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新作の合間に書いている短編です。序盤は一気に掲載しますが、それからは不定期になるものと思います。

これまでの作品に比べるとライトなものを意識したつもりです。

 私たちが生きるこの世界では、とにかく奇跡が起こらない。

 小さな偶然を奇跡みたいだと言って盛り上がるくらいが関の山。正真正銘の奇跡なんて、神さまの時代からこちら起きたことがないのだ。

 けれど、その代わりのつもりか、慰めか、神さまは私たちに『魔法』をくれた。

 もちろんそれは、そこら中の空想世界で語りつくされたような全能の秘法なんかじゃない。私たちの魔法では鉄を黄金に変えることも、火炎を振り撒くこともできなくて。

――ただ、言葉に思いを乗せて伝えられるだけ。

 それが神さまから私たちに、そして母から私に受け継がれた魔法だった。



 高校二年生の夏休み。周りの子たちが海へ山へと遊びまわる中、私は延々と国語大辞典を書き写していた。

 辞典のくせに写真集みたいな大判で、巻数も二十巻と長大だ。全巻を給料で揃えた祖母は、事あるごとにこの本を家宝だと言って誇っている。言葉の機微にうとい母なんかは、漬物石の代わりくらいにしか使えないと言ってよく祖母の怒りを買っていたっけ。

 もともと、私は辞書を引くのが好きだった。私たちはなんとなく言葉を知ったような気になっているけれど、辞書を開くとそんな自信はすぐに崩れ落ちてしまう。たったの十七年程度で身につけられる言葉の数なんてたかが知れていて、単語カードで日にひとつずつ言葉を覚えていったところで、死ぬまで終わりが訪れることはない。

 運動も勉強も十人並みだった私は、自分の薄っぺらさを嫌というほど思い知らされていた。けれど、今から楽器や絵を始めようにも、アスリートになろうにも、私はあまりにも平凡に落ち着きすぎていて。そこで私が見つけた『厚いもの』こそ、祖母の国語大辞典だったのだ。

 今年の冬から始めた書き写しは、未だに『う』から始まる言葉までしか進んでいない。とはいえ、ノートはもう何冊も埋まっていて、中指にはペンだこができていた。積み上げたノートを見るたび、私はえもいわれぬ達成感を味わっている。積み上げた分だけ自分の世界が広がったような、不思議な感覚。人から見れば安っぽい気持ちかもしれないけれど、私にとっては宝物だった。

 ちらちらと手元に揺れるカーテンの影をなぞりながら、私はペンを置いて伸びをした。祖母に借りた二冊目もそろそろ終わり。ここまで来ると書いた文字の量も相当で、国語のテストで漢字が書きやすくなったのを実感するほどだ。

 腕をぐるぐると回したり、凝った肩を叩いたりしながら、部屋のカーテンを開く。熱気をまとった夏の風が部屋の中でぐるりと渦巻き、逃げていった。強い日差しに目を細めながら、私は靴下を脱いで窓の外へ出る。自室は二階にあって、窓から出ると一階の縁側の上、瓦屋根に出ることができるのだ。もちろん夏場だから瓦は焼けるように熱くなっているけれど、この窓辺には小さな日陰があって、ちょっと我慢すればぺったりと座り込める。

 ここから見渡す町の景色が好きで、晴れた日はほとんどこうして屋根に出ていた。見渡す限り、目立つような建物は特にない。のっぺりと、地面にへばりつくように小さな家々が肩を寄せ合い、ときたま分譲マンションが頭を出しているくらい。横たわる川は見えても、注ぐ先の海は見えなくて。

――太陽に雲が掛かり、日差しが柔らかく弱まって。ようやく眩しさに慣れた私の目に、『奇跡』が映った。

 純白の絹を何枚も何枚も縫い合わせたワンピースが、眼前の空中に浮かんでいた。一枚一枚の布が風をはらんで膨らみ、魚のひれのように波打つ。こちらへ降りてくるにつれて布の動きも落ち着き、ようやく中から少女の姿が見えてきた。

 日の光を通しそうなほど透きとおった金色の髪、そんな白人みたいな髪色に反して、肌の色は日焼けした小麦色。普通の人間なら、中学生くらいだろうか。顔つきや身体つきは幼くて、けれど気圧されてしまうほどの荘厳さを纏っている。天使とか妖精の類に会ったことはないけれど、たぶん彼女はそういう生き物だ。

 なにより私の目を引いたのは、彼女が胸に抱え込んだ一冊の本。大きさ、厚さ、共に祖母の国語大辞典を優に超えている。今時の本にはありえないほど豪華な装丁で、表紙や背表紙の隅は銀色の金具で飾られ、必要以上に大きな南京錠で封までされていた。タイトルの金文字は見たこともない言語で書かれていて、どんな内容なのかさっぱり想像もつかない。

 思わず立ち上がった私の隣へ、すれ違うように少女は舞い降りた。視線は合わず、揺れるワンピースが私の腕をなぞるだけ。

 「あなたが原典(オリジナル)の持ち主?」

 私は一言も言葉を返せずに、ゆっくりと頷いた。誰にも教えたことはないけれど、確かに私は言葉の『原典』を持っている。それは母から託された、魔法のかけら。

 「それじゃあ、あなたの『恋』、もらうね」

 すうっ、と。少女の冷たい両手が私の首筋に触れて、春風よりも弱い力で私を引っ張った。

 視線を合わせて欲しいのかな、なんて気を回して、私は膝立ちになって少女と向かい合う。くりくりとした黒い瞳が近くなって、思わずその美しさに見入ってしまう。我ながら危機意識が低すぎると思うけれど、この時は尋常ではない力に当てられていたのだ。

 少女は右手を私の首からするすると頬にまで移し、そのまま自分のくちびるを私のくちびるに近づけて――

 「だ、だめっ!」

 そこでようやく、魅了が解けた。私は少女の肩を掴んで自分から引き剥がし、素早く自室へ退避して窓を閉じる。とりあえずカーテンも。あ、あぶない。原典どころか、あと少しでファーストキスまで持っていかれるところだった。

 「あの、もしもし? 『恋』の原典をもらいにきたのー。ここ、開けて?」

 こんこん、と窓を叩く音。どうやら諦めるつもりはないようだし、このままではらちが明かない。私は頭を抱えながら、閉めたばかりのカーテンに手を伸ばす。


――穏やかで凡庸なる私の人生に、ひとつの奇跡が、降ってきた。


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