二章
つゆもなしにそうめんを食べようとするヒメを必死で止めながら、私はぼんやりとこれからのことを考えていた。
原典を手放すつもりはないけれど、そうなるとこの子は私に付きまとうのだろうか。迷子ではないから警察に突き出すわけにもいかないし、とはいえ家から放り出すのも気が進まない。
「ねえ、あなた」
「さっきから気になってたけど、ヒメの名前はあなたじゃないー」
目にも止まらぬ速度でそうめんを食べ終えたヒメは、眠そうな顔をして椅子に背を預けている。喋る言葉もふわふわと心もとない。
「……ねえ、ヒメ。どこか帰る当てはあるの?」
「あるけど、いまはないかも。なんの成果もなくお父さまのところには帰りたくないし」
「お父さまのところって、やっぱり、空の上とか?」
「ううん、そこの高校の近くにあるマンション」
場所を聞くと、私が通っている高校の真ん前だった。もともと神さまなんて信じていなかったけれど、信じた途端にどんどんイメージを裏切られていく。庶民派の王さまは親しまれるかもしれないけれど、神さまが庶民派になったところで誰も得しない。
「でも、あなたが『恋』をくれたら、ヒメは夕飯までに家へ帰れるのー」
「だーかーらー、渡すつもりはないってば。あとね、ヒメ――私の名前も、『あなた』じゃないよ」
ここにきて初めて、ヒメは驚きの表情を見せた。もともと大きな眼を大きく見開いて、私の顔をじっと見つめてくる。
「私の名前は春谷文美。あやみって言うの。恋して欲しいなら、まずは相手のこと、知らないと」
他人に興味を持たないのは、恋以前の問題だ。
「……アヤミは、恋のことよく知ってるんだね?」
「そんなにじゃないけど、ヒメよりはね」
自慢じゃないけれど、誰かに恋したことなんて一度もない。私の平凡に欠けたところがあるとすれば、まさに恋だ。高校二年生くらいになれば、とりあえず一度くらいは恋をしておくのが世の習いだと言うから。
でも、どうしたら周りの女の子たちのように、焦がれるほどの恋をすることができるんだろう。そんなことを考えてしまう時点で、私にはなにかが足りていないのかもしれない。
「うん、決めた」
ヒメは椅子の上に立ち上がり、座った私より頭ひとつ高い所からこちらを見下ろす。
「アヤミ、ヒメに恋を教えて!」
「えっ、いや、私も教えられるほど知らないし……」
「もう決めたのー。アヤミに恋を教えてもらって、原典を貰うまで離れないから」
面倒なことになったなあ、とは思いつつ、なんだかわくわくしていたのも事実で。ファンタジーとは縁遠かったからこそ、好奇心が抑えられないのだ。
ヒメが離れてくれないのなら、とりあえず家に住まわせるしかない。出張中の父は問題ないし、他の家族は祖母しかいない。ヒメの外国人みたいな見た目はちょっとした壁だけれど、友達だと説明すればなんとかなるだろう。
「まあいいけど、私に聞くよりはちゃんと調べたほうがいいんじゃない? 辞書とか引いてさ」
「辞書……? あめつちの辞書には、恋のことなんて書いてないよ?」
「それじゃなくて、普通の辞書。おばあちゃんの部屋にあるから、見せてあげるよ」
ずっと小首を傾げているあたり、ヒメは辞書を見たことがないのだろう。普段から国語辞書を使っていても、祖母の国語大辞典には驚くはずだ。私はヒメの反応を楽しみにしながら祖母の部屋へと向かった。
□
おばあちゃん、と障子を隔てて声をかけると、はあい、と柔らかい声が返ってくる。
障子を開くと、ふんわりとお線香みたいなにおいが漂ってくる。家の中でもおばあちゃんの部屋だけに漂う、落ち着く香り。着物姿でお茶を飲んでいた祖母は、私とヒメの姿を見て優しい笑顔を浮かべた。
「おや、お友達?」
「私の友達のヒメ。留学生なんだけど、居候先の家族が用事でいないって言うから、連れてきちゃった。しばらく泊まらせてあげたいと思ってて……いいかな?」
「いいよいいよ。ふたりだけで寂しい家だからねえ、あなたがよければいつまでいてもいいのよ」
「ん、ありがと、えーと、おばあちゃん?」
ぎこちないヒメの言葉に、孫がもうひとり増えたねえ、とおばあちゃんは楽しそうに笑う。
「あ、それでこの子が国語大辞典を見せて欲しいって言ってて。『こ』の行、最初のほうなんだけど」
「へえ、日本語の勉強かい? 感心ねえ」
ヒメはなにか言いたげだったけれど、次々と移り変わる状況についていけないらしい。私としては好都合だ。
「勉強といえば、辞典の進みはどう? そろそろ次の巻が欲しいころかねえ」
「うん、夏休みのうちに二冊は進めたいなあ」
「なんだか不思議ねえ、聡美は辞典なんて一ページも読まなかったのに」
聡美、というのは祖母の娘――もういない私の母のこと。あのひとは昔から国語が苦手で、祖母には怒られてばかりだった。そんな母が原典を持っていたのは、皮肉以外のなにものでもない。
「辞典を写すの、楽しいかい?」
「楽しいの、かなあ。よくわかんない。ひとつ書くと、また次も書きたいなーって思うだけで。なんで続けてるんだろ、私」
「なら、わかるまで続けなきゃねえ」
そうやって話しながら、祖母は本棚から国語大辞典を一冊取り出した。
ヒメはおそるおそる辞典を受け取ると、呆けた顔で辞典と祖母の顔を見比べる。
「これ、なに?」
「これはねえ、言葉をたくさん集めた本。誰かと話すための言葉がたくさん詰まってるの」
「話すため……? 集めただけじゃないの?」
「いくらきれいな言葉でも、誰にも聞かれなかったらないのと同じでしょう? 言葉は誰かに伝えるためのものだから」
不思議そうに首を傾げるヒメの頭をそっと撫でて、祖母は私たちふたりに笑いかけた。というよりは、たぶん、私に笑いかけたんだろう。
言葉を伝えることを恐れ続けている、私に。