詩人の退院
ついに、院長から退院の宣告がなされた。「田沼先生、もうあなたはしっかり健康です。まあ、お酒が過度にならなければ、これからは大丈夫です。ご承知のように、医療制度は健康な人は入院できない仕組みになってましてね、そろそろ退院をお願いしたいですな」
「そうか、もうそろそろかと思っていたが。やはりな・・・それでは、丘の上の我が家に戻るとするか。院長さん、また、そのうち帰ってきますから、その時は頼みますよ」
「なんだか、ひどく残念そうですね」
「稲村ヶ崎の丘の上の家なんてのは聞こえが良いけど、食堂はないし、あるのはコンビニと蕎麦屋だけ。江ノ電の住宅地なんてのは不便なものだよ。毎日店屋物というのも嫌だしね、そば屋のカミさんに、家庭の料理を分けて貰って店で食べているんだからね。やれやれまた居候みたいな生活がはじまるか」
「勘弁してくださいよ。先生を島流しにするわけではないんですから」
田沼は沙也香君に声をかけて、病室の片付けに来て貰った。パソコンが一台・本が数十冊・洗面器・歯ブラシ・石けん・使い捨てT字カミソリ・ボーズの卓上CD再生装置・ノート・ウクレレ・楽譜・パジャマ・普段着・下着・老眼鏡二本、などなどわずか3ヶ月の入院であったが、随分雑物が増えたと田沼は思った。時間になったらタクシーが来てくれる。それまでに荷物をまとめねばならない。
「先生、これは捨ててもいいですか?」
「いや。整理はあとでするから、取りあえずタクシーに乗せてしまおう」
「向こうに持ってったて片付きませんよ。この、雑誌の束は捨てて貰った方が良いんじゃないですか。結構な量だし」
「いいの、つべこべ言わず、みんな持って行くの」
「あきれた」
二人は丘と言うか小山というか、窓を開けると江の島が銀板の海に浮かぶのが見える、こじんまりとした、よく言えば詩人の室生犀星の軽井沢の別荘、悪く言えば、信州信濃の小林一茶の遂の住みかの土蔵のような家具の少ない田沼の住宅に着いた。
田沼が、ソファーに腰を下ろしている間に、沙也香はきびきびと動いて、持ってきたものを、それぞれ所定の位置に納めた。
「先生済みましたよ」
「ああ、ありがとう。もう昼になるね。沙也香君引っ越しそばでも、その電話で頼んでくれるかな。ああ、中華の天宝でもいいな。どうする?」
「やはり、いつも家庭料理のお世話になっているおそば屋さんの由比蕎麦さんがいいんじゃないですか」
「そうだね。僕は鴨ネギ蕎麦がいいな。君は?」
「鍋焼きうどんでがいいですか」
二人は、出前の物を食べ終わって、コーヒーを飲んでいる。これも病院から持ち帰ったものだ。田沼のリビングの回りには、ガラス入りの本棚が囲んでいる。リビングの片隅には、低い和机と座布団が置いてある。田沼の執筆場所だ。応接セットはテーブルをはさんで長いソファーが二つである。執筆に疲れると田沼はソファーに横たわるのだ。