思って。付き合いませんか?」
「いいですよ。僕もちょっと眠れなかったから」
沙織の誘いが嬉しかった。こんな時は飲んで全てを忘れてしまいたいものだ。
文也は部屋を出ると沙織について行った。沙織は階段をあがっていくと、書斎の前で足を止めた。
「ここですか?」
この部屋には今まで一度も入ったことはない。いつも鍵がかけられ、その鍵は沙織だけが持っていると明美に聞いていた。
「ここが一番落ち着くの」
沙織はドアに鍵を差し込むとドアを開けた。そして、明かりも点けぬまま部屋のなかへと入っていった。
「あの……電気は?」
「いらないわ」
月明かりが窓から入り込み、部屋をうっすらと明るく照らしている。確かにこれなら灯りは必要ない。
部屋の中央には丸いテーブルと大きなソファが二つ窓のほうを向いて置かれている。
沙織は部屋の脇に置かれた棚のなかからグラスを二つ取り出すと、テーブルの上へと置いた。
「座って」
言われるままにソファに腰を降ろす。
ちょうど窓の向こう側に丸い月が煌々と輝いて見える。まるで眺めの良い展望台から空を眺めているような気分になる。
沙織は何も言わぬままにボトルを開けると、テーブルの上に置かれたグラスにワインを注いだ。そして、ボトルをテーブルの真ん中に置くと、グラスに手を伸ばした。文也もそれに習う。
ひんやりと冷えたワインが喉元を過ぎていく。
「三里さんは奇跡を信じますか?」
突然、沙織が言った。
「どうしたんですか? 急に」
「私は奇跡を待っているの」
その言葉にドキリとした。それは常日頃、自分自身も漠然と同じような気持ちを持っていたからだ。
「奇跡? どんな奇跡ですか?」
「それは……」
沙織は躊躇うように言葉を切った。「あなたが知る必要ないわ」
「でも、奇跡なんてそうそう起きるものじゃないですよ」
「そうね。でも、それでも私は信じるわ。現にいくつかの奇跡を私は知ってる」
「何ですか?」
「内緒よ」
そう言った沙織の表情はいつもと比べて柔らかい気がした。「三里さん、忘れ物は見つかりそうですか?」
「忘れ物?」
「前に私に言っていたでしょう? 忘れ物、捜してるんでしょ?」
面接でのやりとりのことを思い出す。
「なかなか難しいです。忘れ物が何なのかもわからないくらいだから」
「早く見つかるといいですね。でも、いつからそんなふうに思うようになったんですか?」
「それは――」
言いかけて言いよどんだ。
(いつだったろう?)
今まであまり深く考えたこともなかった。ただ、漠然と何か自分にとって必要なものを捜さなければいけないような気持ちが強かった。
「……忘れちゃいました」
考えた後、文也は苦笑しながら答えた。「でも、ずいぶん昔からそんなふうに感じていたような気がします」
「忘れることは悪いことではないわ」
「前にもそんなこと言ってましたね」
「人生良い事ばかりじゃありませんからね。忘れてしまうってことはそれは記憶していてはいけないことなのかもしれません」
「沙織さんも忘れたいことがあるんですか?」
「……いいえ、でも忘れてしまえば楽になれるかもしれないと思うことはあります」
その横顔がどこか寂しげに見える。
「何か俺に出来ることありますか?」
思わず口をついて出た。
「なぜ?」
「いえ……」
(あなたの力になりたいんです)
心のなかでそっと呟く。
「それにしても凄い本の数ですね。旦那様のですか?」
その雰囲気を変えるように、文也は振り返って本棚を眺めた。
「いえ、これは母の趣味です。本が好きな人でしたから。この部屋も母のリクエストで造ったんです」
沙織はまるで遠い昔を懐かしむような言い方をした。
「へぇ、奥様のですか。ここって良い場所ですよね」
「そうですか?」
「はい。なんか落ち着く感じがします」
本に囲まれた部屋。子供の頃からこういう部屋が欲しかった。
「そうだ。この鍵をあなたにお貸しします」
沙織は文也の前に鍵を一本置いた。
「これは――」
「この部屋の鍵です。自由に使ってください」
「良いんですか?」
「好きな時に使ってくれてかまいませんよ」
「ありがとうございます」
文也は素直に礼を言って鍵を受け取った。「変ですよね。なんかここにいると懐かしい感じがしてくるんです」
「懐かしい?」
「記憶っていうよりも……そう、DNAが懐かしがってるって感じかな」
冗談のつもりで文也は言った。だが、沙織は表情一つ変えることはなかった。
「……DNAですか」
小さく呟きながら文也の顔を見つめる。
「あ……おもしろくなかったですか? 冗談のつもりだったんですが……」
文也は苦笑して頭を掻いた。
「いえ、そんなことありませんよ」
「そういえば沙織さん、あまり笑いませんね」
「変な女だと思ってるんでしょうね」
「いえ、そんなことは――」
文也の言葉にかぶせるように、沙織はさらに言った。
「私には感情がないのです」
「え? どうして?」
文也は驚いて聞き返した。
「そんなものはずいぶん昔になくしてしまいました。感情など目的のためには邪魔にしかなりませんから」
無表情のままに沙織は言った。だが、文也にはその彼女の横顔はどこか淋しそうに見えた。




