日本書紀の海へ 一 出帆
翌日、祐司が午後になってやって来た。
「先生、退院おめでとうございます」
「よせやい。他人行儀だな。これから又、チャーハンやインスタントラーメンを食べなきゃいけないかと思うと、ちょっと嫌なんだから。それに洗濯もしなきゃいけないし」
「病院はホテルではありません」
「ああ、もう少し有名作家なら、ホテルに住んでしまうのにな!」
「収入ほしさに、仕事に追いまくられるよりは、少し料理に手を染めて『詩人のレシピ』なんて本を出して、コツコツ稼ぐ方が楽ですよ」
「うむ。それは良いアイデアだな。チャーハンだけでなく詩人ステーキとかポエム丼とか料理を工夫しなくちゃね。そう言えば池波正太郎に鬼平料理帳というのがあったね。ハハハ・・・さて、さて冗談はこのぐらいにして本題に入るとするか。」
「そうですね」
「太安麻呂が日本書紀の総ディレクターであるか誰であるに関わりなく日本書紀が相当派手にフィクションを作り上げていることは、日本書紀の記事と唐の史書や韓国の史書の倭伝と、ぜんぜん整合しないところをみても判断できるのではないだろうか。しかし、このフィクションは、なかなか良く出来上がっていて、時とすると真実と思えるように出来ている。日本書紀は現代のページ数にすると2000ページに及ぶ膨大なもので、何人かに分けて分担したことが解っているが、それにしても全篇に渡る編集は、相当に文才がある者が手がけているように思える。僕はね、この総ディレクターとも言うべき人間が太安麻呂であったと思うのだよ。太安麻呂は書紀、続日本紀に執筆者として登場することはないが、古事記の序文・朝廷における日本書紀の講議や和歌会の記録に執筆者として名前がみえる。特に重要なのは、書紀が出来上がった直後の講議に、代表の博士として解説をしたという記事がある事だね。歴史の教科書などで、いまだに太安麻呂が古事記や日本書紀の製作を担当したことになっているのは、古事記の序文に、花火でも打ち上げるような麗々しい、太安麻呂の見事な文章があるからなのだ。この古事記の華々しい打ち上げ花火と打って変わった書紀&続日本紀の安麻呂に関する沈黙・無視は一体何なんだろうね?安麻呂の位階が上がったとか、子孫である多氏に関する記事は何カ所か見えるのだが、これらは史書成立とは関係なしなのだね。僕にはその結論が、いくらか見えているんだ。結論的に言うと、嘘も書いているが、真実にいたるヒントもたくさんばらまいている、そうした行為への怒りが、正史をして太安麻呂を隠蔽させている原因ではないかな。・・・書紀の嘘と真実をこれから、細かくあたっていこうと思う。そうするとそれが、どんなに計算されているか解ると思うのだ」