日本書紀の海へ 三
祐司は言った。「つまり出雲王朝の始祖であるスサノオは古事記と日本書紀で書かれ方がひどく違うと言うことですね。古事記では、スサノオは領地である海原を与えられたと書かれているのに、書紀では、スサノオは、あきらかに国王であるのに、そのことにはあえて触れずにあいまいにして、民を苦しめ暴虐であったから、根の国に追放されたと、最悪な人物として書かれていると言うことですか」
「そう、僕の言いたいことはそういうことだよ。しかも『海原』という表現を消し去ってしまっているということだね。大和朝廷が立ち上がってくる時代の前に、日本海沿岸王朝があったことを書紀は隠してしまっているのだと考えられる」
「スサノオの子孫の出雲王大国主が、アマテラスの支配する高天原から使わされた建御雷神の恫喝によって国を譲るという話が『出雲の国譲り』という話なんですが、一説には、この話は全くの作り話だといわれています。しかし、出雲王朝の存在については記紀の伝承以外にも有力な証拠があります。『出雲国風土記』は和銅六年(713年)、官命によって作り上げられた、諸国の地誌『風土記』の一冊なのですが、それによれば、こう書かれているんですね。・・・母理里。天の下をお造りになった大神大穴持尊が越の国の八口を平らげて帰られるときに言われた。『私が作って治めている国は、天つ神のご子孫である天皇が、平安に世を治められるようにお任せします。ただし、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として守ります』と。だから、今その地をモリと呼ぶ。・・・この文に登場するオオアナモチノミコトは、記紀に登場する神々と別系統の神で、
天地創造の神と説明されていて、考えるに、出雲王朝の祖霊と考えられます。このような出雲王朝が高天原に譲られた、という事は、この出雲風土記によっても事実であったと確かめられますね」
「まあ、古くからの出雲王朝が、やがて大和の勢力に侵蝕される、歴史的事実を、これらの文章は示しているのだろうね。古事記の前半の部分は、僕の考えでは出雲王朝史であったのではないかと僕は考えているんだけど、・・・こうした、基本プランを考えたのは太安麻呂かもしれないね・・・書紀は出雲王朝史のスサノオを大和王朝史に引きずりこむ事によって、大和王朝史を多彩で膨らみのあるものにすることが出来ているように思える。今から、そう考える根拠を、古事記と日本書紀を見比べながら示そうと思うのだ」