日本書紀の海へ 六
「日本書紀が、かくまで出雲王朝史を削除しているとは正直思わなかったね。僕も含めて、少しばかりの歴史通は原典等に接しないから、古事記の話も日本書紀の話もごちゃ混ぜになってしまっているのだな。日本書紀は、そうしたごちゃ混ぜ感をたくみに利用しているところがあるね。『一書にいわく』などと十以上の書を引用しながら、書名を伏せて引用するというアンフェアーな書き方をしている。本文と十書の書き方は当然異なるから、事実が漠然としてしまう。そうして後に残る印象は多様な確かめのない過去なんだよ。こうした、書き方が僕に許されるのなら『宇宙人が日本人の祖先だった』みたいな話も簡単に出来てしまうはずだね。・・・たとえば、日本歴史の最初にこう書くとする。『祖先家族は遙かな空から降り立った。その数は千人を超えていた。家族を乗せた、銀色の天空舟は音もなく非常にゆっくり緑に充たされた大地に接近した。一書に曰く、十人の家族百組を乗せた天行く船は、十台あった。轟音とともに、垂直に山の地にそれは降り立った。一書に曰く、一万人を乗せた舟は突然、砂浜に出現した。三日後に、舟の一部があき、階段がするすると下に伸びた。一書に曰く、空を翔る舟は真っ黒で長方形の巨大な箱であった。空中百㍍に、突然出現すると、三年そこに留まった。嵐や雪や大雨に、それは微動だにしなかった。やがて舟は静かに地に降りた。一書に曰く、千人の人が、空中から突然あらわれた。遠い星で転送装置に乗った人々だった。十人ずつが三カ所から湧いて出た。(注、ここに言う一書は全て失われた)・・・どうだ、こう書いたものを日本書紀の冒頭に入れるだけで、それ真実だかウソか見分けがつかなくなってしまうね。そして、こういうやり口、今は存在しない原典を名を隠して引用することは、歴史著述としては比類のない卑劣なやり方ではないだろうか。こうした日本書紀の記述のスタイルは独特のものだな。嘘つき放題なら、わざわざ『一書』から引用してこなくてもよいのだが、引用したことを記すのは、あるていど、史実を大事にしているからなのだろうね。史実を大事にしないならば、引用したことを書かず本文として記すだけ十分だ。書名を隠すのは、書名を記すことで、場合によっては真実の歴史が暴露されてしまうからなのだと思う。たとえばこんな書名だったらどうだろう。『倭国王朝史』『筑紫王朝史』『出雲王朝史』『吉備王朝史』『蘇我氏家伝』『邪馬台国歴伝』『百済日本関係史』『大和古王朝遺文』『武蔵・東国王朝史』『蝦夷国伝聞』・・・これだけで、おや、こんな国があったのかと解ってしまうね。また、それらの書が焚書されたことも、まざまざと脳裏にうかんでしまうにちがいないからね。