表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

二章

 つゆもなしにそうめんを食べようとするヒメを必死で止めながら、私はぼんやりとこれからのことを考えていた。

 原典を手放すつもりはないけれど、そうなるとこの子は私に付きまとうのだろうか。迷子ではないから警察に突き出すわけにもいかないし、とはいえ家から放り出すのも気が進まない。

 「ねえ、あなた」

 「さっきから気になってたけど、ヒメの名前はあなたじゃないー」

 目にも止まらぬ速度でそうめんを食べ終えたヒメは、眠そうな顔をして椅子に背を預けている。喋る言葉もふわふわと心もとない。

 「……ねえ、ヒメ。どこか帰る当てはあるの?」

 「あるけど、いまはないかも。なんの成果もなくお父さまのところには帰りたくないし」

 「お父さまのところって、やっぱり、空の上とか?」

 「ううん、そこの高校の近くにあるマンション」

 場所を聞くと、私が通っている高校の真ん前だった。もともと神さまなんて信じていなかったけれど、信じた途端にどんどんイメージを裏切られていく。庶民派の王さまは親しまれるかもしれないけれど、神さまが庶民派になったところで誰も得しない。

 「でも、あなたが『恋』をくれたら、ヒメは夕飯までに家へ帰れるのー」

 「だーかーらー、渡すつもりはないってば。あとね、ヒメ――私の名前も、『あなた』じゃないよ」

 ここにきて初めて、ヒメは驚きの表情を見せた。もともと大きな眼を大きく見開いて、私の顔をじっと見つめてくる。

 「私の名前は春谷(はるや)文美(あやみ)。あやみって言うの。恋して欲しいなら、まずは相手のこと、知らないと」

 他人に興味を持たないのは、恋以前の問題だ。

 「……アヤミは、恋のことよく知ってるんだね?」

 「そんなにじゃないけど、ヒメよりはね」

 自慢じゃないけれど、誰かに恋したことなんて一度もない。私の平凡に欠けたところがあるとすれば、まさに恋だ。高校二年生くらいになれば、とりあえず一度くらいは恋をしておくのが世の習いだと言うから。

 でも、どうしたら周りの女の子たちのように、焦がれるほどの恋をすることができるんだろう。そんなことを考えてしまう時点で、私にはなにかが足りていないのかもしれない。

 「うん、決めた」

 ヒメは椅子の上に立ち上がり、座った私より頭ひとつ高い所からこちらを見下ろす。

 「アヤミ、ヒメに恋を教えて!」

 「えっ、いや、私も教えられるほど知らないし……」

 「もう決めたのー。アヤミに恋を教えてもらって、原典を貰うまで離れないから」

 面倒なことになったなあ、とは思いつつ、なんだかわくわくしていたのも事実で。ファンタジーとは縁遠かったからこそ、好奇心が抑えられないのだ。

 ヒメが離れてくれないのなら、とりあえず家に住まわせるしかない。出張中の父は問題ないし、他の家族は祖母しかいない。ヒメの外国人みたいな見た目はちょっとした壁だけれど、友達だと説明すればなんとかなるだろう。

 「まあいいけど、私に聞くよりはちゃんと調べたほうがいいんじゃない? 辞書とか引いてさ」

 「辞書……? あめつちの辞書には、恋のことなんて書いてないよ?」

 「それじゃなくて、普通の辞書。おばあちゃんの部屋にあるから、見せてあげるよ」

 ずっと小首を傾げているあたり、ヒメは辞書を見たことがないのだろう。普段から国語辞書を使っていても、祖母の国語大辞典には驚くはずだ。私はヒメの反応を楽しみにしながら祖母の部屋へと向かった。



 おばあちゃん、と障子を隔てて声をかけると、はあい、と柔らかい声が返ってくる。

 障子を開くと、ふんわりとお線香みたいなにおいが漂ってくる。家の中でもおばあちゃんの部屋だけに漂う、落ち着く香り。着物姿でお茶を飲んでいた祖母は、私とヒメの姿を見て優しい笑顔を浮かべた。

 「おや、お友達?」

 「私の友達のヒメ。留学生なんだけど、居候先の家族が用事でいないって言うから、連れてきちゃった。しばらく泊まらせてあげたいと思ってて……いいかな?」

 「いいよいいよ。ふたりだけで寂しい家だからねえ、あなたがよければいつまでいてもいいのよ」

 「ん、ありがと、えーと、おばあちゃん?」

 ぎこちないヒメの言葉に、孫がもうひとり増えたねえ、とおばあちゃんは楽しそうに笑う。

 「あ、それでこの子が国語大辞典を見せて欲しいって言ってて。『こ』の行、最初のほうなんだけど」

 「へえ、日本語の勉強かい? 感心ねえ」

 ヒメはなにか言いたげだったけれど、次々と移り変わる状況についていけないらしい。私としては好都合だ。

 「勉強といえば、辞典の進みはどう? そろそろ次の巻が欲しいころかねえ」

 「うん、夏休みのうちに二冊は進めたいなあ」 

 「なんだか不思議ねえ、聡美は辞典なんて一ページも読まなかったのに」

 聡美、というのは祖母の娘――もういない私の母のこと。あのひとは昔から国語が苦手で、祖母には怒られてばかりだった。そんな母が原典を持っていたのは、皮肉以外のなにものでもない。

 「辞典を写すの、楽しいかい?」

 「楽しいの、かなあ。よくわかんない。ひとつ書くと、また次も書きたいなーって思うだけで。なんで続けてるんだろ、私」

 「なら、わかるまで続けなきゃねえ」

 そうやって話しながら、祖母は本棚から国語大辞典を一冊取り出した。

 ヒメはおそるおそる辞典を受け取ると、呆けた顔で辞典と祖母の顔を見比べる。

 「これ、なに?」

 「これはねえ、言葉をたくさん集めた本。誰かと話すための言葉がたくさん詰まってるの」

 「話すため……? 集めただけじゃないの?」

 「いくらきれいな言葉でも、誰にも聞かれなかったらないのと同じでしょう? 言葉は誰かに伝えるためのものだから」

 不思議そうに首を傾げるヒメの頭をそっと撫でて、祖母は私たちふたりに笑いかけた。というよりは、たぶん、私に笑いかけたんだろう。

 言葉を伝えることを恐れ続けている、私に。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ