太安麻呂の野心 六
「日本世記の引用の部分の原文はこうなんだ・・・高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。春秋智、借大将軍蘇定方之手、挟撃百済之亡。或曰、百済自亡。由君太夫人妖女之無道、壇奪國柄、誅殺賢良故、召斯禍矣。可不愼歟。々々々々。・・・『云々』『々々々々』は現代語訳では本来は『七月なんとかかんとか』『などなどなどなど』と訳すべきだとおもうのだが、それでは格好が悪いので、、そこら辺はうまくごまかしてあるようだ。これは僕の考えるには、もっと時間があれば、引用文を編集して、この箇所に入れようという目印に過ぎなかったのに、そのままにされてしまって、本文になってしまったということではないかと思う。まあ、こういうことからも日本書紀が生煮えの料理、または未完成の交響楽である証拠の一つといえないかな。書紀は藤原不比等死亡の前に完成されねばならなかった。完成までは、まだまだ編集せねばならない事を山ほど抱えていたのに、未完成のままに、形を整えて完成と言うことにされてしまった。それ以後は、日本書紀に手を加えるのは『聖典』ということで禁じられていたであろうから、そうした未完成品が今に伝わる日本書紀だと思うのだ。
しかし日本書紀は細部において急ぎの生煮えの料理ながら、基本的な構成や捏造は骨組みはできあがっていたように思えるんだ。・・天智天皇と藤原鎌足が蘇我氏を討ち滅ぼした、この出来事を『大化の改新』と呼んでいるんだが、これは、実質的に朝廷の権力を握っていた蘇我氏を滅して天皇家が久しぶりに権力をとりもどした出来事なので日本最初の『大化』という年号を孝徳天皇四年(645年)につくりあげるんだ。それまでは、日本に元号はなく○○天皇○○年と表記していたのだね。
これを日本書紀の記事で見ると、日本最初の年号であるに関わらず、ひどく無感動に、唐突に次のように書かれているのだね。
『皇極天皇の四年を改めて大化元年とした』